2014年11月9日日曜日

説教集A2011年:第32主日(三ケ日)

第1朗読  知恵の書 6章12節~16節

 答唱詩編  10(1, 2, 3)(詩編 63・2, 3+4, 5+6)

 第2朗読  テサロニケの信徒への手紙一 4章13節~18節 △4・13-14

 アレルヤ唱 274(32A)(マタイ24・42a+44)

 福音朗読  マタイによる福音書 25章1節~13節

   本日はこのミサの後、すぐに出発なさる人たちもおられますので、時間の都合で本日の福音からだけ、少し学んでみたいと思います。マタイ福音書24章には、エルサレム滅亡の預言やキリスト再臨の前に起こる様々の徴についての話の後に、2442節に「眼を覚ましていなさい。主が何時の日にお出でになるか、あなた方は知らないから」という御言葉があって、忠実な僕と悪い僕の話が語られています。そして25章には、本日の福音である十人の乙女の譬え話、タラントンの譬え話、また天使たちを従え栄光に包まれて来臨なさる人の子による最後の審判の話が語られています。これら四つの一連の話は、私たちが神から頂戴した信仰の恵みを単に外的に所有しているのではなく、それを心の奥底に根付かせて働かせ、日々目覚めて奉仕的愛の実を結ぶように、と勧めているのだと思います。

   その内、当時の人たちがごく普通に見聞きしている結婚式の例を引き合いに出して話された十人の乙女の譬え話では、愛の実を結ばせる実践の話はありませんが、賢い乙女たちが壺に油を入れて用意していた実践とその灯油は、愛の実を結ぶための霊的命と受け止めてよいと思います。主のこれら四つの話から察すると、洗礼を受けて新約時代の神の民に迎え入れられても、自分の欲のままに飲み食いして仲間の同志を打ち叩いたり、積極的に働かずに神から受けた恵みを土の中に眠らせて置いたり、助けを必要としている弱い者、貧しい者を助けようとしないような怠け者たちが新約の教会の中にもいるようです。本日の譬え話にある愚かな乙女たちは、教会の中のそういう怠け者の組に属していると思います。始めは皆ともし火を持参して、花婿を迎える花嫁の家へと出かけたのですが、その花婿の来るのが非常に遅れたので、皆仮眠をしていました。部族の系図や家の格式などを重視していた当時のユダヤ社会では、花婿・花嫁の両親の間では婚約が結ばれていても、結婚式当日になってから婚宴に招かれた花嫁の一族の中から、その結婚の条件などを巡って花婿の家で煩いことを言い張る人がいたりして、花婿の来るのが真夜中になることもごく稀にあり、話題になっていたようです。主はそんな例をこの譬え話に利用しておられるのだと思います。


   真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がして、乙女たちは皆起きて夫々のともし火を整えたのですが、油を用意していなかった乙女たちのともし火は消えそうになっていました。それで店に油を買いにいっている間に戸が閉められて婚宴が始まり、遅れて来た乙女たちは花婿から「私はお前たちを知らない」と冷たく言い渡されて、婚宴の席には入れてもらえませんでした。主は愚かな乙女たちのこの失敗を例にとって、死の時や世の終りの時のため、「だから、眼を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないのだから」と警告しておられます。油は心の奥底に絶えず保持して置くべき信仰・希望・愛の命を指していると思います。体は眠っていても心臓は絶えず働いているように、奥底の心は眠らずに、絶えずこの霊的命の火を燃やし続けていることはできるのだと思います。