2014年11月30日日曜日

説教集B2012年:2011年待降節第1主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 63章16b~17、19b、64章2b~7節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章3~9節
福音朗読 マルコによる福音書 13章33~37節

    本日の第一朗読は、バビロン捕囚から解放されて帰国し、廃墟と化していたエルサレムの都を見て落胆したイスラエルの民のため、第三イザヤ預言者が、神による救いを切に願い求める長い祈りの言葉であります。「私たちは皆枯れ葉のようになり、」「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたに縋ろうとする者もない」という言葉から察すると、この時のイスラエルの民は一時的に神に対する信仰・信頼までも失う程の、絶望状態に陥ってしまったのかも知れません。でも預言者は、神が御顔を隠して民の力を奪い、そのような深刻な心理状態に突き落とされたのは、民が全能の神の愛と力を自分たちのこの世的繁栄のために利用しようとするような、いわば本末転倒の利己的精神の夢に囚われていたためであることに気づき、その罪を深く反省していたようで、「あなたは私たちの悪の故に力を奪われた。しかし、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの御手の業」と申し上げて、人間主導に神を利用しようとするような精神をかなぐり捨て、創り主であられる神に徹底的に従う精神で神の憐れみを願い求めています。

    父なる神に対するこの徹底的従順は、主キリストや聖母マリアが身をもって実践的に証ししている生き方であり、主の再臨前に起こると思われる数々の恐ろしい試練に耐え抜くためにも、私たちが日頃から実践的に身につけて置くべき生き方だと思います。最近、知識や技術の伝授だけを重視し、心の鍛錬や社会奉仕の精神を軽視した歪んだ戦後教育の不備のためか、物騒な事件が頻発しています。このような時代には、自分の中の「もう一人の自分」と言われる心の奥底の自己をしっかりと目覚めさせ、その自己にそっと伝えられる神からの導きに、主イエスのように従おうとするのが、私たちの表面の心が人間的弱さから産み出して止まない不安に打ち克つ、一番有効な手段であると思います。その奥底の自己の目覚めには、私の個人的体験から申しますと、各人が戴いて命の恵みを神に深く感謝する祈りと奉仕の精神でその感謝を表明する実践とを、日々積み重ねることが大切だと思います。愛深い神は、幼子のように素直な従順心で生活する人の心の中で、特別に働いて下さると信じるからです。

    本日の第二朗読は、使徒パウロがコリントの信徒たちに宛てた最初の書簡の冒頭部分からの引用ですが、その中で使徒は、「主も最後まであなた方をしっかりと支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころがない者にして下さいます」と述べています。この「非の打ちどころがない」という言葉を、何かの画一的な理想像を当て嵌めて受け止めないよう気を付けましょう。私たち各人は皆同じタイプの存在に成るよう神から召され、主キリストに生かされているのではありません。無限に豊かで多様性を愛しておられる神は、私たち各人に夫々親とも他の誰とも違う、全く独自の遺伝子・ヒトゲノムをお与えになって、各人がその人独自の花を咲かせ、その人独自の仕方で永遠に仕合わせな存在になることを望んでおられると信じます。ですから永遠のあの世では、各人はこの世にいた時よりももっと多種多様の花を咲かせ、もっと様々な実を結び続けて、無数の人々と共に神に感謝と讃美の歌を捧げつつ、永遠に自由にまた幸せに生きると考えてよいのではないでしょうか。私は使徒パウロの「非の打ちどころのない者」という言葉で、そのような天国の状態を連想しています。無限に豊かな私たちの神は、それ程私たち各人に多種多様の賜物と喜びを与えて下さる愛の神であると信じます。

    本日の福音の出典であるマルコ福音の13章は、神殿の境内から去って行かれる主に、弟子の一人が「先生、御覧下さい。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう」と話して、エルサレム神殿の美しさを讃えたら、主が「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とお答えになった話から始まっていますが、その後でオリーブ山で神殿の方を向いて座られた主に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの弟子たちが密かに、「そのことは何時起こるのですか」、その時には「どんな徴があるのですか」と尋ねると、主はエルサレム神殿と世の終りの時の徴について長い話をなさいました。そして最後に、「その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけが御存じである」とおっしゃいましたが、そのお言葉に続いて話された警告が、本日の福音であります。短い福音朗読ですが、そこには「眼を覚ましていなさい」という言葉が三回も繰り返されています。また「門番に眼を覚ましているようにと、言いつけて置くようなものだ」「いつ主人が帰って来るか分らないからである」というお言葉もあります。しかし、人間は一晩や二晩は眠らずに起きていることはできても、主キリストの再臨や世の終りは一晩や二晩先の出来事ではありませんので、主がここで話された「眼を覚ましていなさい」は、肉体の目のことではないと思います。それは、私たちの無意識界と言ってよい、奥底の心の眼、霊魂の眼のことだと思います。

    人間は霊魂と肉体とから成る存在で、肉体は他の多くの動物たちと同様に眠りを必要としています。心臓や肺ぞうは眠りませんが、頭脳も目も眠りを必要とする器官です。しかし、霊魂は肉体とは違って眠りを必要とせず、心臓や肺ぞうのように絶えず目覚めていることができます。でも、その霊魂が神の支配しておられる無料奉仕の博愛精神が支配する霊界に生きようとせず、神に背を向けてこの世の物質界の出来事や自分中心の生き方に深入りしてしまいますと、肉体よりも長くて深い眠りに落ちて行くようです。そして神中心の霊界からはますます離れて、この世中心・人間中心の「古いアダムの心」、この世的自力主義の心に支配権を譲り、その支配下であの世の神を忘れたり無視したりして眠り続けるようです。主が言われる「眼を覚ましていない」というお言葉は、そのような眠りから眼を覚まし、神中心の霊界に結ばれて神からの光に照らされ、神からの恵みと愛に生きるように努めなさい、という呼びかけだと思います。クリスマスと新年を間近にしているこの待降節の期間は、主のこのお言葉に従って、私たちの霊魂のそのような目覚めにあらためて心がける時だと思います。


    先日NHKのラジオで、チェロの演奏で特別に優れていた青木十良という音楽家の話を聞きましたが、今96歳というその青木氏が最後に、「自分の人生は一瞬のように感じられる」と語られた言葉に私は感動しました。それは、この世の事物現象に注目している肉体の頭脳からは生まれない感覚、私たちの無意識界に属する霊魂から生まれる感覚だと思ったからでした。私たちの霊魂・奥底の心は、あの世の神の支配する霊界に属していて、既に過去や未来というもののない神の御前での「永遠の今」に生きているのではないでしょうか。ゲーテやその他の多くの偉大な思想家や芸術家たちも、神の御前でのこういう「永遠の今」という次元の存在することについて語っています。私たちの霊魂がそういう「永遠の今」という次元に目覚め、神の働きの器や道具のようになって神主導に生きるのが、主キリストが私たちに示された生き方であり、不安の多い終末の時代にあっても、神の授ける力によって神中心に平穏に生活し、神のため溢れるほど豊かに実を結び続ける生き方なのではないでしょうか。古今東西の優れた芸能人も体験した、あの世の神の働きに支えられ導かれて生きる生き方を、あの世主導の生き方をこの世の人々に体現するために召された私たち修道者も、心がけるべきだと思います。そのための照らしと恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。