2010年10月3日日曜日

説教集C年: 2007年10月7日 (日)、2007年間第27主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ハバクク 1: 2~3, 2: 2~4. Ⅱ. テモテ後 1: 6~8, 13~14. Ⅲ. ルカ福音書 17: 5~10.

① 本日の第一朗読は、紀元前600年頃、ユダ王国がバビロニアに滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの話ですが、先週の日曜日にも話したように、豊かさの中で贅沢に生活していたユダ王国の支配者たちの相互対立や不正・不法には目にあまるものがある上に、周辺の外国勢力との関係にも深刻な不安の念を抱かせるものがあって、ユダ王国末期の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求めて、叫ぶように声高く祈っていたようですが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってその贅沢な社会に迫りつつある様々な災いの幻を預言者に見せておられたようです。

② それが本日の第一朗読の前半にある預言者の嘆きですが、後半部分は第2章の始めからの引用で、この前半と後半との間にはかなり長い話が省かれています。その省かれた部分の中で、神は預言者の嘆きに答えて、「お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。大いに驚くがよい。見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略を詳しく啓示します。それで預言者は、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。….それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に、一層激しく嘆きます。それに対する神の答えが、後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神がちっとも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過(よ)ぎります。それは、本当に苦しい試練の時なのです。神は私たちの信仰を深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を体験させるのです。今大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。

③ その時に人間中心・自分中心の立場や観点から脱皮して、神の御旨中心の立場に立って神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかもその支配が私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いますが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、それに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に素直に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する「信頼」を意味しています。

④ 本日の第二朗読のはじめには、「私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」という言葉が読まれますが、これは叙階の秘跡によってテモテ司教に授与された神の賜物と、それに伴う神からの使命とを指していると思います。それは叙階式の時にだけ注がれる一時的な恵みではなく、その時霊魂の奥底に湧出した内的泉のように、その後も継続して続いている賜物であります。ですから使徒パウロは、その賜物を「再び燃え立たせるように」と強く勧めているのです。実は、私たちの受けている洗礼の秘跡も、堅信の秘跡も、私たちの霊魂の奥底にそれぞれそのような恒久的賜物を授与する秘跡であります。私たちも皆、神から洗礼の恵みの内的泉を、また堅信の秘跡による聖霊の愛の泉を霊魂の奥底に頂戴しているのです。日々その泉に心の眼を向けて力と導きを受けつつ、自分に与えられている神からの使命に生きるよう心がけましょう。それが、新約時代の人たちに神から求められている、「信仰によって生きる」生き方だと思います。

⑤ ルカ福音書によると、本日の福音のすぐ前に「一日に七回あなたに罪を犯しても、七回悔い改めると言うなら、赦してあげなさい」という主のお言葉があります。それで使徒たちは、そこまで自分の同僚を赦す自信はないからか、本日の福音の始めにあるように「私たちの信仰を増して下さい」と願ったようです。察するに、彼らは信仰を自分たちが何かを為すための能力と考えていたのではないでしょうか。そこで主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになります。彼らを失望させたくないからでしょうか、端的にあなた方には「まだ本当の信仰がない」とは話されませんが、しかしこのお言葉から察しますと、あなた方には神がお求めになっておられる本当の信仰は、まだ芥子種一粒ほどもないという意味にもなると思われます。

⑥ では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。我なしのそういう人は、神がその人の罪をお赦しになるなら、自分もその人の自分に対する負い目を百回でも千回でも喜んで赦すことでしょう。それが、神の求めておられる信仰というものであり、全能の神はそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の持つ能力で、何かの奇跡的成功を獲得し体験するのではありません。神がその人を介して働いて下さるのです。

⑦ 本日の福音の後半は、私たちの持つべきその真の信仰について説明しています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食の用意を必要としておられるなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家の嫁さんたちは、皆このようにして我なしに家族皆に奉仕していました。我なしの奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを皆無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。二十数年前頃だったでしょうか、「主婦業」という言葉が社会に流行してことがありました。全てを儲ける金銭で評価する価値観が広まった中で、家庭の主婦たちの自己主張と結ばれて生まれた言葉であると思いますが、しかし、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場ではないでしょうか。家庭の無料奉仕の愛をパイプラインとして、神の恵みが私たちの上に、また社会の上に豊かに注がれるのだと思います。私たちがこういう信仰と愛の精神に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。