2015年2月22日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第1主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 9章8~15節
第2朗読 ペトロの手紙一 3章18~22節
福音朗読 マルコによる福音書 1章12~15節


   本日の第一朗読は、大洪水が終わった後に神がノアとその息子たちに語られたお言葉ですが、「ノアの洪水」と言われている大洪水は、実際に数千年前のメソポタミア平野にあったようです。20世紀前半になされた探検隊の発掘で、途方もないほど広範囲にわたる大規模な洪水の痕跡が明らかにされています。しかし、その洪水の前に全人類はその地方に住んでいて、救われたのはノアとその家族だけであった、などと思わないように気をつけましょう。また救われたのは箱舟の中に導き入れられた動物たちだけで、その他の動物は全て絶滅したなどとも考えないようにしましょう。大洪水に襲われたのはメソポタミア地方だけで、その他のもっと遥かに多くの地方に住んでいた人類や動物たちは皆、無事だったのですから。しかし、神によって滅ぼされたり救われたりしたこの出来事は、全能の神と人類との主従関係を明示して、神が全ての人に向けて警告した大事件でもあったので、全人類向けに一部表現を誇張して語り伝えられた話になったのだと思われます。

   洪水の後に神は、焼き尽くすいけにえを捧げて神を礼拝したノアとその息子たちを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。云々」とかなり長い祝福の言葉を話されました。そして本日の第一朗読にあるように、私は「箱船から出た全てのもののみならず、地の全ての獣とも契約を立てる」とおっしゃって、二度と洪水によって肉なるものをことごとく滅ぼすことも、地を滅ぼすことも決してない、と保証なさいました。実際数千年前のノアの時代に起きた程の大洪水、大雨が40日間も降り続いて、人の住んでいた住宅地の上に洪水のもたらした川砂が3mも堆積した程の大洪水は、その後は世界のどこにも発生していないようです。しかし、人口密度の高くなっている現代では、数日間の大雨でも土砂崩れで道路が寸断されて孤立したり、死亡したりする人が多く、殊に地震と大津波の発生で命を奪われる人が多くなっています。自然界を人間中心にいじくり回して、危ない所にも居住したり道路を造ったりしているのですから、現代人の生活自体が自然災害に対して弱くなっているのだと思います。もっと謙虚になって、絶えず用心し警戒していましょう。

   ところで、今私たちがこの目で見ているこの物質的宇宙世界は、世の終わりの時に崩壊して無に帰してしまうのではなく、その崩壊という一種の死を介して、もはや死ぬことのない全く新しい輝く宇宙世界に生まれ変わり、そこにこの地上で生を享け、主キリストの命に参与して永遠に死ぬことのない体に復活する全ての人間が、神の子らとして永遠に仕合わせに生活し、活躍するのではないでしょうか。神がこノアとその息子たちに、神からの一方的約束である契約の話をなさった時、神はこの罪の世、儚く過ぎ行く仮の世が終わった後のその新しい本来の世界を、念頭に置いておられたのではないでしょうか。マタイ19章では主キリストも弟子たちに、「新しい世界が生まれ人の子が栄光の座に就く時、私に付いて来たあなたたちも12の座に就き、云々」と話しておられます。神からのこの契約、この約束の徴である、天と地を結ぶ虹を仰ぎ見る時、私たちも主の再臨によって復活する世界に対する、信仰と希望を新たに致しましょう。神がアブラハムとその子孫に対して結ばれた契約、すなわち特定の民族に対して結ばれた契約の徴は割礼でしたが、神はここでは「私とあなたたち、並びに全ての生き物との間に立てた契約」の徴として「雲の中に私の虹を置く」、「雲の中に虹が現れると、私はその契約を心に留める」と話しておられるのです。私たちも虹を見る時、神のこのお言葉を思い出し、大きな明るい希望を新たにして、神に感謝をささげましょう。

   本日の第二朗読では使徒ペトロが、受難死を遂げ霊において生きる者とされた主キリストが、ノアの時の大洪水によって滅ぼされ、死後囚われの身とされている霊魂たちの所に行って宣教なさった、と述べています。私たちが日曜・祝日毎に唱えている使徒信条にも、受難死を遂げられたキリストについて、「陰府に降り」という言葉があります。使徒たちは主が陰府にお降りになった目的を、宣教のためと考えていたのかも知れません。としますと、ノアとその家族の8人だけは水の中を通って救われましたが、この水で前もって表されている「水の洗礼」をこの世で受けなかった非常に多くの霊魂たちも、一切の時間的制約を超えて霊的にキリストの宣教と功徳の恵みに浴して救われるのだ、と使徒たちは考えていたのかも知れません。主もルカ13章に、非常に多くの「人々が東から西から、北から南から来て、神の国で宴会につくであろう」と話しておられます。私たちも水の洗礼という外的形に囚われずに、主キリストご自身による霊的な宣教と霊的な洗礼というものもあることを信じつつ、大きく開いた心で、全ての異教徒や全ての人たちの救いのため、希望をもってミサ聖祭や祈りを捧げるよう心がけましょう。「洗礼は、神に正しい良心を願い求めることです」という、本日の使徒ペトロの言葉も、注目に値します。ペトロはこの言葉を書いた時、霊的な洗礼を受ける人たちのことも考えていたと思われます。

   本日の短い福音の前半には、主が40日間荒れ野に留まり、「サタンから誘惑を受けられた」と述べられています。しかし同時に、「その間野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていた」とも述べられています。いずれ神の国で仲良く幸せに暮らすことになる野獣たちを恐れず敵視せずに、明るく開いた心で天使たちの働きに支えられ助けられて生きるのが、この世で受ける試練に耐え抜く道なのではないでしょうか。自分の力だけで悪霊の攻撃に抵抗するのではなく、大きく開いた心であの世の天使たちの援助を呼び込みつつ、内的に全被造物と共に生きるよう努めましょう。


   福音の後半には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主の御言葉が読まれます。主の宣教の根本を端的に言い表している御言葉だと思います。神の国の命と力、救いと喜びは、主と共に既に人々の目前に来ているのです。ここで言われている「悔い改め」は、自分の考えや力で自分の生き方を変えること、改革することではありません。もっと深い、もっと根本的な心の変革を意味しています。すなわち理知的な自分の考えや自分の聖書解釈によってではなく、霊的な神の導き、神の働きに心を開き、神の御旨中心に神の力に頼って生きようとすること、これまでの人間中心・自分中心の生き方に死んで、神中心の神の子としての生き方を始めることを意味しています。その御模範を、神の御子キリストは実際に生きて見せておられるのです。主はご自身の人間的意志で荒れ野に行かれたのではありません。神の霊によって荒れ野へと追い出されたのです。日本語で「送り出した」と訳されている原文の「エクバロー」という動詞は、マルコ福音に16回も登場していますが、悪霊を追い出したり、商人を神殿から追い出したりした時に使われています。従って主も、神の霊によって半ば強制的に荒れ野へ追いやられたのだと思います。四旬節にあたり、神は私たちからも日頃の生き方の悔い改め、神の働きへの徹底的従順の生き方への転向を強く求めておられると思います。荒野で多くの人の罪を償っておられた主のお姿を偲びつつ、私たちも何かの決心を神にお献げ致しましょう。