2015年2月22日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第1主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 9章8~15節
第2朗読 ペトロの手紙一 3章18~22節
福音朗読 マルコによる福音書 1章12~15節


   本日の第一朗読は、大洪水が終わった後に神がノアとその息子たちに語られたお言葉ですが、「ノアの洪水」と言われている大洪水は、実際に数千年前のメソポタミア平野にあったようです。20世紀前半になされた探検隊の発掘で、途方もないほど広範囲にわたる大規模な洪水の痕跡が明らかにされています。しかし、その洪水の前に全人類はその地方に住んでいて、救われたのはノアとその家族だけであった、などと思わないように気をつけましょう。また救われたのは箱舟の中に導き入れられた動物たちだけで、その他の動物は全て絶滅したなどとも考えないようにしましょう。大洪水に襲われたのはメソポタミア地方だけで、その他のもっと遥かに多くの地方に住んでいた人類や動物たちは皆、無事だったのですから。しかし、神によって滅ぼされたり救われたりしたこの出来事は、全能の神と人類との主従関係を明示して、神が全ての人に向けて警告した大事件でもあったので、全人類向けに一部表現を誇張して語り伝えられた話になったのだと思われます。

   洪水の後に神は、焼き尽くすいけにえを捧げて神を礼拝したノアとその息子たちを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。云々」とかなり長い祝福の言葉を話されました。そして本日の第一朗読にあるように、私は「箱船から出た全てのもののみならず、地の全ての獣とも契約を立てる」とおっしゃって、二度と洪水によって肉なるものをことごとく滅ぼすことも、地を滅ぼすことも決してない、と保証なさいました。実際数千年前のノアの時代に起きた程の大洪水、大雨が40日間も降り続いて、人の住んでいた住宅地の上に洪水のもたらした川砂が3mも堆積した程の大洪水は、その後は世界のどこにも発生していないようです。しかし、人口密度の高くなっている現代では、数日間の大雨でも土砂崩れで道路が寸断されて孤立したり、死亡したりする人が多く、殊に地震と大津波の発生で命を奪われる人が多くなっています。自然界を人間中心にいじくり回して、危ない所にも居住したり道路を造ったりしているのですから、現代人の生活自体が自然災害に対して弱くなっているのだと思います。もっと謙虚になって、絶えず用心し警戒していましょう。

   ところで、今私たちがこの目で見ているこの物質的宇宙世界は、世の終わりの時に崩壊して無に帰してしまうのではなく、その崩壊という一種の死を介して、もはや死ぬことのない全く新しい輝く宇宙世界に生まれ変わり、そこにこの地上で生を享け、主キリストの命に参与して永遠に死ぬことのない体に復活する全ての人間が、神の子らとして永遠に仕合わせに生活し、活躍するのではないでしょうか。神がこノアとその息子たちに、神からの一方的約束である契約の話をなさった時、神はこの罪の世、儚く過ぎ行く仮の世が終わった後のその新しい本来の世界を、念頭に置いておられたのではないでしょうか。マタイ19章では主キリストも弟子たちに、「新しい世界が生まれ人の子が栄光の座に就く時、私に付いて来たあなたたちも12の座に就き、云々」と話しておられます。神からのこの契約、この約束の徴である、天と地を結ぶ虹を仰ぎ見る時、私たちも主の再臨によって復活する世界に対する、信仰と希望を新たに致しましょう。神がアブラハムとその子孫に対して結ばれた契約、すなわち特定の民族に対して結ばれた契約の徴は割礼でしたが、神はここでは「私とあなたたち、並びに全ての生き物との間に立てた契約」の徴として「雲の中に私の虹を置く」、「雲の中に虹が現れると、私はその契約を心に留める」と話しておられるのです。私たちも虹を見る時、神のこのお言葉を思い出し、大きな明るい希望を新たにして、神に感謝をささげましょう。

   本日の第二朗読では使徒ペトロが、受難死を遂げ霊において生きる者とされた主キリストが、ノアの時の大洪水によって滅ぼされ、死後囚われの身とされている霊魂たちの所に行って宣教なさった、と述べています。私たちが日曜・祝日毎に唱えている使徒信条にも、受難死を遂げられたキリストについて、「陰府に降り」という言葉があります。使徒たちは主が陰府にお降りになった目的を、宣教のためと考えていたのかも知れません。としますと、ノアとその家族の8人だけは水の中を通って救われましたが、この水で前もって表されている「水の洗礼」をこの世で受けなかった非常に多くの霊魂たちも、一切の時間的制約を超えて霊的にキリストの宣教と功徳の恵みに浴して救われるのだ、と使徒たちは考えていたのかも知れません。主もルカ13章に、非常に多くの「人々が東から西から、北から南から来て、神の国で宴会につくであろう」と話しておられます。私たちも水の洗礼という外的形に囚われずに、主キリストご自身による霊的な宣教と霊的な洗礼というものもあることを信じつつ、大きく開いた心で、全ての異教徒や全ての人たちの救いのため、希望をもってミサ聖祭や祈りを捧げるよう心がけましょう。「洗礼は、神に正しい良心を願い求めることです」という、本日の使徒ペトロの言葉も、注目に値します。ペトロはこの言葉を書いた時、霊的な洗礼を受ける人たちのことも考えていたと思われます。

   本日の短い福音の前半には、主が40日間荒れ野に留まり、「サタンから誘惑を受けられた」と述べられています。しかし同時に、「その間野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていた」とも述べられています。いずれ神の国で仲良く幸せに暮らすことになる野獣たちを恐れず敵視せずに、明るく開いた心で天使たちの働きに支えられ助けられて生きるのが、この世で受ける試練に耐え抜く道なのではないでしょうか。自分の力だけで悪霊の攻撃に抵抗するのではなく、大きく開いた心であの世の天使たちの援助を呼び込みつつ、内的に全被造物と共に生きるよう努めましょう。


   福音の後半には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主の御言葉が読まれます。主の宣教の根本を端的に言い表している御言葉だと思います。神の国の命と力、救いと喜びは、主と共に既に人々の目前に来ているのです。ここで言われている「悔い改め」は、自分の考えや力で自分の生き方を変えること、改革することではありません。もっと深い、もっと根本的な心の変革を意味しています。すなわち理知的な自分の考えや自分の聖書解釈によってではなく、霊的な神の導き、神の働きに心を開き、神の御旨中心に神の力に頼って生きようとすること、これまでの人間中心・自分中心の生き方に死んで、神中心の神の子としての生き方を始めることを意味しています。その御模範を、神の御子キリストは実際に生きて見せておられるのです。主はご自身の人間的意志で荒れ野に行かれたのではありません。神の霊によって荒れ野へと追い出されたのです。日本語で「送り出した」と訳されている原文の「エクバロー」という動詞は、マルコ福音に16回も登場していますが、悪霊を追い出したり、商人を神殿から追い出したりした時に使われています。従って主も、神の霊によって半ば強制的に荒れ野へ追いやられたのだと思います。四旬節にあたり、神は私たちからも日頃の生き方の悔い改め、神の働きへの徹底的従順の生き方への転向を強く求めておられると思います。荒野で多くの人の罪を償っておられた主のお姿を偲びつつ、私たちも何かの決心を神にお献げ致しましょう。

2015年2月15日日曜日

説教集B2012年:2012年間第7主日(三ケ日)

マルコ2章1-12節

   本日の第一朗読には、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思い出すな。見よ、新しいことを私は行う」という、神の御言葉が読まれます。私たち人間の理性は自分の経験に基づいて合理的に考えるよう造られており、その理性にだけ頼って自分の損得や人間関係などを考える生活を続けていますと、いつの間にかその理性が作り上げた固定化した原則や基準だけを中心にして何事も判断するようになり、物事の外的現象や様相だけを見て楽観したり悲観したり、喜んだり落胆したりし勝ちになります。それらは皆ごく自然な人間的反応ですから、そのこと自体は悪くないのですが、しかし、第二イザヤたちが体験していたバビロン捕囚という、現代の難民のような生活状態を余儀なくされたり、今日の世界的不況のしわ寄せを受けて失業したりしますと、人間理性中心のそんな生き方だけに留まっていては、ストレスが蓄積して健康を害する人が続出すると思います。私たちの生きている今の世界は経済的に大きく発展していた少し前の世界と違って、至る所にこれまでの人々の想定し得なかった不調を産み出し、大きな善意をもって問題解決に努める為政者たちを悩まし続けているようです。前述した神の御言葉は、何よりもそういう不安な状況で生活して人たちへの、神からの呼びかけであると思います。経済不況を抱えて悩む現代人にとっても、古い昔の話として軽視できない全能の神からのお言葉なのではないでしょうか。
   前述した神の御言葉は私たちに、これまでの自分中心・この世の生活中心の心の受け止め方や生き方を変えて、神の御旨中心の受け止め方や生き方へと転換するよう、呼びかけている御言葉と考えることもできます。神はその少し後で、「私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らねばならない。しかしヤコブよ、あなたは私を呼び求めず」「あなたの罪のために私を苦しめ、あなたの悪のために私に重荷を負わせた」などと話しておられるからです。神は最後に、「あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」と、民との和解を提起しておられるのですから、そのお言葉に信頼して自分の希望や計画などは捨て、ひたすら神の御旨、神の御言葉に従って生きようと努めてみましょう。その時、「見よ、私は新しいことを行う」という神の御言葉が、私たちの内に現実になることでしょう。ここで「新しいこと」とあるのは、この第一朗読のすぐ前に、「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方、主は言われる」とありますから、エジプト脱出の時の神のお働きに匹敵するような、神による全く新しい救いの御業を意味している、と受け止めてもよいと思います。神は様々の不安や危険に悩まされている現代の私たちの所でも、イスラエル人のエジプト脱出の時に行われたような大きな奇跡的救いの御業を行おうとしておられるのではないでしょうか。神からの呼びかけに徹底的に聴き従う決意を新たにし、それを実践的に表明するよう努めましょう。その時、神による救いが実際に私たちの間でも働き出し、実現して行くのを体験することでしょう。
   本日の短い第二朗読の中で使徒パウロは、「然り」という言葉を4回も書いています。そこに1回だけ述べられている「アーメン」という言葉は、「確かに」「本当に」「そうあって欲しい」などという同意を表すヘブライ語ですが、ここでは「然り」と同じ意味で使われていると思います。神の御子キリストは、父なる神よりのお言葉にはいつも「然り」「然り」と答えて、そのお言葉に積極的に従おうとしておられたので、神の約束はことごとく主キリストにおいて実現し、私たちも主を通してもたらされた救いの恵みに浴しているのではないでしょうか。私たちも神の御言葉に従って生きる決意を新たにし、感謝の心で主キリストの「然り」一辺倒の精神で生きるならば、使徒パウロのように絶えざる困難危険の中に置かれても、日々神による導きと救いを生き生きと体験し、心の奥にストレスを溜めることなく、逞しく生活することができるでしょう。察するに、使徒パウロも主イエスも、自分の身に到来する幸運や不運その背後にいつも天の御父の愛の御摂理を仰ぎ見て、その喜びや苦しみを喜んで神にお献げしておられたのではないでしょうか。私は、このような生き方が神に対する「然り」の生き方だと思い、その御模範に見習うよう心掛けています。それが、心に隠れたストレスを蓄積することのない、霊的貧者の健康な生き方だと思います。使徒パウロは、不慮の苦しみによって自分がさいなまれ悩めば悩む程、神の福音は諸地方でますます広まり、多くの人に恵みをもたらすことを体験していたようですが、聖ヨハネ・ボスコも、何かの新しい企画や運動が外部からの大きな反対によって妨げられたり、手痛い失策などを経験したりすると、その妨げや失敗を神の御業に反対する悪魔よりのものと見なし、その企画を達成し実現するのが神の御旨である徴しと考えることが多かったようです。私たちも、神の御旨と思って始めた何かの善業が一部の人たちに誤解されて厳しく批判されたような時、心配せずに神に心を向けましょう。2千年前のキリスト時代と同様、これからの終末的に時代には悪霊たちが頻繁に働くと思います。その働きを見て、神の御旨を尋ね求めることにも努めましょう。
   本日の福音には、四人の男が主イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴を開け、中風の人の床をつり下ろした出来事が語られています。邦訳では「中風の人」となっていますが、原文のギリシャ語では「不随の人」という幅広い意味の言葉だそうですので、中風とは違う別の病気で歩けなくなっている身障者かも知れません。しかし、他人の家の屋根をはがして穴を開けてまで、その病人を強引に家の中で話をしておられた主の御前につり下ろすのは、人間社会の倫理上では、言語道断の無礼な行為だと思います。しかし、この世の人間社会の合理的倫理よりも、各人の心の神信仰を重視しておられた主は、その人たちの一途な信仰を喜ばれたようで、その病人に「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃって、その場にいた数人の律法学者たちを混迷させました。しかし、主は「なぜそんな考えを抱くのか。云々」と彼らを批判した後に、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃって、その人を癒されました。いつも人間理性を中心にして考え行動することを退け、万事を神からの呼びかけとして受け止めておられた主の御言葉でもあると思います。私たちも、私たちの平凡な日常茶飯事にいつも伴っておられ、時として思わぬ行為をお求めになる神のお導きに直ちに従うよう、常日頃心がけていましょう。今週から始まる四旬節には、何事にもまず、神からの呼びかけに心の眼を向ける生き方を身につけるよう心がけましょう。

説教集B2012年:2012年間第6主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 3章16~19節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章31~11章1節
福音朗読 マルコによる福音書 1章40~45節

   創世記からの引用である本日の第一朗読は、全被造物を代表して神への従順に背く行為を為した、人祖に言い渡された神からの宣告であります。創世記に描かれている人間の創造も楽園も人祖の罪も、神と私たち人間との内的関係を啓示した一種の神話ですから、実際の歴史的現実界でどのような出来事があったのか、私たちは全く知りません。しかし、聖書に従うと、神は宇宙万物を創造なさる最終段階で「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。云々」と仰せになって、私たち人間をご自身にかたどって男と女に創造し、彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上の生き物を全て支配せよ」と仰せになったとあります。私は神のこれらの言葉から、人間は本来いずれは神に最もよく似た存在に成り、神のように時間空間を超越して至る所に遍在し、被造世界の万物と全ての出来事とを確実に知り、全ての被造物を支配するために創造された存在である、と考えています。このことは全て、受難死を遂げてあの世の命に復活なされた主キリストにおいて実現していますが、今は制約の多いこの罪の世に苦しみつつ生活している私たちも、神への愛と従順により、将来は主キリストと同じ神のような存在に成るよう召されているのではないでしょうか。

   いずれは神のように万物を愛の内に支配するようにと創造された人間が、歴史のどの段階でどのようにして神に背いたのか、その罪を犯した人祖は人類史のどこにいたのか、などのことは全く不明ですが、全被造物を代表して創造神に背いたその罪は、神が時間空間を超越しておられる存在であるため、時間空間を超えて全ての被造物を穢し、この世を宇宙創造の始めから「苦しみの世」にしているのだと思います。事によると、20万年前に始まったと考えられている人類史のずーっと後の段階で、例えば人間の理性が発達した1万年前頃の人間が、神を無視して人間中心主義の生き方を始めたことが、時間空間を超えたあの世におられる神に対する、この世の全被造物を代表しての反逆行為として神に受け止められ、時間空間を超えてこの世の始めからの全ての被造物を穢し、この世を始めから苦しみの世にしているのかも知れません。創世記に描かれている人祖の罪は、その悲惨な現実を古代人に判り易く説明するために作られた神話なのではないでしょうか。

   本日の第一朗読は、その苦しみの一部を象徴的に述べているだけで、この世の万物は宇宙創造の始めから苦しんでおり、使徒パウロはローマ書8章に、全ての被造物は「神の子らの現れを切に待ち望んでいる。被造物は虚無に服しているが、」「希望をもっている」「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子らの栄光に輝く自由に与れるからである。被造物が全て今日まで共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っている。云々」と述べています。万物の創造主であられる神への感謝と愛よりも、私たち人間の欲と楽しみを先にする人間中心の罪な生き方が、私たち自身だけではなく宇宙の万物にまで各種の歪みや苦しみを齎しているのではないでしょうか。大きな明るい夢と期待の内に宇宙万物をお創りになった神の御望みに謙虚に聞き従う心を新たにしながら、神への感謝に生きようとしない無数の現代人の罪を、主と聖母と一致して償うことに心がけましょう。その償いの業の度合いに応じて、私たちは、神が初めに意図しておられた人間存在へと、高められて行くと信じます。

   もしも人間が神に背く罪を犯さず、楽園での苦しみのない生活がいつまでも終わりなく続いていたとしたら、人類は慈しみ深い神の愛に感謝し、神と語り合いながら、また全ての被造物を大切にしながら平和に仲良く生活していたでしょうが、しかし、苦しみや困難の全くない人生を続けているだけで、神の自己犠牲的な無報酬の奥深い愛については、深く理解できずにいたと思います。それを理解するには、数多くの恐ろしい苦難によって奥底の心が揺り動かされ、目覚めて一心に神の助けを願い求めて救われるような、恐ろしい苦難とそこからの救済という「奥底の心の目覚め体験」が必要なのではないでしょうか。青年期壮年期に長年深刻に悩んだことのある聖アウグスティヌスは、洗礼を受けて神の光の中に生活し始めた後に、人祖の犯した罪について「ああ、幸いな罪よ」と讃美しています。その罪によって、もっと大きな深い神の愛の恵みを人類の上に呼び下したからだと思います。死も苦難も、私たちの奥底の心を強く揺り動かして目覚めさせ、もっと大きな恵みを与えるための、神からの恵みなのではないでしょうか。私たちの本当の人生は永遠に死ぬことのないあの世にあり、そこで一層深く神と一致し、一層幸せに生きるためには、この世の苦しみは貴重なお恵みであり、主キリストもそのことを身をもって示しておられると思います。神から与えられる苦しみを恐れないようにしましょう。

   昨年3月の東日本大震災の後に、ジャーナリストの森健氏は、子供たちの眼を通してこの未曾有の大震災を記録することを思い立ち、宮城県と岩手県の避難所を巡回して、子供たちに震災当日の体験とその後の日々のことを作文に書いてもらいました。「えー、作文は無理」と言って子供たちや、「まだ震災から日も浅いので」と固辞する保護者たちもいたそうですが、一部の子供たちは、避難所の床に寝そべりながら、あるいは段ボールを机にしながら、自分の体験を書いてくれたそうです。森氏はその一部を昨年六月号の『文芸春秋』に「被災地で子供たちが書いた作文20」と題して紹介しましたが、間もなく保育園児から高校生までの子供80名の作文を『つなみ、被災地のこども80人の作文集』と題した本にまとめて刊行しています。そして八月号の『文芸春秋』に「親子で読み続けたい、被災地の子供たちの作文」と題して、数名の子供たちの作文から引用したり、それについての保護者や医師たちの評価を載せたりしています。それらを読んで、子供たちの心が大人たちよりも早く震災のショックから立ち直って、前向きにボランティアたちの奉仕活動に感謝したり、死去した親たちがあの世から見守っていた下さるという信頼と新しい意欲とを表明したりしており、それが心の傷に苦しむ親たちのケアにもなっていることに、頼もしさを覚えました。大震災によって奥底の心が目覚め、逞しく生き始めている子供たちは沢山いるのかも知れません。

   本日の第二朗読で使徒パウロは、「何をするにしても、全て神の栄光を現すためにしなさい」と勧めています。余りにも豊かで便利な現代文明の流れの中で生活している私たちにとり、自分中心・人間中心の精神を矯め直すためにも、この勧めは大切だと思います。パウロはこの言葉の少し前に、「全てのことが許されているが、全てのことが益になるわけではない」とも言っています。日常茶飯事の中で出遭う無数の小さな出来事の中で、絶えず神の御旨を尋ね求めながら小さな愛の奉仕に心掛けていますと、不思議に神の小さな助けや巡り合わせ、導きなどを体験します。目前の外的な苦楽や損得などは問題にせず、ひたすら神に眼を向けて、神のお与え下さる苦しみや失敗などを喜んで受け止め、雄々しく生きましょう。


   本日の福音に登場するハンセン病者は、大胆に行動しています。当時ハンセン病で社会から放逐された人は、その病を人に移さないため、死ぬまで人に近づいたり人里に入ったりしてはならない、という規則になっていましたが、主がカファルナウムで多くの病人を奇跡的に癒されたのを密かに耳にしたのでしょうか。この病者は早速社会の規則に公然と背いて、その主の足元にひれ伏し、「お望みならば、私を清くすることがお出来になります」と申し上げました。その大胆さを御覧になって、主も公然と社会の規則に背いて、その病者に手を差し伸べて触れ、「私は望む。清く成れ」とおっしゃり、その病者を癒されました。病者は望むと清くするという二つの動詞を使って簡潔にお願いしましたが、主もその二つの動詞だけを使って癒して下さったのです。人を救うためには、苦しむ人を束縛している社会の規則は無視するという、新約時代の新しい精神もここでははっきりと示されています。私たちも人間社会の規則中心主義ではなく、何よりも愛の神の導きに心を向けながら、大胆に生きるよう心がけましょう。

2015年2月11日水曜日

説教集B2012年:2012年2月11日(安井家で)

第一、第二朗読 創世記2・4b-9、15-17
福音朗読 マルコ7・14-23
読書 コリントの信徒への手紙1 3.1-23

   八年前の216日にあの世に移られたペトロ雅訓(まさのり)様は、今はあの世でペトロ謙様と共に、まだこの世にいる私たちのために祈っていて下さると信じます。昨年の3月に東日本大震災で大勢の人たちが津波で突然に命を失ったら、慈しみ深い神などという者が存在するというのは人間が勝手に作り上げた話で、罪なしに無数の人々が悲惨な最期を遂げたことから思うと、現実にはそんな神も美しい極楽や天国も存在しないのではないか、などと藤原新也というカメラマンが『アエラ』誌の特別号に疑問を呈し、それがマスコミで話題になったこともありますので、本日は聖書の言葉に基づいて神の働きや人間という存在について、ご一緒に少し考えてみたいと思います。

   創世記に描かれている人間の創造も楽園も人祖の罪も、神と私たち人間との内的関係を啓示した一種の神話ですから、実際の歴史的現実界でどのような出来事があったのか、私たちは全く知りません。しかし、聖書に従うと、神は宇宙万物を創造なさる最終段階で「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。云々」と仰せになって、私たち人間をご自身にかたどって男と女に創造し、彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上の生き物を全て支配せよ」と仰せになったとあります。私は神のこれらの言葉から、人間は本来いずれは神に最もよく似た存在に成り、神のように時間空間を超越して至る所に遍在し、被造世界の万物と全ての出来事とを確実に知り、全ての被造物を支配するために創造された存在である、と考えています。このことは全て、受難死を遂げてあの世の命に復活なされた主キリストにおいて実現していますが、今は制約の多いこの罪の世に苦しみつつ生活している私たちも、既にあの世に召された雅訓様たちも、神への愛と従順により、世の終りに復活した後には、主キリストと同じ神のような存在に成るよう召されているのではないでしょうか。

   いずれは神のように万物を愛の内に支配するようにと創造された人間が、歴史のどの段階でどのようにして神に背いたのか、その罪を犯した人祖は人類史のどこにいたのか、などの事は全く不明ですが、全被造物を代表して創造神に背いたその罪は、神が時間空間を超越しておられる存在であるため、時間空間を超えて全ての被造物を穢し、この世を宇宙創造の始めから「苦しみの世」にしているのだと思います。事によると、20万年前に始まったと考えられている人類史のずーっと後の段階で、例えば人間の理性が発達した1万年前頃の人間が、神を無視して人間中心主義の生き方を始めたことが、時間空間を超えたあの世におられる神に対する、この世の全被造物を代表しての反逆行為として神に受け止められ、時間空間を超えてこの世の始めからの全ての被造物を穢し、この世を始めから苦しみの世にしているのかも知れません。創世記に描かれている人祖の罪は、その悲惨な現実を古代人に判り易く説明するために、神によって作られた神話なのではないでしょうか。

   使徒パウロはローマ書8章に、全ての被造物は「神の子らの現れを切に待ち望んでいる。被造物は虚無に服しているが、」「希望をもっている」「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子らの栄光に輝く自由に与れるからである。被造物が全て今日まで共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っている。云々」と述べています。万物の創造主であられる神への感謝と愛よりも、私たち人間の欲と楽しみを先にする人間中心の罪な生き方が、私たち自身だけではなく宇宙の万物にまで各種の歪みや苦しみを齎しているのではないでしょうか。大きな明るい夢と期待の内に宇宙万物をお創りになった神の御望みに謙虚に聞き従う心を新たにしながら、神への感謝に生きようとしない無数の現代人の罪を、主と一致して償うことに心がけましょう。その償いの業の度合いに応じて、私たちは、神が初めに意図しておられた人間存在へと、高められて行くと信じます。

   もしも人間が神に背く罪を犯さず、楽園での苦しみのない生活がいつまでも終わりなく続いていたとしたら、人類は慈しみ深い神の愛に感謝し、神と語り合いながら、また全ての被造物を大切にしながら平和に仲良く生活していたでしょうが、しかし、苦しみや困難の全くない人生を続けているだけで、神の自己犠牲的な無報酬の奥深い愛については、深く理解できずにいたと思います。それを理解するには、数多くの恐ろしい苦難によって奥底の心が揺り動かされ、目覚めて一心に神の助けを願い求めて救われるような、恐ろしい苦難とそこからの救済という「奥底の心の目覚め体験」が必要なのではないでしょうか。青年期壮年期に長年深刻に悩んだことのある聖アウグスティヌスは、洗礼を受けて神の光の中に生活し始めた後に、人祖の犯した罪について「ああ、幸いな罪よ!」と讃美しています。その罪によって、もっと大きな深い神の愛の恵みを人類の上に呼び下したからだと思います。死も苦難も、私たちの奥底の心を強く揺り動かして目覚めさせ、もっと大きな恵みを与えるための、神からの恵みなのではないでしょうか。私たちの本当の人生は永遠に死ぬことのないあの世にあり、そこで一層深く神と一致し、一層幸せに生きるためには、私たちの奥底の心を揺り動かして目覚めさせ、真剣に深く大きく生きるように導くこの世の苦しみは貴重なお恵みであり、主キリストもそのことを身をもって示しておられると思います。

   神から与えられる苦しみを恐れないようにしましょう。余りにも豊かで便利な現代文明の流れの中で生活していますと、私たちの奥底の心は、自分中心・人間中心の生き方の中で眠ってしまい、私たちの本当の永遠に続くあの世の人生のために、もっと真剣に生きよう、もっと豊かな心の実を結ぼうしなくなります。それで神は、人間の魂の一番大切な底力の目覚めのために、時々苦しみを体験させて下さるのだと思います。日常茶飯事の中で出遭う無数の小さな出来事の中で、絶えず神の御旨を尋ね求めながら小さな愛の奉仕に心掛けていますと、不思議に神の小さな助けや巡り合わせ、導きなどを体験します。神のお与え下さる苦しみをも喜んで受け止め、あの世目指して雄々しく生きるよう心がけましょう。


   本日の福音に登場するハンセン病者は、大胆に行動しています。当時ハンセン病で社会から放逐された人は、その病を人に移さないため、死ぬまで人に近づいたり人里に入ったりしてはならない、という規則になっていましたが、主がカファルナウムで多くの病人を奇跡的に癒されたのを密かに耳にしたのでしょうか。この病者は早速社会の規則に公然と背いて、その主の足元にひれ伏し、「お望みならば、私を清くすることがお出来になります」と申し上げました。その大胆さを御覧になって、主も公然と社会の規則に背いて、その病者に手を差し伸べて触れ、「私は望む。清く成れ」とおっしゃり、その病者を癒されました。病者は望むと清くするという二つの動詞を使って簡潔にお願いしましたが、主もその二つの動詞だけを使って癒して下さったのです。人を救うためには、苦しむ人を束縛している社会の規則は無視するという、新約時代の新しい精神もここでははっきりと示されています。私たちも人間社会の規則中心主義ではなく、何よりも愛の神の導きに心を向けながら、大胆に生きるよう心がけましょう。

2015年2月8日日曜日

説教集B2012年:2012年間第5主日(三ケ日)

第1朗読 ヨブ記 7章1~4、6~7節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 9章16~19、22~23節
福音朗読 マルコによる福音書 1章29~39節


   本日の第一朗読はヨブ記からの引用ですが、年齢が進んで書類や小物をどこかに置き忘れたり、普段と違う場所に仕舞い込んだりして、後でそれらの物を探すことの多くなった私は、ヨブがサタンの仕業で息子や娘たちを次々と悲惨な事件で失った時に言った言葉、「主与え、主取り去り給う。主の御名に讃美」という言葉を、その度毎に唱えていますので、この祈りを教えてくれたヨブ記には感謝しています。この祈りを口にして主を讃美しながら、主から頂戴した全ての事物に感謝しつつ探していますと、不思議なほど後でそれらの事物を発見します。時には他の人に迷惑をかけないギリギリの時点で、置き忘れた物を見出すこともあり、悪霊の仕業ではないとしても、主は年老いた私の心に主に対する信頼心を喚起するために、屡々このような物忘れという試練をお遣わしになるのではないか、などと考えています。
   本日の第一朗読は、ヨブの友人エリファズがヨブ記4章、5章に「罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれることがあろうか」という、世の人々が普通に考えている勧善懲悪の人生観に立って、ヨブは自分の意識していない何か隠れた罪のために神の愛を失って、恐ろしい罰を受けていると思ったのか、神がお与えになったその苦しみをひたすら謙虚に受け止め、全能の神の戒めに従う心を新たにするよう、長い詩句を連ねてヨブに勧めたのに応えて、ヨブが語った言葉であります。長年神とのパーソナルな愛の内に神と共に生き、神に忠実に生きて来たヨブは、この世の人間の勧善懲悪的人生観とは違う、神のパーソナルな愛の立場から自分の受けている苦しみについての神の答えを、求めているように見えます。
   ヨブ記38章以降の所で神は直接にヨブに語り、宇宙の創造主であられる神ご自身が、この世の出来事の万事において絶対権を持っておられることをお示しになると、ヨブは「私は軽々しくものを申しました」と恐縮しましたが、神は実際に何の罪も犯していない善人、ご自身が特別に愛しておられる人間に対しても、恐ろしい苦しみを与えることがお出来になる程、人間に対して絶対権を持っておられることを、また神から派遣される罪のないメシアにも、多くの人の救いのために恐ろしい苦しみを与えることがあることを、このヨブ記を通してお示しになったのだと思います。神はその後、勧善懲悪のこの世的価値観の立場からヨブに様々の勧めを語った三人の友人には夫々罰を与え、ヨブには以前にも増して大きな富と幸せをお与えになったことでヨブ記が終わっています。私たちも、自分の人生の意味や、自分がこれまでに為した数々の善業や奉仕活動の意味を考える時、この世の勧善懲悪的価値観や人生観に留まることなく、何よりも宇宙万物の創り主、所有主であられる神に対する感謝とパーソナルな愛の内に、日々の生活を神の御旨のままに営み捧げる決意を新たにするよう心掛けましょう。それが、何一つ罪を犯していない善人にも襲いかかる数々の苦しみを、主キリストと共に多くの人の救いのために耐え忍び乗り越えて、最後には神がお与えになる究極の大きな幸せに至る道であると信じます。

   本日の第二朗読の後半で使徒パウロは、「私は誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。云々」と述べていますが、パウロは実際、一人でも多くの人を神の国へと救い上げるため、福音のために、どんなことでも積極的に挑戦し、成し遂げていた宣教師であったと思います。私たちが生きているこの極度に発達した技術文明世界は、情報技術の普及で各人の自由主義・個人主義・民主主義などの精神が、家庭でも社会でも大きな力を持ち始めたので、今や国も社会も全体を一つに堅くまとめることが難しくなっており、問題の多い国々では、様々な形の分裂や内紛の動きも始まっています。これからの人類は、政治的にも経済的にも深刻な不安に悩まされ続けるのではないでしょうか。このような社会不安の中では、使徒パウロのようにひたすら神からの呼びかけや導きに心を向け、それに積極的に従おうとする生き方が、私たちの心を新しい希望で若返らせ、神からの導き助けを祈り求めつつ、どんな不安や困難に対しても積極的に立ち向かう勇気と意欲と喜びを与えてくれるのではないでしょうか。本日の福音に描かれているカファルナウムでの主のお姿も、そのような積極的生き方の模範を私たちに提示していると思います。マスコミの伝える現代世界や現代社会の動向に、不安や困難がどれ程多くうごめいていようとも、恐れずに、ひたすら全能の神の働きに根ざして生き抜きましょう。それが、不安や困難がいや増すと思われるこれからの時代に、幸せに生きる道だと信じます。

2015年2月1日日曜日

説教集B2012年:2012年間第4主日(三ケ日)

第1朗読 申命記 18章15~20節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 7章32~35節
福音朗読 マルコによる福音書 1章21~28節

   本日の第一朗読は、イスラエルの民が約束の地に入る前にネボの山で死ぬモーセがその民に語った、遺言のような説教であったと思います。その中でモーセは、神はあなたたち同胞の中から、(これからも)「私のような預言者を立てられる。あなたたちは、その人に聞き従わねばならない」と述べています。そしてこのことは、あのシナイ山の麓での集会の日に、山全体が恐ろしい火と煙に包まれ、火の雲に乗って山の上に降られた神が、雷鳴と稲妻の中で権威をもって語られるのに驚き、それを極度に恐れた民が、私たちが二度と神・主の御声を直接に聞くことがないように、またこの大いなる火を見て死ぬことがないようにして下さい、と願い求めたことによるのだ、とモーセはその理由を説明しています。

   その時神がモーセにお語りになった次のお言葉が、この第一朗読の後半に読まれます。「彼らの言うことは、尤もである。私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立てて、その口に私の言葉を授ける。彼は、私が命じることを全て彼らに告げるであろう。彼が私の名によって私の言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、私はその責任を追及する。ただし、その預言者が私の命じていないことを、勝手に私の名によって語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」というお言葉であります。これが、神がそのお考えを私たち人間に伝えるために、神ご自身が直接にお語りになるのではなく、私たちの間に一緒にいる人を介してお語りになるという、ご自身でお選びになった道であると思います。神がいつもモーセやその後継者ヨシュアのように、社会的に民の上に立って強く逞しく導く人を介してお語りになるとは限りません。太祖アブラハムは、社会的にはその土地その土地の支配者たちの下にあって、貧しい遊牧生活を続けているよその国生れの寄留家族の長でしたし、モーセたちの死後2百年近く続いた士師時代には、神は度々民間の小さな預言者、信仰に生きる貧しい農民や婦人たちを介しても民にお語りになり、神の民を守り導いておられます。神の御言葉を受けて伝える人たちの外的人間的容貌や能力の偉大さなどは問わずに、その小さな平凡な人を介して告げられた神の御言葉に対する、信仰と従順の心を実践的に表明するなら、神は信仰をもって従うその人たちを実際に導き助けておられました。神に対する信仰とお任せの心、徹底的従順の精神が何よりも大切だと思います。

   神が人間社会の中の上層部の人を介してよりも、民間で貧しく信仰に生きている人を介してお語りになることは、新約時代になっても続いており、復活なされた主がその民の内に霊的に世の終りまで留まっておられるので、その意味では旧約時代より遥かに数多くなっていると申してもよいと思います。主は一度聖霊によって喜びに溢れ、「天地の主である父よ、私はあなたを褒め称えます。あなたはこれらの事を知恵ある人や賢い人には隠し、小さい者にあらわして下さいました。そうです父よ、これがあなたの御心でした。云々」(ルカ10: 21)と話されたことがありました。天の御父が社会の中で貧しく従順に信仰に生きている、多くの小さい者たちの中で特別にお働きになるのを御覧になって、感動なされたのだと思います。主がこの世にお生まれになった時、その主を真っ先に拝みに来たのも、ベトレヘムの貧しい羊飼いたちでした。天の御父が天使を派遣して、彼らに知らせたからでした。神は、神への信仰や従順を後回しにしていたこの世の支配者や知恵者たちには、天使を派遣なさいませんでした。来る日も来る日も神に助けを願い求めながら、貧しさの中で清く誠実に神信仰に生きている無学な羊飼いたちに、特別に慈しみの御眼を向けておられたのだと思います。これは新約時代における神の働き方を世に示す出来事だったのではないでしょうか。天の御父は、素直な信頼心に生きているこの世の無数の幼い子供たちにも、同様に温かい御眼をかけておられると思います。ですから主も、マタイ18章の中で、「翻って幼児のようにならなければ、天の国には入れない」「このような幼児の一人を私の名の故に受け入れる人は、私を受け入れるのである。しかし、私を信ずるこの小さな者の一人を躓かせる者は、首にロバのひき臼をかけられて、海の深みに沈められる方が増しである」などと話しておられます。私たちも、一度は皆体験し生きていた幼児の心を自分の内に呼び醒まし、全面的信頼と委託と感謝の心で、日々神と共に生きるよう心がけましょう。それが、思わぬ災害や不詳事件が多発する不穏な現代社会にあって、神に護られ導かれて生き抜く道であると信じます。

   クリスマスの日中のミサにもお正月のミサにも申しましたが、昨年9月に故国ドイツを訪れたローマ教皇は、この世のマスコミからかなり激しい非難や攻撃をお受けになりました。それで昔はキリスト教国と言われていたヨーロッパ諸国に対して、新たに福音を宣教する必要性を痛感なされたのか、「ポルタ・フィデイ(信仰の門)」と題する自発教令を発令なさいました。教皇はその中で、今年の10月に第13回シノドス(世界代表司教会議)を、「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」というテーマで開催すること、並びに第二ヴァチカン公会議開幕50周年に当たる今年の1011日から、来年の1124日王たるキリストの祭日までを「信仰年」とすることを発表なさいました。教皇はその自発教令の中で、使徒言行録14: 27に述べられている「信仰の扉」という言葉を引用なさりながら、「私たちを神との交わりの生活へと促し、神の教会へと導き入れる信仰の門は常に開かれている」と述べておられます。今年の秋から始まる「信仰年」は、単に各人がそれぞれの観点から聖書を研究して、各人の信仰を自分なりに深め他の人たちに伝えようとする年ではなく、2千年来の神の子キリストの新しい働きやその伝統を第2ヴァチカン公会議の精神で受け止め、従順と実践によって体得した新しい生き方を、今の世の人たちに伝えようとする年なのではないでしょうか。


   本日の福音には、人間理性を中心にして聖書を研究し、そこから神の民が守り行うべき法規を学び取ろうとしていた当時の律法学者たちのようにではなく、万物を支配し統御なさる神のような権威と力をもって、教えたり悪霊を追い出されたりなされた主イエスのお姿が描かれています。人々は皆驚いて、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が穢れた霊に命じると、その言うことを聞く」などと話し合ったことが述べられています。理知的なこの世の人々の考えや言葉が、高度に発達したマスコミを通じ洪水のように荒れ狂っている世界の岸辺で、すっかり疲れている現代人の心が必要としているのも、あの世の神からのそういう権威ある新しい教え、力ある神ご自身の御言葉なのではないでしょうか。神は現代においても、マスコミを介してではなく、神への従順と信頼の内に神からの呼びかけに耳を傾けている敬虔な人を介して、私たちにお語り下さると思います。そういう人たちは、社会の底辺や一般庶民の中に隠れているかも知れません。隠れた所から私たちを観ておられる神、小さな奉仕や小さな行為に特別に眼を向けておられる父なる神に対する信仰を新たにしながら、あの世からの神の呼びかけに耳を傾け、聴き従うよう心がけましょう。