2015年2月11日水曜日

説教集B2012年:2012年2月11日(安井家で)

第一、第二朗読 創世記2・4b-9、15-17
福音朗読 マルコ7・14-23
読書 コリントの信徒への手紙1 3.1-23

   八年前の216日にあの世に移られたペトロ雅訓(まさのり)様は、今はあの世でペトロ謙様と共に、まだこの世にいる私たちのために祈っていて下さると信じます。昨年の3月に東日本大震災で大勢の人たちが津波で突然に命を失ったら、慈しみ深い神などという者が存在するというのは人間が勝手に作り上げた話で、罪なしに無数の人々が悲惨な最期を遂げたことから思うと、現実にはそんな神も美しい極楽や天国も存在しないのではないか、などと藤原新也というカメラマンが『アエラ』誌の特別号に疑問を呈し、それがマスコミで話題になったこともありますので、本日は聖書の言葉に基づいて神の働きや人間という存在について、ご一緒に少し考えてみたいと思います。

   創世記に描かれている人間の創造も楽園も人祖の罪も、神と私たち人間との内的関係を啓示した一種の神話ですから、実際の歴史的現実界でどのような出来事があったのか、私たちは全く知りません。しかし、聖書に従うと、神は宇宙万物を創造なさる最終段階で「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。云々」と仰せになって、私たち人間をご自身にかたどって男と女に創造し、彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上の生き物を全て支配せよ」と仰せになったとあります。私は神のこれらの言葉から、人間は本来いずれは神に最もよく似た存在に成り、神のように時間空間を超越して至る所に遍在し、被造世界の万物と全ての出来事とを確実に知り、全ての被造物を支配するために創造された存在である、と考えています。このことは全て、受難死を遂げてあの世の命に復活なされた主キリストにおいて実現していますが、今は制約の多いこの罪の世に苦しみつつ生活している私たちも、既にあの世に召された雅訓様たちも、神への愛と従順により、世の終りに復活した後には、主キリストと同じ神のような存在に成るよう召されているのではないでしょうか。

   いずれは神のように万物を愛の内に支配するようにと創造された人間が、歴史のどの段階でどのようにして神に背いたのか、その罪を犯した人祖は人類史のどこにいたのか、などの事は全く不明ですが、全被造物を代表して創造神に背いたその罪は、神が時間空間を超越しておられる存在であるため、時間空間を超えて全ての被造物を穢し、この世を宇宙創造の始めから「苦しみの世」にしているのだと思います。事によると、20万年前に始まったと考えられている人類史のずーっと後の段階で、例えば人間の理性が発達した1万年前頃の人間が、神を無視して人間中心主義の生き方を始めたことが、時間空間を超えたあの世におられる神に対する、この世の全被造物を代表しての反逆行為として神に受け止められ、時間空間を超えてこの世の始めからの全ての被造物を穢し、この世を始めから苦しみの世にしているのかも知れません。創世記に描かれている人祖の罪は、その悲惨な現実を古代人に判り易く説明するために、神によって作られた神話なのではないでしょうか。

   使徒パウロはローマ書8章に、全ての被造物は「神の子らの現れを切に待ち望んでいる。被造物は虚無に服しているが、」「希望をもっている」「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子らの栄光に輝く自由に与れるからである。被造物が全て今日まで共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っている。云々」と述べています。万物の創造主であられる神への感謝と愛よりも、私たち人間の欲と楽しみを先にする人間中心の罪な生き方が、私たち自身だけではなく宇宙の万物にまで各種の歪みや苦しみを齎しているのではないでしょうか。大きな明るい夢と期待の内に宇宙万物をお創りになった神の御望みに謙虚に聞き従う心を新たにしながら、神への感謝に生きようとしない無数の現代人の罪を、主と一致して償うことに心がけましょう。その償いの業の度合いに応じて、私たちは、神が初めに意図しておられた人間存在へと、高められて行くと信じます。

   もしも人間が神に背く罪を犯さず、楽園での苦しみのない生活がいつまでも終わりなく続いていたとしたら、人類は慈しみ深い神の愛に感謝し、神と語り合いながら、また全ての被造物を大切にしながら平和に仲良く生活していたでしょうが、しかし、苦しみや困難の全くない人生を続けているだけで、神の自己犠牲的な無報酬の奥深い愛については、深く理解できずにいたと思います。それを理解するには、数多くの恐ろしい苦難によって奥底の心が揺り動かされ、目覚めて一心に神の助けを願い求めて救われるような、恐ろしい苦難とそこからの救済という「奥底の心の目覚め体験」が必要なのではないでしょうか。青年期壮年期に長年深刻に悩んだことのある聖アウグスティヌスは、洗礼を受けて神の光の中に生活し始めた後に、人祖の犯した罪について「ああ、幸いな罪よ!」と讃美しています。その罪によって、もっと大きな深い神の愛の恵みを人類の上に呼び下したからだと思います。死も苦難も、私たちの奥底の心を強く揺り動かして目覚めさせ、もっと大きな恵みを与えるための、神からの恵みなのではないでしょうか。私たちの本当の人生は永遠に死ぬことのないあの世にあり、そこで一層深く神と一致し、一層幸せに生きるためには、私たちの奥底の心を揺り動かして目覚めさせ、真剣に深く大きく生きるように導くこの世の苦しみは貴重なお恵みであり、主キリストもそのことを身をもって示しておられると思います。

   神から与えられる苦しみを恐れないようにしましょう。余りにも豊かで便利な現代文明の流れの中で生活していますと、私たちの奥底の心は、自分中心・人間中心の生き方の中で眠ってしまい、私たちの本当の永遠に続くあの世の人生のために、もっと真剣に生きよう、もっと豊かな心の実を結ぼうしなくなります。それで神は、人間の魂の一番大切な底力の目覚めのために、時々苦しみを体験させて下さるのだと思います。日常茶飯事の中で出遭う無数の小さな出来事の中で、絶えず神の御旨を尋ね求めながら小さな愛の奉仕に心掛けていますと、不思議に神の小さな助けや巡り合わせ、導きなどを体験します。神のお与え下さる苦しみをも喜んで受け止め、あの世目指して雄々しく生きるよう心がけましょう。


   本日の福音に登場するハンセン病者は、大胆に行動しています。当時ハンセン病で社会から放逐された人は、その病を人に移さないため、死ぬまで人に近づいたり人里に入ったりしてはならない、という規則になっていましたが、主がカファルナウムで多くの病人を奇跡的に癒されたのを密かに耳にしたのでしょうか。この病者は早速社会の規則に公然と背いて、その主の足元にひれ伏し、「お望みならば、私を清くすることがお出来になります」と申し上げました。その大胆さを御覧になって、主も公然と社会の規則に背いて、その病者に手を差し伸べて触れ、「私は望む。清く成れ」とおっしゃり、その病者を癒されました。病者は望むと清くするという二つの動詞を使って簡潔にお願いしましたが、主もその二つの動詞だけを使って癒して下さったのです。人を救うためには、苦しむ人を束縛している社会の規則は無視するという、新約時代の新しい精神もここでははっきりと示されています。私たちも人間社会の規則中心主義ではなく、何よりも愛の神の導きに心を向けながら、大胆に生きるよう心がけましょう。