2010年10月30日土曜日

説教集C年: 2007年11月4日 (日)、2007年間第31主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 11: 22 ~ 12: 2. Ⅱ. テサロニケ後 1: 11 ~ 2:   2 Ⅲ. ルカ福音書 19: 1~10.

① 本日の第二朗読は、テサロニケ教会への第二の書簡からの引用ですが、この書簡が果たして使徒パウロが書いたものであるかどうかは、不明のようです。テサロニケ教会への第一の書簡は確かに聖パウロのものですが、そこではキリストが再臨する終末が突然襲来するように語られているのに、第二の書簡ではその終末はまだ来ていないとして冷静さと忍耐とが説かれており、まず神に逆らう滅びの子が現れ出て、自分を神のように拝ませようとサタンの力であらゆる不思議なことをなし、この世に勢力を拡張した後に初めて主キリストが再臨し、その勢力の支配を裁き、崩壊させるとされています。表現の仕方にも、使徒パウロの他の書簡と多少違っている点が見受けられるので、パウロの名で誰か別の人が書いた書簡ではないのか、という聖書学者の意見もあります。しかし、使徒パウロが、テサロニケ教会で第一の書簡が少し誤解され、世の終わりが近いと騒ぎ立て、多くの信徒たちの心を不安にしたり、同調しない人々に圧力をかけたりする人々がいることを知って、第二の書簡を認めた可能性も否定できません。

② 第二朗読の始めにある「いつもあなた方のために祈っています」という言葉は、テサロニケの信徒団が浮き足立っている心のそのような動揺や内部対立などを、神に対する全面的信頼と、どんな苦しみの最中にあっても忍耐して待つ心とによって乗り越え、主の突然の再臨の日まで落ち着いて豊かに信仰と愛の実を結ぶよう、祈っていますという意味なのではないでしょうか。察するに、現代に生きる私たちのためにも、神をはじめあの世の人々は皆、同様に希望し呼びかけているのではないでしょうか。過去の時代とは比較にならない程文明の機器が大きく発達し、それに適応しようと際限なく改造を重ねている家庭や地域社会などの伝統的組織の中にも、また極度の多様化と特殊化の巨大な流れの中で、統制力を失いつつある現代の国家にも、自分の人生の意義を見出せずに悩み苦しむ人が、増加の一途を辿っているようですから。

③ 十年ほど前からでしょうか、わが国では中高年の人たちの間で自殺者が激増していますが、その理由の一つは、今の世に生き甲斐が感じられないことにあると思われます。自殺した人たちの多くは、子供の時から競争また競争の忙(せわ)しない能力主義教育を受けて来た人たちで、長じても実社会での就職難や実績競争に苦しみ、鍛えられて来た人たちでした。しかし、歳が進んで自分よりも若い意欲溢れる人たちや新しい技術や能力を身につけた若者たちが増え、自分の力ではもう対抗できないのを痛感するようになると、自分の存在意義がどこにあるのかと悩むようになります。人々が家のため、社会のため、国のためと思って働いていた昔の落ち着いていた時代には、その家・社会・国家がいつまでもしっかりと自立していて、所属するメンバーを末長く大切にしていましたから、年老いて働けなくなっても安心しておれましたが、海流のように巨大なグローバル化の流れに家も社会も国家も呑み込まれ、流されつつある現代世界にあっては、生活が驚く程便利で豊かになりつつある反面、各人の過去の働きは次々と忘却の淵に捨てられてほとんど誰からも感謝されず、皆はただ新しい流れに乗り遅れまいと、続々登場する新しい流れを利用しようとのみ努めているように見えます。これが、多くの現代人に生き甲斐を見出せなくしているのだと思います。

④ ではその人たちが、このようなグロバーリズムの時代にも生き甲斐を見出して日々喜んで生きるには、どうしたら良いでしょう。私は、この全宇宙をお創りになった神の働きに心の眼を向け、自分の力よりも、その神の力に生かされて生きようと心がけるなら道は開けて来ると、自分の数多くの体験から確信しています。目に見えない創造神の存在と働きに身を委ね、キリストを通して啓示された神の御旨に素直に聞き従おうとすることは、自分の好みや傾向などを常に相対化しながら、ある意味では自分に死に、自分を神の御旨に絶えず関連させて変えて行こう、高めて行こうとすることであり、パスカルの言葉を引用するなら一種の冒険的な「賭け」であります。しかし、自分中心に考え勝ちであったこれまでのエゴから抜け出て、神の導きに聞き従い、神の働きに身を委ねる生き方に漕ぎ出すと、やがて自分が、今まで知らなかった全く新しい希望と喜びと確信に満ちて生き始めるのを体験するようになります。それは、神がご自身を信じる人にお与えになる、神の命・神の働きへの参与だと思います。

⑤ 「神を信じる」と聞くと、教会という組織の枠に入れられて、様々の堅苦しい教えや規則に縛られながら生きる生活を連想する人がいます。しかし、組織や教義や規則は、様々な誤りの危険から私たちを守って、神の祝福を全人類の上に呼び下したアブラハム的信仰に生きさせるためのもの、いわばガードレールや道しるべのようなであって、アブラハム自身は後の世に広まったそのような理知的組織も教義も規則も知らずに、ひたすら実生活の中でその時その時に示される神の導き・働きに従って生きていたと思います。理知的な頭の知識は現代の私たちよりも遥かに少ししか知らず、自然界や人間社会をごく単純素朴に眺めて暮らしていたことでしょう。しかし、神からの呼びかけ・働きかけに対する心のセンスは、神への愛と信頼によって鋭敏に磨かれていたと思われます。そして神への愛と従順に生きようとする心の意志も、日々ますます強靭なものに成長していたとのではないでしょうか。2千年前の主キリストも聖母マリアも、同様の生き方をしておられたと思います。心が目前の規則や困難・貧窮などに囚われ過ぎず、それらを越えてますます高く神への愛に成長しようと努める所に、キリスト教信仰の特徴があります。

⑥ 全ての伝統がますます多様化され相対化されつつある現代世界に生きる私たちも、何よりもこのアブラハム的・新約時代的な、主体的で自由な信仰生活に心がけるべきだと思います。これまでの伝統にある難しい教理や小難しい規則などは知らなくても、子供のように単純で素直な心で神の働きを歓迎し、それに従おうと努めるなら、神がそういう私たちの心を受け入れ、私たちのために働いて下さる不思議を、幾度も体験するようになります。これが、極度に不安で複雑になりつつある現代世界の中で、神の働きに根ざし自由で主体的な、新しい生き甲斐を見出す道ではないでしょうか。聖書によると、神との関わりは神よりの言葉としるしをそのまま素直に受け入れるよって始まるようです。神から啓示された言葉は勝手に取捨選択せずに、全部そのまま素直に受け入れ、神が与えて下さる洗礼や祝福などのしるしも、幼子のように素直に身につけて頂きましょう。こうして神の子、神の所有物となる人の心に、神が救いの働きをして下さるのです。

⑦ 本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働く、ユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな無花果桑の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を家に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。律法のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。

2010年10月24日日曜日

説教集C年: 2007年10月28日 (日)、2007年間第30主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. シラ 35: 15b~17, 20~22a. Ⅱ. テモテ後 4: 6~8, 16~18. Ⅲ. ルカ福音書 18: 9~14.

① 昨日の嵐の雲が台風20号に連れ去られて、今朝はすばらしい秋晴れになりましたが、朝の3時半頃にふと起きて外を眺めましたら、東の方に明けの明星、金星が大きく輝いており、中天には満月を二日ほど過ぎた月が夜の世界を照らしていました。地上が嵐にどんなに苛まれても、天上の月や星は、こうしていつも静かに私たちを見守り、護っていて下さるように覚えました。

② 本日の第二朗読は、ローマで囚人とされている使徒パウロがその弟子テモテに宛てて書いた書簡の最後の部分からの引用ですが、パウロは自分の殉教の時が近いことを自覚しながら、救い主キリストに対する信仰を広めるため、また多くの人々を神による救いへと導くために、長年働き続けて来た自分の一生を感謝の心で静かに回顧しつつ、この書簡を書いているようです。彼は苦難や苦労の多かったその人生を、主キリストのように、多くの人の救いのために神に捧げる「いけにえ」として営んでいたようで、「私自身は既にいけにえとして捧げられています」と書いていますが、しかし神によってそのような神の御旨のままに生きる生き方に召されたことに、大きな喜びと満足を覚えていたのではないでしょうか。「私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠 (すなわち永遠の命の光栄)を受けるばかりです。正しい審判者であられる主が、それを私に授けて下さるのです」と書き、最後に「主は私を全ての悪業から助け出し、天にあるご自分の国へ救い入れて下さいます」とも書いています。

③ 私たちも皆、やがてこの世に別れてあの世に移る日がそう遠くないのを痛感し始めている身ですが、自分の人生の最後に自分の一生を振り返り、この世に生を受けたことを感謝しながら、また神があの世で与えて下さる永遠の光栄と幸せに期待しながら、使徒パウロのように、「主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン」と満面の喜びで神を讃えることができるなら、どんなに嬉しいことでしょう。その時、死はもう悲しい涙の別れではなく、あの世の栄光への門出であり、新しい幸福な命への誕生なのですから。パウロの模範を心に銘記しながら、私たちも少しでもそれに近づき、周囲の人たちからも羨ましがられる程の美しい死、大きな希望に溢れた死を迎えるように努めたいものです。しかし、そのためには彼が日ごろから心がけていたように、内的にいつも自分のエゴというものに死んで、主キリストに生きていただく、キリストの霊の生きている器のようになって、日々神と人とに仕えようと励む必要があるのではないでしょうか。パウロはガラテア書2: 20に「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのだ」と書いていますから。

④ 「キリストが私の内に生きる」と言っても、私が内的にも外的にもキリストに成り切ることはできません。弱い人間、罪ある人間としての私は、あくまでもその弱さのまま留まり続けるのです。鎌倉時代に浄土信仰を広め、阿弥陀仏の命に生かされるよう努めていた法然上人は、『選択集』の中で「水月を感じて昇降をうる」と書いています。静かな池の水は天に昇りはしませんが、水面に月を映します。満天の星空に輝く月はその池の中に降って来ているのではないですが、その池の水面に映り輝いています。同様に他の多くの池の水面にも輝いていることでしょう。法然の言葉は、その美しい現実を讃えて、私たちに一つの宗教的真理を教えているのです。池の水は私たち人間のシンボルですが、それはどれ程濁っていても、この世のガラクタが表にでしゃばったり心が波立ったりしていなければ、立派に仏の心、神の心を映し出し輝かせることができます。水が月になるのではなく、水のまま月をこの地上に映し出すのです。神は、このようにして私たちの心に働いて下さるのです。私たちの心は皆そのようにして輝き、闇の支配する暗いこの世を少しでも明るく美しくするよう、神から創られているのではないでしょうか。

⑤ 本日の第一朗読は、紀元前2世紀頃に書かれたシラ書からの引用ですが、そこでは神を畏れることに始まる宗教的智恵に従う生き方が勧められています。自分がどれ程弱く貧しい人間、そして自分の歩んで来た一生がどれ程怠りと失敗の連続であったように見えても、主に信頼し、主に助けを願い求める心があるならば、心配する必要はありません。本日の朗読にもあるように、全てをお裁きになる主は、貧しいからといってえこひいきをなさらず、虐げられている者や、孤児・やもめの願いを特別に御心に留めて下さる方ですから。御旨に従って主に仕える人や謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて主の御許に届く、とまで述べられています。察するに、これらの言葉は数多くの体験に基づいて語られているのではないでしょうか。実は、今年この10月で77歳に達した私自身の体験を振り返ってみても、また私がこれまでに見聞きした多くの実例を思い出してみても、やはり同様に断言してよいように思います。私は自分に与えられたこの長い人生を回顧して、全知全能の神が実際に私たちの全ての言動を見ておられ、遅かれ早かれその全てに裁きや報いを与えておられると確信しています。

⑥ 本日の福音に主が語られた譬え話の中には、神殿に上って祈る二人の人物が登場しますが、二人の祈る内的姿勢は対照的に違っています。立って祈るファリサイ派の人は、おそらく胸を張って、自分が他の罪人たちのようでないことを神に感謝し、自分が週に二回断食し、全収入の十分の一を神に捧げていることを、神がお忘れにならないよう申し上げています。しかし、その心の眼は過ぎ行くこの世の外的ガラクタや自分の日々なしている外的業績にだけ向けられていて、察するに、その心の池の水面にはこの世のガラクタがたくさん浮かんでおり、高慢な野心や虚栄心などの風がその水面をいつも波立たせているのではないでしょうか。それに比べると、末席に立って自分の胸を打ちながら、ひたすら聖なる神を畏れ、神の憐れみを願い求めて祈った徴税人の方は、心の水面からこの世のガラクタを全て除き去り、神の方にだけ心の眼を向けていたのではないでしょうか。

⑦ 主は最後に、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされる」とおっしゃいましたが、ここで「へりくだる者」とあるのは、この世中心・自分中心の価値観を退けて、万事においてひたすら神の御旨中心に全てを考え、神への従順と愛の心で謙虚に生きようとしている人のことを指しているのではないでしょうか。神はそのような人を正しい者とし、事ある毎に守り導き、次第に高く高く上げて下さるのだと思います。私たちも主キリストや聖母マリアの静かで美しい模範の月を心に宿しながら、激動する今の世の流れを超越し、ひたすら神への従順と愛に励む謙虚な生き方を体得するよう心がけましょう。本日のミサ聖祭は、そのための照らしと恵みを願って献げます。

2010年10月17日日曜日

説教集C年: 2007年10月21日 (日)、2007年間第29主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 17: 8~13. Ⅱ. テモテ後 3: 14 ~ 4: 2.    Ⅲ. ルカ福音書 18: 1~8.

① 本日の第一朗読には、「アーロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた」という言葉がありますが、これは古代の神の民が神に祈る時、両手を斜め上に高く挙げて祈っていたからだと思います。キリスト教会に両手を合せて祈る慣習が普及したのは、皇帝アウグストの政策で盛んになったシルクロード貿易で、東西文化の交流も盛んになり、両手を合せて祈るインドやシャム辺りの綺麗な慣習が導入された2,3世紀頃からだと思います。

② モーセが丘の上で手を挙げて祈っているとイスラエル人が勝ち、疲れて祈りを止めるとアマレク人が勝ったという言葉を、あまりにも外的、短絡的に理解しないよう気をつけましょう。神は祈っている間はお助けになるが、祈らない時にはお助けにならないような方ではありません。モーセがイスラエル軍の指揮者ヨシュアに「私は神の杖を手に持って、丘の頂に立つ」と告げていることも、見落としてはなりません。神の杖、これはモーセがあの出エジプトという難事業を遂行するために神から与えられた唯一の道具であり、それは神が彼と共にいてくださるという約束のしるしでもありました。モーセは、イスラエル人たちを滅ぼし尽くそうとしてやって来た強力なアマレク人たちを見た時、この杖を通して働いて下さる神に頼る以外に救われ得ないという深刻な恐怖感のうちに、この神の杖をもって丘の上に立ち、神に真剣に祈ったのではないでしょうか。彼のその真剣な祈りと信頼に応えて、神がイスラエル軍を助けて下さったのだと思います。手を上げて祈る時に勝ち、手を下ろすとアマレク人が優勢になったなどという、外的一時的な勝ち負け、進退の現象にあまり囚われないよう気をつけましょう。神に信頼して真剣に祈る者には、必ず最後の勝利が与えられるのですから。モーセは目先の勝ち負け現象に一喜一憂したりはせずに、それらを超越して、ひたすら神の愛に対する信頼を新たにしながら、終日祈り続けていたのだと思います。そして神はその信頼と祈りに応えて、最後の大勝利を与えて下さったのだと思います。

③ この前の日曜日にも申しましたように、私は本日の第二朗読の出典であるテモテ後書は、自分の愛弟子であるテモテ司教に対する使徒パウロの遺言のような書簡だと考えます。パウロはその中で、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と命じた後、「全て神の霊の導きの下に書かれ」ている聖書が、「信仰を通して救いに導く知恵をあなたに与えることができます」と説いています。そして「神の御前で、…キリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」と前置きして、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。咎め、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。云々」と、多少くどく感ずる程、厳しい命令を続けています。パウロは、自分たち使徒が殉教して死に絶えた後、まだ歴史の浅い教会には、外の世界からの迫害や内部からの異端説などの嵐に、根底から揺り動かされるという大きな試練の時が来ることを予感して、このような命令を書き残したのではないでしょうか。

④ 私たちの生きている「グローバル時代」といわれる現代も、キリストの教会にとっては、これまでの伝統的信仰が内外の様々な新しい荒波によって根底から揺り動かされている、大きな試練の時だと思います。極度の多様化や相対化などの荒波に抗して、主キリストの信仰遺産を護り抜くには、神の導きに対する徹底した従順と信頼と共に、実り少ない絶望的事態にも怯まずに忍耐強く神に祈ること、時には咎め、戒め、励ますことも大切なのではないでしょうか。使徒たちの残した戒めの言葉を心に銘記しながら、逃げ腰にならず積極的に、現代の巨大な激流をバランスよく渡り切るよう努めましょう。神に信頼し、神の杖をもって祈り続けたモーセのように。

⑤ 本日の福音の中で、主は「気を落とさずに絶えず祈り」続けることを教えるため、一つの譬え話を語っておられます。ユダヤ人やアラブ人の社会は、今日でも男性優位の傾向が根強く残っていますが、古代には外的社会的に女性を軽視する風潮が強かったと思われます。それで、聖書にもイスラム教のクーランにも、夫や父親の保護を失った寡婦や孤児の権利を弁護し尊重させようとする規則や言葉がたくさん読まれます。出エジプト記22章には、「寡婦や孤児は全て苦しめてはならない。もしあなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞き入れる」という神の厳しい警告の言葉も読まれます。本日の福音の譬え話に登場する不正な裁判官は神の裁きを恐れず、人を人とも思わないような人だったので、そういう規則のことは知っていても、寡婦の訴えなどは取り上げようとしなかったのだと思います。察するに、その訴えというのは、古代にも多かった遺産問題のトラブルであったでしょう。遺産を不当に横取りされて貧しくなった寡婦は、これからの一生に関わることですから我慢できず、いつまでも叫び続け、訴え続けるのだと思います。

⑥ 始めは取り合おうとしなかった裁判官も、遂にその寡婦の執念に負け、裁判に立ち上がったようですが、神信仰に生きる人も、このような「心の執念」ということもできる、不屈の真剣な信仰の叫びを持ち続けて欲しい。そうすれば神は、夜昼叫び求めている選ばれた人たちの願いを、いつまでも放っておかれることはないというのが、この譬え話の趣旨だと思います。

⑦ 必要なものを一言で、あるいはワンタッチで入手できる豊かさと便利さに慣れている現代人には、祈りの中で二、三度申し上げても神に聞き入れられなかった願い事を、いつまでも根気強く願い続けるということは、難しいかも知れません。すぐに聞き入れられないと嫌気がさし、沈黙の神に、冷淡・無関心な態度をとり勝ちになるかも知れません。しかし神は、私たちがいつまでも口先だけの祈り方をしていないで、もっと苦しんで奥底の心を目覚めさせ、心の底から本気になって祈るのを待っておられるのではないでしょうか。「本気」は「根気」なのです。日々真剣に根気強く祈る人の祈りは、必ず神に聞き入れられます。それが、主がこの譬え話を通して教えておられる真理だと思います。忍耐して根気よく祈っても、神は少しも変わらず、沈黙し続けておられるでしょう。しかし、苦しみながらのその真剣な祈りによって、私たちの心がゆっくりと変わり始め、神が待っておられる霊的土壌の中に深く根を下ろすようになります。

⑧ 相田みつをさんの「いのちの根」という詩をご存知でしょうか。「なみだをこらえて かなしみにたえるとき ぐちをいわずに くるしみにたえるとき いいわけをしないで だまって批判にたえるとき いかりをおさえて じっと屈辱にたえるとき あなたの眼のいろが ふかくなり いのちの根が    ふかくなる」という詩であります。私たちの心が苦しみに耐えて祈りつつ、黙々と根を深く下ろし、神が待っておられる地下の水脈にまで達すると、その時神の神秘な力が私たちの内に働き出して下さるのではないでしょうか。しかし主は最後に、人の子が来臨する時、この地上にそのように本気になって叫び求めている信仰者を見出すであろうか、というような疑問のお言葉を残しておられます。

⑨ ルカ福音書によると、主が弟子たちにこの話をなさったのは、エルサレムへの最後の旅行中でしたが、弟子たちはこの段階になっても、まだ神に心から本気になって祈るようなことはしていなかったのではないでしょうか。しかし、このルカ福音書18章の後半には、エリコの盲人が「ダビデの子イエス様、私を憐れんで下さい」、「ダビデの子イエス様、私を憐れんで下さい」と真剣になって叫び続け、遂に主から癒して頂いた話が載っています。この盲人のように、本気になって叫び続ける祈りの姿を、主もゲッセマニで弟子たちにお見せになっておられます。私たちもその模範を心に銘記して、将来の時に備えていましょう。

2010年10月10日日曜日

説教集C年: 2007年10月14日 (日)、2007年間第28主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. 列王記 5: 14~17. Ⅱ. テモテ後 2: 8~13.
     Ⅲ. ルカ福音書 17: 11~19.

① 本日の第一朗読である列王記によりますと、シリア王の将軍ナアマンがハンセン病にかかって苦しむようになったら、イスラエルから戦争捕虜として連れて来られ、ナアマンの家に下女として働いている女が、サマリアにいる預言者エリシャの話をして、その預言者に病を癒してもらうよう勧めました。それで将軍ナアマンは、イスラエル国王に宛てたシリア王の書簡をもらい、銀10タラント、金6千シケル、晴れ着の服10着など、預言者に差し上げる高額の贈り物を携え、数頭の馬や多くの随員を連れ、戦車に乗って神の人エリシャの所へやって来ました。ところが、預言者は入口に立つ彼を出迎えようとはせず、取り次いだ下男を介して「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば体は元に戻り、清くなります」と言わせました。世間一般の儀礼を無視したこのぶっきらぼうの言葉に驚き気を悪くしたナアマンは、「彼自ら出て来て私の前に立ち、神の御名を呼んで私の患部に触れて、癒してくれると思っていたのに」と言い、更に「イスラエルのどの川の水よりも、ダマスコの川の水の方がきれいだ」などと言って、預言者の元から立ち去りました。

② しかし、その時家来の者たちが近づいて、「あの預言者がもっと大変なことを命じたとしても、あなたはその通りなしたでしょうに。ヨルダン川で洗えば清くなると命じただけなのですから」と言って、その言葉を信じてその通りなすよう勧めました。それでナアマンは思い直し、ヨルダン川の水に七度身を浸して洗ったら、病は癒され小さな子供の体のように清くなりました。それでナアマンが随員全員と共に神の人の所に引き返し、真の神を信奉するようになったというのが、本日の第一朗読の話です。キリスト教の神は私たちから、修験道の行者たちがなしているような難行苦行や、数十日も続ける断食などを求めておられるのではありません。謙虚に従おうとする心さえあれば、誰にでもできるような簡単な実践を求めておられるだけなのです。ただしかし、罪に穢れている俗世間の価値観やこの世の幸せ第一の精神を脱ぎ捨て、何よりもあの世の神のお言葉に徹底的に従って生きようとする、神中心の価値観と博愛の実践意志とを切に求めておられます。その心のある所に神の救う力が働き、悩み苦しむ私たちを癒し、守り、導いて、周辺の人々や社会にも救いの恵みを豊かに与えて下さるのです。

③ 本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた書簡からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、他の囚人たち数名と共にローマに連行されたパウロが、紀元61, 2年頃にローマで番兵一人をつけられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた頃の書簡ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、67年頃に投獄されて、殉教を目前にしていた頃に書かれた書簡であると思います。従って、この書簡は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちばかりでなく、獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にして、その牢獄で説いた福音の要約であると思われます。

④ 本日の福音は、主キリストによるハンセン病者たちの癒しについての話ですが、ナアマンを癒したエリシャと同様、主はここでも遠くから命令を与えただけで、病者の体に触れて癒されたのではありません。社会から公然と追放され、人里離れた所で死を迎えるようにされていた当時のハンセン病者たちは、その病気を社会の人に移さないため、人に近づいたり話しかけたりすることも禁じられていました。その極度の寂しさ故に、病者たちはよく群れをなし、互いに助け合って生活していたのかも知れません。夜にはそっと人里に近づいて、村人たちがキリストによる奇跡的治癒について話し合っているのを、密かに聞いていたことも考えられます。それでその主キリストがある村に近づかれると、10人のハンセン病者たちが遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて「イエス様、先生、私たちを憐れんで下さい」と願いました。主はそれを見て、一言「祭司たちの所へ行って、体を見せなさい」とだけおっしゃいました。万一ハンセン病が治った時には、祭司たちがそのことを確認し宣言すれば、社会復帰ができるからです。主は彼らの体に触れて癒されたのではありません。しかし、彼らはそのお言葉を聞いて、すぐにそれに従い、それぞれ自分たちの祭司の所へ出かけました。彼らの体は、この従順と実践行為の過程で癒され清くなりました。ゲーテは「奇跡は信仰の子である」と書いているそうですが、この信仰は、単に頭で全くそうだと考え信じているだけの言わば「頭の信仰」ではなく、神の言葉に従って実際に行動する意志的な「心の信仰」であり、心にその実践的信仰が働く時に、神の力が発動し奇跡的癒しが起こるのです。

⑤ 癒された人の一人は、自分の体が癒されているのを見て、大声で神を賛美しながら主の所に戻って来て、主の足元にひれ伏し感謝しました。その人はユダヤ人ではなく、サマリア人でした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人は、ユダヤ人だったのでしょうか。としますと、ファリサイ派が活躍していた当時のユダヤ社会では、この世で不幸を避け幸せになるためにも律法の厳守が異常なほど強調されており、ユダヤ人は皆子供の時から頭にそのことを叩き込まれていましたから、癒されたユダヤ人たちは、社会復帰が認められたら、今後は律法を守って幸せに暮らそうなどという、自分個人の嬉しい社会復帰と生活のことで頭がいっぱいで、恩人のイエスや神に感謝することなどは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。ファリサイ派の宗教教育では、神は無限に清い存在で、罪に穢れているこの世からは遥かに遠く離れておられる方であるかのように教えられていたでしょうから。しかし、これは人間が勝手に作り上げて広めたこの世中心の思想で、神は、特に主キリストの来臨によって、私たちの想像を絶するほど私たちの身近に隠れて現存し、苦しんでいる人たちを救おう、助け導こうとしておられるのです。何よりもその神の愛と働きに心の眼を向け、感謝の心で生活するよう心がけましょう。

⑥ 主は大声で神を賛美しながら感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、このサマリア人は律法のことは知らないので、ただ現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けていたのではないでしょうか。本日の日本語福音には「その中の一人は、自分が癒されたのを知って」と翻訳されていますが、ギリシャ語原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に体の目で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味合いのエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で鋭敏に感知したり洞察したりする時に、聖書で用いられることの多いこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも心の眼や心のセンスを磨くよう心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している、隠れている神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などにばかり囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日々の体験の中にあって、何よりも自分に対する神の愛の保護や助け・導きなどに信仰と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から切に求めておられる信仰なのではないでしょうか。「あなたの信仰があなたを救ったのです」という主のお言葉から、これらのことをしっかりと学び日々実践しつつ、神の望んでおられる新約時代の信仰の生き方を体得し実践するよう努めましょう。

2010年10月3日日曜日

説教集C年: 2007年10月7日 (日)、2007年間第27主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ハバクク 1: 2~3, 2: 2~4. Ⅱ. テモテ後 1: 6~8, 13~14. Ⅲ. ルカ福音書 17: 5~10.

① 本日の第一朗読は、紀元前600年頃、ユダ王国がバビロニアに滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの話ですが、先週の日曜日にも話したように、豊かさの中で贅沢に生活していたユダ王国の支配者たちの相互対立や不正・不法には目にあまるものがある上に、周辺の外国勢力との関係にも深刻な不安の念を抱かせるものがあって、ユダ王国末期の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求めて、叫ぶように声高く祈っていたようですが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってその贅沢な社会に迫りつつある様々な災いの幻を預言者に見せておられたようです。

② それが本日の第一朗読の前半にある預言者の嘆きですが、後半部分は第2章の始めからの引用で、この前半と後半との間にはかなり長い話が省かれています。その省かれた部分の中で、神は預言者の嘆きに答えて、「お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。大いに驚くがよい。見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略を詳しく啓示します。それで預言者は、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。….それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に、一層激しく嘆きます。それに対する神の答えが、後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神がちっとも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過(よ)ぎります。それは、本当に苦しい試練の時なのです。神は私たちの信仰を深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を体験させるのです。今大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。

③ その時に人間中心・自分中心の立場や観点から脱皮して、神の御旨中心の立場に立って神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかもその支配が私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いますが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、それに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に素直に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する「信頼」を意味しています。

④ 本日の第二朗読のはじめには、「私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」という言葉が読まれますが、これは叙階の秘跡によってテモテ司教に授与された神の賜物と、それに伴う神からの使命とを指していると思います。それは叙階式の時にだけ注がれる一時的な恵みではなく、その時霊魂の奥底に湧出した内的泉のように、その後も継続して続いている賜物であります。ですから使徒パウロは、その賜物を「再び燃え立たせるように」と強く勧めているのです。実は、私たちの受けている洗礼の秘跡も、堅信の秘跡も、私たちの霊魂の奥底にそれぞれそのような恒久的賜物を授与する秘跡であります。私たちも皆、神から洗礼の恵みの内的泉を、また堅信の秘跡による聖霊の愛の泉を霊魂の奥底に頂戴しているのです。日々その泉に心の眼を向けて力と導きを受けつつ、自分に与えられている神からの使命に生きるよう心がけましょう。それが、新約時代の人たちに神から求められている、「信仰によって生きる」生き方だと思います。

⑤ ルカ福音書によると、本日の福音のすぐ前に「一日に七回あなたに罪を犯しても、七回悔い改めると言うなら、赦してあげなさい」という主のお言葉があります。それで使徒たちは、そこまで自分の同僚を赦す自信はないからか、本日の福音の始めにあるように「私たちの信仰を増して下さい」と願ったようです。察するに、彼らは信仰を自分たちが何かを為すための能力と考えていたのではないでしょうか。そこで主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになります。彼らを失望させたくないからでしょうか、端的にあなた方には「まだ本当の信仰がない」とは話されませんが、しかしこのお言葉から察しますと、あなた方には神がお求めになっておられる本当の信仰は、まだ芥子種一粒ほどもないという意味にもなると思われます。

⑥ では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。我なしのそういう人は、神がその人の罪をお赦しになるなら、自分もその人の自分に対する負い目を百回でも千回でも喜んで赦すことでしょう。それが、神の求めておられる信仰というものであり、全能の神はそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の持つ能力で、何かの奇跡的成功を獲得し体験するのではありません。神がその人を介して働いて下さるのです。

⑦ 本日の福音の後半は、私たちの持つべきその真の信仰について説明しています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食の用意を必要としておられるなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家の嫁さんたちは、皆このようにして我なしに家族皆に奉仕していました。我なしの奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを皆無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。二十数年前頃だったでしょうか、「主婦業」という言葉が社会に流行してことがありました。全てを儲ける金銭で評価する価値観が広まった中で、家庭の主婦たちの自己主張と結ばれて生まれた言葉であると思いますが、しかし、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場ではないでしょうか。家庭の無料奉仕の愛をパイプラインとして、神の恵みが私たちの上に、また社会の上に豊かに注がれるのだと思います。私たちがこういう信仰と愛の精神に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。