2010年10月24日日曜日

説教集C年: 2007年10月28日 (日)、2007年間第30主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. シラ 35: 15b~17, 20~22a. Ⅱ. テモテ後 4: 6~8, 16~18. Ⅲ. ルカ福音書 18: 9~14.

① 昨日の嵐の雲が台風20号に連れ去られて、今朝はすばらしい秋晴れになりましたが、朝の3時半頃にふと起きて外を眺めましたら、東の方に明けの明星、金星が大きく輝いており、中天には満月を二日ほど過ぎた月が夜の世界を照らしていました。地上が嵐にどんなに苛まれても、天上の月や星は、こうしていつも静かに私たちを見守り、護っていて下さるように覚えました。

② 本日の第二朗読は、ローマで囚人とされている使徒パウロがその弟子テモテに宛てて書いた書簡の最後の部分からの引用ですが、パウロは自分の殉教の時が近いことを自覚しながら、救い主キリストに対する信仰を広めるため、また多くの人々を神による救いへと導くために、長年働き続けて来た自分の一生を感謝の心で静かに回顧しつつ、この書簡を書いているようです。彼は苦難や苦労の多かったその人生を、主キリストのように、多くの人の救いのために神に捧げる「いけにえ」として営んでいたようで、「私自身は既にいけにえとして捧げられています」と書いていますが、しかし神によってそのような神の御旨のままに生きる生き方に召されたことに、大きな喜びと満足を覚えていたのではないでしょうか。「私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠 (すなわち永遠の命の光栄)を受けるばかりです。正しい審判者であられる主が、それを私に授けて下さるのです」と書き、最後に「主は私を全ての悪業から助け出し、天にあるご自分の国へ救い入れて下さいます」とも書いています。

③ 私たちも皆、やがてこの世に別れてあの世に移る日がそう遠くないのを痛感し始めている身ですが、自分の人生の最後に自分の一生を振り返り、この世に生を受けたことを感謝しながら、また神があの世で与えて下さる永遠の光栄と幸せに期待しながら、使徒パウロのように、「主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン」と満面の喜びで神を讃えることができるなら、どんなに嬉しいことでしょう。その時、死はもう悲しい涙の別れではなく、あの世の栄光への門出であり、新しい幸福な命への誕生なのですから。パウロの模範を心に銘記しながら、私たちも少しでもそれに近づき、周囲の人たちからも羨ましがられる程の美しい死、大きな希望に溢れた死を迎えるように努めたいものです。しかし、そのためには彼が日ごろから心がけていたように、内的にいつも自分のエゴというものに死んで、主キリストに生きていただく、キリストの霊の生きている器のようになって、日々神と人とに仕えようと励む必要があるのではないでしょうか。パウロはガラテア書2: 20に「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのだ」と書いていますから。

④ 「キリストが私の内に生きる」と言っても、私が内的にも外的にもキリストに成り切ることはできません。弱い人間、罪ある人間としての私は、あくまでもその弱さのまま留まり続けるのです。鎌倉時代に浄土信仰を広め、阿弥陀仏の命に生かされるよう努めていた法然上人は、『選択集』の中で「水月を感じて昇降をうる」と書いています。静かな池の水は天に昇りはしませんが、水面に月を映します。満天の星空に輝く月はその池の中に降って来ているのではないですが、その池の水面に映り輝いています。同様に他の多くの池の水面にも輝いていることでしょう。法然の言葉は、その美しい現実を讃えて、私たちに一つの宗教的真理を教えているのです。池の水は私たち人間のシンボルですが、それはどれ程濁っていても、この世のガラクタが表にでしゃばったり心が波立ったりしていなければ、立派に仏の心、神の心を映し出し輝かせることができます。水が月になるのではなく、水のまま月をこの地上に映し出すのです。神は、このようにして私たちの心に働いて下さるのです。私たちの心は皆そのようにして輝き、闇の支配する暗いこの世を少しでも明るく美しくするよう、神から創られているのではないでしょうか。

⑤ 本日の第一朗読は、紀元前2世紀頃に書かれたシラ書からの引用ですが、そこでは神を畏れることに始まる宗教的智恵に従う生き方が勧められています。自分がどれ程弱く貧しい人間、そして自分の歩んで来た一生がどれ程怠りと失敗の連続であったように見えても、主に信頼し、主に助けを願い求める心があるならば、心配する必要はありません。本日の朗読にもあるように、全てをお裁きになる主は、貧しいからといってえこひいきをなさらず、虐げられている者や、孤児・やもめの願いを特別に御心に留めて下さる方ですから。御旨に従って主に仕える人や謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて主の御許に届く、とまで述べられています。察するに、これらの言葉は数多くの体験に基づいて語られているのではないでしょうか。実は、今年この10月で77歳に達した私自身の体験を振り返ってみても、また私がこれまでに見聞きした多くの実例を思い出してみても、やはり同様に断言してよいように思います。私は自分に与えられたこの長い人生を回顧して、全知全能の神が実際に私たちの全ての言動を見ておられ、遅かれ早かれその全てに裁きや報いを与えておられると確信しています。

⑥ 本日の福音に主が語られた譬え話の中には、神殿に上って祈る二人の人物が登場しますが、二人の祈る内的姿勢は対照的に違っています。立って祈るファリサイ派の人は、おそらく胸を張って、自分が他の罪人たちのようでないことを神に感謝し、自分が週に二回断食し、全収入の十分の一を神に捧げていることを、神がお忘れにならないよう申し上げています。しかし、その心の眼は過ぎ行くこの世の外的ガラクタや自分の日々なしている外的業績にだけ向けられていて、察するに、その心の池の水面にはこの世のガラクタがたくさん浮かんでおり、高慢な野心や虚栄心などの風がその水面をいつも波立たせているのではないでしょうか。それに比べると、末席に立って自分の胸を打ちながら、ひたすら聖なる神を畏れ、神の憐れみを願い求めて祈った徴税人の方は、心の水面からこの世のガラクタを全て除き去り、神の方にだけ心の眼を向けていたのではないでしょうか。

⑦ 主は最後に、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされる」とおっしゃいましたが、ここで「へりくだる者」とあるのは、この世中心・自分中心の価値観を退けて、万事においてひたすら神の御旨中心に全てを考え、神への従順と愛の心で謙虚に生きようとしている人のことを指しているのではないでしょうか。神はそのような人を正しい者とし、事ある毎に守り導き、次第に高く高く上げて下さるのだと思います。私たちも主キリストや聖母マリアの静かで美しい模範の月を心に宿しながら、激動する今の世の流れを超越し、ひたすら神への従順と愛に励む謙虚な生き方を体得するよう心がけましょう。本日のミサ聖祭は、そのための照らしと恵みを願って献げます。