2014年11月2日日曜日

説教集A2011年:第31主日(三ケ日)

 第1朗読  マラキ書 1章14節b~2章2節b,8節~10節
 答唱詩編  74(1, 2)(詩編 131・1+2ab, 2cd+3)
 第2朗読  テサロニケの信徒への手紙一 2章7節b~9節,13節
 アレルヤ唱 270(31A)(マタイ23・9b+10b)
 福音朗読  マタイによる福音書 23章1節~12節

   本日の第一朗読は、旧約聖書最後の書であるマラキ書の、1章の終りと2章前半からの引用であります。バビロン捕囚後の紀元前5世紀にエルサレム神殿は再建されましたが、少し時代が降って旧約時代の末期に入ると、このエルサレム神殿では神の御心を崇め宥めて神に感謝する礼拝が正しく為されていなかったようです。本日の朗読の少し前、マラキ書1章の終りには、「日の出る所から日の入る所まで、諸国で私の名は崇められ、至る所で私の名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」「それなのに、あなた達は」「私をさげすんでいる」「あなた達は盗んできた動物、足の傷ついた動物、病気の動物などを献げ物として携えて来ている」「群れの中には傷のない雄の動物を持っており、それを捧げると誓いながら、傷のあるものを主に捧げる偽り者は呪われよ」という神の厳しい叱責のお言葉があり、そのお言葉に続いて、本日の第一朗読が読まれます。神と先祖たちの間で交わされた契約により、傷のない最も良い雄の動物を燔祭のいけにえとして神に捧げることになっていたのに、旧約末期のエルサレムの祭司たちは、その聖なる契約に背き、神を軽んじ蔑むようないけにえを捧げていたようです。それ故、本日の第一朗読では、「大いなる王で」「諸国の間で畏れられている」「万軍の主なる」神は、祭司たちに宛てて厳しい命令や宣告を告げておられます。「あなた達は道を踏み外し、教えによって多くの人を躓かせ、レビとの契約を破棄してしまった」「私も、あなた達を民の全てに軽んじられる価値なき者とした。あなた達が私の道を守らず、他人を偏り見つつ教えたからだ。云々」と。

   神の民イスラエルの祭司たちが、旧約の末期に初期の情熱や清さを失って世俗化し、神から厳しい叱責を頂戴したように、私たちの生きている現代のキリスト教会も、これ迄の伝統が生活の豊かさと便利さと自由主義や相対主義によって根底から崩壊しつつあるようなグローバル時代、新約時代末期の巨大な過渡期に当たり、使徒時代の宣教熱や清さを失って世俗化し、神から厳しい叱責を頂戴するよう事態に陥りつつあるのではないでしょうか。今年の典礼暦年の終りに、全ての国民を集めてなされる王たるキリストによる審判の福音が読まれる主日が近づいて来ましたら、ふとそのような思いが心に去来するようになりました。

   本日の第二朗読には使徒パウロの珍しい言葉が読まれます。「私たちはあなた方の間で幼児のようになりました」という言葉であります。これは、どういう意味でしょうか。すぐその後には、「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、云々」という言葉が続いていますので、一部の写本ではこの珍しい表現を「優しく振る舞いました」と訳し変えていますが、それでも良いと思います。しかし、私はこの表現のすぐ前にある「私たちはあなた方の間で、キリストの使徒として幅を利かすこともできたのですが」という言葉と関連させて、やはり「幼児のようになりました」で良いと考えます。以前にあるドイツ人の心理学者から聞いた話によりますと、円満に成熟した女性の心の奥には、母親になっても高齢に達しても、いつも若々しく清く美しい娘心が生きていますが、同様に円満に成熟した男性の心の奥にも、いつまでも幼児のような心が生きているのだそうです。使徒パウロたちもそのような心の持ち主で、それが、信仰と愛と希望に輝いていたテサロニケの信徒団に宛てて書簡を認めた時に、このような珍しい表現となって顔を見せたのではないでしょうか。文章を読者に解り易いものに整えようとする翻訳者たちには、この言葉は躓きの石のように見えるかも知れませんが、「幼児のように」という表現は、そのまま大切にして残して置きたいと思います。

   本日の福音は、主が御受難の前に大群衆に歓迎されてエルサレムに入城なさった後に、悪い小作人農夫たちの譬え話や、王子の結婚披露宴への招きの譬え話などを民衆に語って、神から派遣されて来る使者や神の御子を受け入れようとしない律法学者やファリサイ派の生き方を批判してから、群衆と弟子たちに向けてお話しになった説教であります。主は、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座についています。だから、彼らの言うことは全て行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いに見倣ってはなりません。言うだけで実行しないからです」とおっしゃいます。彼らは皆、神を信じています。毎日神に祈り、神から与えられた掟を守ることや、その掟を民衆に教えて守らせることに熱心です。しかし、その心はこの世の社会やこの世にある教会にだけ眼を向けていて、神をどこか遠い天上におられる存在として崇め、今のユダヤ社会を自分たちの人間的理念で指導し導くことだけに専念しており、彼らの現実生活の中での神の現存や神の新しい働き、新しい呼びかけなどは殆ど無視しています。彼らが民衆から「ラビ(先生)」と呼ばれているのは、民衆の信仰を指導する「モーセの座」についているからですが、主はここで、神がそれまでとは異なる新しい形で現存し、新しい働き方を為す時代には、神のみを「父」とし、キリストのみを「教師」として、その導きに従って生活するようにと、お命じになります。

   現代の私たちも現代の教会も、神が新しい形で世界に現存し新しい形でお働きになるそのような大きな過渡期、終末の時代に差し掛かっているのではないでしょうか。近年世界の各地で大地震や想定外の津波や洪水が発生したり、気象が異常な動きを示したりしていますが、私はそれらを、私たちの奥底の心を目覚めさせるため、信仰をもって神の現存を身近に感知しつつ神と共に生きさせるための、神よりの警告や新しい呼びかけと受け止めています。2千年前のファリサイ派のように、神を信奉し日々熱心に神に祈っていても、奥底の心が人間中心の精神で世界や神を利用しているにすぎないような生き方に留まっていたり、神の新しい呼びかけや働きを察知して、すぐにそれに従おうとする神の僕・神の婢の精神で生活しようと努めていなかったりしますと、キリスト時代のファリサイ派やサドカイ派のように、神からの恐ろしい天罰を免れることができないと思います。神はこれからの終末期には、神中心に生きていないこの世の全てを徹底的に滅ぼし、全く新しい復活の栄光に輝く世界に創り変えようとしておられるようですから。

   技術文明が極度に発達し、個人主義・自由主義が世界中に流布しつつある現代社会では、自然界も人間社会も神も、自分中心の考えで自由に利用する生き方に慣れ親しんでいる人が多いようですが、神はこれからの終末時代に、そのような生き方に留まり続ける人を残らず滅ぼされると思います。気を付けましょう。東日本大震災以来「正常化バイアス(bias)」という言葉を時々耳に致しました。これは、「間もなく津波が来ます。すぐにもっと高い所に避難して下さい」という指示を耳にしても、果たしてその津波が来るだろうか、などとこれまでに得た知識や経験などから考え始め、すぐには決断させない心の先入観などを指しているようです。日頃すぐに従うという生き方はしておらず、いつも様々な情報をまず自分で理解してから選択し行動するという生き方に慣らされているからではないでしょうか。東日本大震災の時には、巨大地震の発生から津波の到来まで15分乃至40分前後の余裕があったのに、そのために逃げ遅れて命を失った人が少なくなかったようです。


   岩手県最北端の海岸に位置する洋野(ひろの)町では、北海道の奥尻島での津波などに学んで日頃から大地震の時に避難する道路を各部落毎に整備し、声を掛け合って高台へ避難する訓練をしたり、避難路の草取りをしたりしていたので、津波は15mの高さにまで押し寄せ、住宅や水産業関係の損害は66億円にもなりましたが、死傷者・行方不明者は一人もいない唯一の被災地となりました。やはりマスコミなどの情報を待たずに、大地震の時には声を掛け合ってすぐに高台へ避難するという日頃の訓練が、大切だと思います。大自然を介して示される神からの導きには、自分で理解できなくてもすぐに従うという実践的生き方を日頃から心がけている信仰の人も、そのような場合にすぐに行動して救われると思います。世界各地で異常気象や想定外の災害が多発するかも知れないこれからの時代のため、神からの導きや示しには、自分でその理由を理解できなくてもすぐに従う、神の僕・神の婢の生き方を大切にしていましょう。そして神が私たちの日常茶飯事の中で絶えず私たちに伴っておられ、屡々小さな事を介して私たちの心に呼びかけ、私たちを導いて下さるという、神の現存に対する信仰感覚や、神の導き中心主義の僕・婢の生き方を日々磨いていましょう。それが、これからの不安な時代に正しく賢明に生き抜く生活の知恵だと思います。