2014年12月7日日曜日

説教集B2012年:2011年待降節第2主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節
第2朗読 ペトロの手紙二 3章8~14節
福音朗読 マルコによる福音書 1章1~8節

   ご存じのようにイザヤ書の40章から54章までは、紀元前6世紀に語られた第二イザヤの預言であります。この預言書には、旧約聖書の中でも新約聖書の福音に読まれる喜びと希望に満ちた神よりのメッセージが、最も多く読まれると申してもよいと思います。「慰めよ、私の民を慰めよ」の言葉で始まる本日の第一朗読は、その第二イザヤ書の序曲とも言うべき部分であります。2節には、「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪の全てに倍する報いを主の御手から受けた」とあります。それは天上で主なる神が天使たちに告げられたお言葉なのでしょうか。というのは、3節と4節には、「主のために荒れ野に道を備え、私たちの神のために荒れ地に広い道を通せ。谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」と呼びかける声があって、荒れ地や谷や山に対するこのような変革は、当時の人間には望んでも為し得ないことだからであります。恐らくそれらは神が比喩的な意味でお命じになったことで、目に見える地上の山や丘や谷は以前のままであっても、バビロン捕囚の民が難なく無事にエルサレムに帰れるよう、万事を整えよという意味であろうと思われます。当時バビロン捕囚のユダヤ人たちはまだ新バビロニア王の支配下に置かれていて、廃虚と化した遠いエルサレムの都に帰ることなどは夢のまた夢でしかありませんでしたが、しかし、神のおられる天上の世界では、その民の長年にわたる苦難と祈りとを、かつて犯した罪の償いとして受け入れ、民を再びエルサレムに帰還させる動きが始まったのではないでしょうか。第二イザヤの44章辺りには、ペルシャ王キュロスの名前が登場しており、そのキュロス王によって神のお望みが実現し、エルサレムに神殿再建の基礎が置かれると述べられています。

   私たちの生きている現代世界も、近年様々な自然災害や民族対立・経済不況などで悩まされていますので、世界の将来に明るい若々しい希望を持てずにいる人が少なくないと思われます。しかし、多くの人が行き詰まり状況に悩んでいるこのような時にこそ、神のおられる天上の世界では、新たな救済の動きが始まっているのではないでしょうか。第二イザヤは本日の朗読個所9節と10節で、「見よ、あなた達の神を」「見よ、主なる神を」と力強く呼びかけています。私たちもこの世の社会の絶望的状況や、不安に怯えている人々にばかり目を向けるのではなく、何よりもまず私たちの主なる神に心の眼を向け、善い牧者であられる復活の主の御声に心の耳を傾けていましょう。事態が深刻になっても、恐れる必要はありません。神なる主が、依り頼む全ての人を力強く導き、救い出して下さいます。

   本日の第二朗読には、「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし」「全てのものは滅び去るのです。云々」という恐ろしい言葉が読まれます。魚とりの出身である使徒ペトロは晩年に、旧約の預言者たちのように神から幻示を受け、この世の終末について予見したのでしょうか。しかしその後で、「私たちは義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」と書いていますから、失望することはありません。大きな明るい希望の内に、この世の終末後に現れる栄光の世界を待望していましょう。マルコ1332節によりますと、主は「その日その時は誰も知らない。天の御使いたちも子も知らない。父だけが知っておられる」と話しておられますから、その終末は何かの天体が猛スピードで地球に激突した日に起こるのではないと思われます。もしそうであるなら、天文学者たちは予めその日その時を予測することができるでしょうから。その日は、単にこの地球の終末だけではなく、神がお創りになったこの世の物質的宇宙全体の終末の日だと思います。従って、ちょうど宇宙創造のビッグバーンの時のように、この宇宙全体が超新星爆発よりも遥かに大きな巨大な火になって燃え尽き、そのエネルギーがもはや死ぬことのない全く新しい天と地に生まれ変わるのではないでしょうか。突然火によって滅ぼされると申しても、奥底の心が霊界に結ばれて目覚めている人、よく祈っている人は、神の力によって救い出されるのだと信じます。主はルカ21章にその日の突然の到来を予告なされた後に、「いつも目覚めていなさい。起ころうとしているこれら全ての事から逃れ、人の子の前に立つ力が与えられるように祈りなさい」と勧めておられますし、使徒パウロもテサロニケ後書の1章に、主イエスが「燃え盛る炎に囲まれて天からお現れになる時、あなた方を苦しめている人々には苦しみを、苦しめられているあなた方には」「安らぎを報いとしてお与えになる。云々」と述べていますから。私は聖書のこれらの言葉から個人的に、人祖の罪に穢れたこの世の宇宙の終わりをそのように想像しています。主はまたマタイ24章やルカ17章に、「一人は連れて行かれ、一人は残される」と、ノアの洪水の時のような、その大災害の日のことを予告しておられますが、神への従順に生きていて神によって連れ去られる人が滅びを免れ、後に残される人が滅びに陥るのだと思います。この事も、心に銘記して置きましょう。

   本日の福音の著者マルコは、メシアの先駆者である洗礼者ヨハネの活動からその福音を書き始めています。荒野で「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」と叫んで、人々に悔い改めの洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、「駱駝の毛衣を着て、腰に革の帯を締めていた」とありますが、列王記下の1章によると、天から火を降らせ、天からの火の戦車に乗って天に上げられた預言者エリヤは、「毛衣を着て、腰に革帯を締めていた」と述べられています。聖書からこの預言者エリヤのことを学んでいた洗礼者ヨハネは、ギリシャ・ローマ文明の普及で2千年前のユダヤ社会が豊かになり、国際的人口移動も盛んになって、民衆も宗教者たちもこの世の富と自由に憧れ、あの世の神を遠い存在と考え、この世の営み中心主義の生き方を続けている中で、神から遣わされた神の子メシアを受け入れ、メシアに従うための精神的地盤をユダヤ社会の中に造り上げる使命を神から授かりました。それで、神中心主義の預言者エリヤの模範に倣い、エリヤの精神で貧しく生活しながら、民衆にこの世中心の生き方からの悔い改めを説き続けたのではないでしょうか。しかし、洗礼者ヨハネの預言者的働きは当時の民衆の一部をメシアの弟子としただけで、富に傾いていたユダヤ社会全体の流れを変えることはできず、ヨハネは殉教し、国は滅んで、ユダヤ人は亡国の民と化してしまいました。主イエスは「あなた方は神と富とに仕えることはできない」と強調し、種まきの譬え話の中では、「この世の思い煩いや富の誘惑のために御言葉の種は覆いふさがれて、実を結ぶ事が出来ない」と語られましたが、当時のユダヤ教の指導層の心は、この世の思い煩いや富の誘惑に囚われ過ぎていたのではないでしょうか。


   高度に発達した現代文明の豊かさの中で自由に生きている私たち現代人も、洗礼者ヨハネが身をもって証しした神中心主義のエリヤ精神に学んで、奥底の心の目覚めと悔い改めに努めなければ、やがて来る終末の日に恐ろしい苦難を受けるのではないでしょうか。待降節に当たり、現代人が一人でも多くこの真理に目覚めて、神から悔い改めの恵みを受けるよう祈り求めましょう。