2014年12月24日水曜日

説教集B2012年:2011年降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

第1朗読  イザヤ書 9章1~3、5~6節 
        「ダビデの位(くらい)」
第2朗読  テトスへの手紙 2章11~14節 
        「健全な教え」
福音朗読  ルカによる福音書 2章1~14節 
        「イエスの誕生」「羊飼いと天使」

  使徒パウロは今宵の第二朗読に、「全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れました。」と述べていますが、ここで「全ての人」とあるのは、およそ人間としてこの世に生を享けた全ての人を指しており、何億人になるか知りませんが、過去・現在・未来の全人類を指していると思います。聖書の教えによりますと、全能の神の御子メシアは、人祖アダムの罪の穢れを受けた全ての人に救いの恵みを提供するために父なる神から派遣された救い主で、その恵みは時間空間の一切の制約を超えて、遠い過去や未来の人たちにも、既にあの世に移っている死者の霊魂たちにまでも波及するのですから。私たちの想像を絶する、夢のように大きな恵みの力を秘めて、この世に貧しくお生まれになった神の御子は、受難死を遂げてあの世の神の命に復活なされた後にも、もはや死ぬことのない霊的人間の体を保持したまま、目に見えないながら時間空間の制約を超越して私たち人類に伴っておられます。復活なされた主は弟子たちに、「世の終わりまであなた方と共にいる」と宣言なさったのですから。その主は、今宵信仰をもってその誕生を記念し感謝する人のためには、霊的に幼児の姿で新たにその人の心の中にお生まれになる、真に神秘な存在であります。これは、この世の人間の理性では知ることのできない大きな宗教的神秘ですが、カトリック教会が2千年来無数の体験に基づいて大切にしているこの伝統的信仰を、私たちも幼子のように素直な心でそのまま受け入れ、それに従いましょう。すると不思議なことに、神の霊がその心の中に働いて、恵みから恵みへと導いて下さるのを体験するようになります。使徒パウロも、自分の体験に基づいて書いているのだと思います。

  既にお読みになった方もおられるかと思いますが、明治天皇の孫にあたる中丸薫さんが、2年前の11月から12月にかけて、徳間書房から『いよいよ2012年、さあ、こんな世の中にしよう』という本を出版しました。著者の中丸さんはアメリカのコロンビア大学政治学部で学び、そこの大学院も卒業して、先端を行く多くの学者たちから得た情報に基づき他にも数点、文芸社や徳間書房から著書を出版していますが、この『いよいよ2012』の著書は、現代世界の動きに危機感を深めている人が多いせいか、多くの人に読まれているようです。私も一年ほど前に入手して読みました。中丸さんはその中で、2012年に現代世界の流れが大きく変わるであろう、というような予想を表明していますが、その前触れでしょうか、今年の春以来の世界の流れを回顧しますと、東日本大震災と原発事故を始めとして、各地で集中豪雨や土砂崩れなどに襲われたわが国だけではなく、欧米諸国も深刻な経済問題を抱えたり、長年安定していたアラブ諸国でもさまざまの不穏な動きが始まったりしています。それらの諸問題は来年にはもっと大きく膨らんで、人類全体を大きな社会不安に巻き込んで行くかも知れません。中丸さんはしかし、この大きな変動期に日本人が目覚めて立ち上がり、新たに活躍するのではないか、と考えているようです。

  しかし、日本がまだ貧しかった明治・大正期や昭和前期に厳しい心の教育を受けた日本人と違って、経済的に大きく発展し豊かになり始めてから育って来た現代の若手や中堅層の日本人に、果たしてアジア諸国でも吹き荒れると思われるこれからの社会的危機に耐えて、アジアを、また世界をリードして新しい世界秩序を打ち立てるようなことができるであろうか、などと甚だ疑問に思われます。日本の各地には、有能で精神的にもしっかりと立っている個人が、まだ少なからず存在していると思います。しかし、高度に発達した機械文明の中で生まれ育ち、能力主義・自由主義の教育を受けて、自分中心に家族も社会も利用しようとする生き方に慣れている非常に多くの日本人が足枷となって、有能な少数者の活躍を妨げることでしょう。1960年代、70年代には日本の経済発展のため、会社の計画に全面的に従って働く我なしの日本人がまだ大勢いて日本経済は急速に発展し、家族的に堅く団結し、「会社人間」と呼ばれていた日本人たちの活躍は、外国人の注目を浴びていました。しかし、80年代には経営者もサラリーマンも自分の利益や自分の考えを第一にし始めたのか、会社を変更する日本人が続出するようになり、「会社人間」という言葉も消えてしまいました。各人が何よりも自分の望みや好みを第一にし、そのためには神をも社会をも利用しようとするこの個人主義社会の趨勢は、最近のIT文明(情報技術文明)の普及により、今や世界的に広まりつつあるように見えます。神への従順を基盤にして堅く一つにまとまっていたイスラム諸国でも、これ迄の独裁者たちの権威が、新しい情報技術で団結した不特定多数の民衆によって揺がされ、崩壊しつつあります。2012年には、このような国家や経済の内的崩壊が世界中に広まるかも知れません。

  私は個人的に、似たような内的崩壊が2千年前のユダヤでも進行していたのではないか、と考えています。ローマ帝国が安定した国際平和を確立し、シルクロード貿易を積極的に援助すると、商工業が急速に発展して社会は豊かになり、海外から訪れる無数の巡礼者たちからの上がりで、ユダヤ教指導層も豊かになりました。しかし、国内外の人口移動も激しくなり、ギリシャ・ローマ文明の個人主義・自由主義の普及で信仰や道徳の乱れが、ユダヤ教指導層にまでも広まっていたと思われます。神は神中心主義の預言者的精神を失い、この世の富と豊かさを崇める人間の欲望中心主義によって、貧富の格差が拡大しつつあった当時のユダヤ社会に、かねて預言者たちを介して約束しておられたメシアを派遣なさいました。このメシアは父なる神の御独り子で神ですが、聖書によると神の力と栄光を深く隠して、この世の一切の富を退けたベトレヘムの家畜置き場で、夜に人知れずか弱い乳飲み子の姿でお生まれになりました。父なる神は天使を派遣してその子の誕生を人類に告げ知らせましたが、その知らせを最初に受けたのは、当時の社会で最も貧しい生活を営んでいたベトレヘムの羊飼いたちでした。ユダヤ教の祭司たちや、聖書を研究して民衆に教えていたファリサイ派の教師たちは、東方の博士たちが人類の救い主誕生の徴が星空に現れたのを見て、遠路はるばるそのメシアを拝みに来ても、「聖書によるとベトレヘムに生まれる筈だ」と教えただけで、赤貧の内に幼児となってお生まれになったその幼児メシアを、自分たちは訪ねようとはしませんでした。商工業の国際的発展によって急速に豊かになった当時の社会が、人間の欲望に起因する各種の矛盾を抱えて内側から崩壊しつつあるのを、実生活に基づいて痛感させられていた人たちは、もはや人間の政治や富の力に頼らずに、ひたすら神の憐れみと御保護を祈り求めていたと思われますが、神はそのような心の人たちに、その人たちが聖書の教えは何も知らなくても、またユダヤ教の割礼やキリスト教の洗礼などは受けていなくても、この世にお生まれになった救い主を最初に拝んで、大きな希望と喜びの内にこの世の人生を逞しく生き抜く力と導きとを、お与えになったのではないでしょうか。

  現代の私たちも、ある意味で似たような状況に置かれていると思います。現代世界の抱えている各種の現実的難問を解決する力は、今ではどこの国の政治や経済にも期待できなくなっていると思います。どこの国もそれぞれ深刻な国内問題を抱えているように見えるからです。このような時代には、何よりもこの全宇宙の創造主で所有主でもあられる神に心の眼を向け、その時その時の神の導きに従って生きようと努めるのが賢明だと思います。これはこれまでの人生で運命の神からの数多くの導きや助けを、小刻みに体験して来た私の確信であります。聖書や教会の教えなどは知らなくても構いません。今生きている日常茶飯事の中で復活の主キリストや父なる神に心を向け、その声なき御声に聞き従おうと心掛けていますと、神は不思議に導き助けて下さいます。あの世の神は私たち各人を、実際に導こう助けようとしておられると思います。もし私たちが日々神に従おうとしているならば。

  十日程前に私は、悪夢に悩まされることが多いと聞くある病人を訪問し、次のような予感を得ることができて、その病人に感謝しています。それは、福音書の記事から知られるように、2千年前にメシアがこの世にお出でになったら、悪霊たちがいろいろな人たちにとりついて周辺の人々を悩ませたようですが、終末的様相を濃くしている現代社会でも、悪霊たちが活発に働き始めており、想定外の様々な悲劇や事件を世界の各地で発生させているのではなかろうか、この不吉な動向は今後ますます広まるであろう、という予感であります。人祖アダムたちに自分中心・人間中心の罪を犯させて私たちの人間性を変質させ、この世をも死と苦しみの支配する世界に変質させた悪霊は、極度に発達した現代技術文明の豊かさと便利さの中で、一部の人の心に、本来神の御前では幼児のように何の権利も資格もない存在なのに、自分には神に対しても親に対しても自分独自の権利があるかのように思い込ませ、この権利を失ったら自分は生きて行けないなどと言わせる程、その人の心を悪魔的な個人主義や自我主張に引き込もうとしているように思われます。近年わが国でも、衝動的な無差別殺戮や、昔には考えられなかった程の衝動的事件や詐欺事件などが多発していますが、よその国でも多発しており、私はその背後に目に見えない悪霊たちが働いていると考えます。全能の神である救い主がこの世にか弱い幼児の姿でお生まれになったのは、自分中心・人間中心の「古いアダム」の罪を宿している私たちの心を、この世に生れ落ちた時の貧しく弱く助けを必要としている素直な心に立ち返らせて、神中心に神の助けに支えられて生きるように改心させるためだったのではないでしょうか。その救い主は今宵も、目に見えないながらも霊的に幼児の姿でこの祭壇にお出で下さいます。私たちも幼児の素直な心に立ち返ってその主を歓迎し、主と共に神中心に生きる決心を御捧げ致しましょう。その度合いに応じて、私たちは新しい一年においても神よりの導き・助けの恵みを豊かに受け、平和に生活できると信じます。


  話は違いますが、十数年前にこの聖堂が献堂された時、来賓として出席しておられたその時の三ケ日町の町長さんが、ここで祝辞の挨拶をなさった時、この聖堂で三ケ日町のためにもお祈りして下さい、と依頼されました。私たちはその言葉に従って、始めは三ケ日町のために、しかし間もなく浜松や豊橋などこの東海地方の住民皆のために、三カ月に一回、3月、6月、9月、12月の最後の土曜か日曜日に、この祭壇でミサを捧げてお祈りしています。今宵のミサはその意向で、この地方の住民皆のために捧げていますので、皆様もどうぞ心を合わせてお祈り下さい。私は、神がこの聖堂での私たちの祈りに、特別に慈しみ深くお耳を傾けておられるように感じています。と言うのは、ここ十数年の経験を振り返りますと、北日本でも西日本でも、近年は各地で大小の地震が頻発していますのに、この地方では殆ど地震を経験していないからです。大規模な東海地震の発生は予想され、警告されているのですが、神が私たちの祈りに応えて、それを遅らせておられるのではないでしょうか。幼児のように素直な信頼と従順の心で神のその御慈しみに感謝しつつ、またこれからの一年もお守り下さるよう願い求めつつ、今宵のミサ聖祭を捧げましょう。