2015年2月1日日曜日

説教集B2012年:2012年間第4主日(三ケ日)

第1朗読 申命記 18章15~20節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 7章32~35節
福音朗読 マルコによる福音書 1章21~28節

   本日の第一朗読は、イスラエルの民が約束の地に入る前にネボの山で死ぬモーセがその民に語った、遺言のような説教であったと思います。その中でモーセは、神はあなたたち同胞の中から、(これからも)「私のような預言者を立てられる。あなたたちは、その人に聞き従わねばならない」と述べています。そしてこのことは、あのシナイ山の麓での集会の日に、山全体が恐ろしい火と煙に包まれ、火の雲に乗って山の上に降られた神が、雷鳴と稲妻の中で権威をもって語られるのに驚き、それを極度に恐れた民が、私たちが二度と神・主の御声を直接に聞くことがないように、またこの大いなる火を見て死ぬことがないようにして下さい、と願い求めたことによるのだ、とモーセはその理由を説明しています。

   その時神がモーセにお語りになった次のお言葉が、この第一朗読の後半に読まれます。「彼らの言うことは、尤もである。私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立てて、その口に私の言葉を授ける。彼は、私が命じることを全て彼らに告げるであろう。彼が私の名によって私の言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、私はその責任を追及する。ただし、その預言者が私の命じていないことを、勝手に私の名によって語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」というお言葉であります。これが、神がそのお考えを私たち人間に伝えるために、神ご自身が直接にお語りになるのではなく、私たちの間に一緒にいる人を介してお語りになるという、ご自身でお選びになった道であると思います。神がいつもモーセやその後継者ヨシュアのように、社会的に民の上に立って強く逞しく導く人を介してお語りになるとは限りません。太祖アブラハムは、社会的にはその土地その土地の支配者たちの下にあって、貧しい遊牧生活を続けているよその国生れの寄留家族の長でしたし、モーセたちの死後2百年近く続いた士師時代には、神は度々民間の小さな預言者、信仰に生きる貧しい農民や婦人たちを介しても民にお語りになり、神の民を守り導いておられます。神の御言葉を受けて伝える人たちの外的人間的容貌や能力の偉大さなどは問わずに、その小さな平凡な人を介して告げられた神の御言葉に対する、信仰と従順の心を実践的に表明するなら、神は信仰をもって従うその人たちを実際に導き助けておられました。神に対する信仰とお任せの心、徹底的従順の精神が何よりも大切だと思います。

   神が人間社会の中の上層部の人を介してよりも、民間で貧しく信仰に生きている人を介してお語りになることは、新約時代になっても続いており、復活なされた主がその民の内に霊的に世の終りまで留まっておられるので、その意味では旧約時代より遥かに数多くなっていると申してもよいと思います。主は一度聖霊によって喜びに溢れ、「天地の主である父よ、私はあなたを褒め称えます。あなたはこれらの事を知恵ある人や賢い人には隠し、小さい者にあらわして下さいました。そうです父よ、これがあなたの御心でした。云々」(ルカ10: 21)と話されたことがありました。天の御父が社会の中で貧しく従順に信仰に生きている、多くの小さい者たちの中で特別にお働きになるのを御覧になって、感動なされたのだと思います。主がこの世にお生まれになった時、その主を真っ先に拝みに来たのも、ベトレヘムの貧しい羊飼いたちでした。天の御父が天使を派遣して、彼らに知らせたからでした。神は、神への信仰や従順を後回しにしていたこの世の支配者や知恵者たちには、天使を派遣なさいませんでした。来る日も来る日も神に助けを願い求めながら、貧しさの中で清く誠実に神信仰に生きている無学な羊飼いたちに、特別に慈しみの御眼を向けておられたのだと思います。これは新約時代における神の働き方を世に示す出来事だったのではないでしょうか。天の御父は、素直な信頼心に生きているこの世の無数の幼い子供たちにも、同様に温かい御眼をかけておられると思います。ですから主も、マタイ18章の中で、「翻って幼児のようにならなければ、天の国には入れない」「このような幼児の一人を私の名の故に受け入れる人は、私を受け入れるのである。しかし、私を信ずるこの小さな者の一人を躓かせる者は、首にロバのひき臼をかけられて、海の深みに沈められる方が増しである」などと話しておられます。私たちも、一度は皆体験し生きていた幼児の心を自分の内に呼び醒まし、全面的信頼と委託と感謝の心で、日々神と共に生きるよう心がけましょう。それが、思わぬ災害や不詳事件が多発する不穏な現代社会にあって、神に護られ導かれて生き抜く道であると信じます。

   クリスマスの日中のミサにもお正月のミサにも申しましたが、昨年9月に故国ドイツを訪れたローマ教皇は、この世のマスコミからかなり激しい非難や攻撃をお受けになりました。それで昔はキリスト教国と言われていたヨーロッパ諸国に対して、新たに福音を宣教する必要性を痛感なされたのか、「ポルタ・フィデイ(信仰の門)」と題する自発教令を発令なさいました。教皇はその中で、今年の10月に第13回シノドス(世界代表司教会議)を、「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」というテーマで開催すること、並びに第二ヴァチカン公会議開幕50周年に当たる今年の1011日から、来年の1124日王たるキリストの祭日までを「信仰年」とすることを発表なさいました。教皇はその自発教令の中で、使徒言行録14: 27に述べられている「信仰の扉」という言葉を引用なさりながら、「私たちを神との交わりの生活へと促し、神の教会へと導き入れる信仰の門は常に開かれている」と述べておられます。今年の秋から始まる「信仰年」は、単に各人がそれぞれの観点から聖書を研究して、各人の信仰を自分なりに深め他の人たちに伝えようとする年ではなく、2千年来の神の子キリストの新しい働きやその伝統を第2ヴァチカン公会議の精神で受け止め、従順と実践によって体得した新しい生き方を、今の世の人たちに伝えようとする年なのではないでしょうか。


   本日の福音には、人間理性を中心にして聖書を研究し、そこから神の民が守り行うべき法規を学び取ろうとしていた当時の律法学者たちのようにではなく、万物を支配し統御なさる神のような権威と力をもって、教えたり悪霊を追い出されたりなされた主イエスのお姿が描かれています。人々は皆驚いて、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が穢れた霊に命じると、その言うことを聞く」などと話し合ったことが述べられています。理知的なこの世の人々の考えや言葉が、高度に発達したマスコミを通じ洪水のように荒れ狂っている世界の岸辺で、すっかり疲れている現代人の心が必要としているのも、あの世の神からのそういう権威ある新しい教え、力ある神ご自身の御言葉なのではないでしょうか。神は現代においても、マスコミを介してではなく、神への従順と信頼の内に神からの呼びかけに耳を傾けている敬虔な人を介して、私たちにお語り下さると思います。そういう人たちは、社会の底辺や一般庶民の中に隠れているかも知れません。隠れた所から私たちを観ておられる神、小さな奉仕や小さな行為に特別に眼を向けておられる父なる神に対する信仰を新たにしながら、あの世からの神の呼びかけに耳を傾け、聴き従うよう心がけましょう。