2010年10月17日日曜日

説教集C年: 2007年10月21日 (日)、2007年間第29主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 17: 8~13. Ⅱ. テモテ後 3: 14 ~ 4: 2.    Ⅲ. ルカ福音書 18: 1~8.

① 本日の第一朗読には、「アーロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた」という言葉がありますが、これは古代の神の民が神に祈る時、両手を斜め上に高く挙げて祈っていたからだと思います。キリスト教会に両手を合せて祈る慣習が普及したのは、皇帝アウグストの政策で盛んになったシルクロード貿易で、東西文化の交流も盛んになり、両手を合せて祈るインドやシャム辺りの綺麗な慣習が導入された2,3世紀頃からだと思います。

② モーセが丘の上で手を挙げて祈っているとイスラエル人が勝ち、疲れて祈りを止めるとアマレク人が勝ったという言葉を、あまりにも外的、短絡的に理解しないよう気をつけましょう。神は祈っている間はお助けになるが、祈らない時にはお助けにならないような方ではありません。モーセがイスラエル軍の指揮者ヨシュアに「私は神の杖を手に持って、丘の頂に立つ」と告げていることも、見落としてはなりません。神の杖、これはモーセがあの出エジプトという難事業を遂行するために神から与えられた唯一の道具であり、それは神が彼と共にいてくださるという約束のしるしでもありました。モーセは、イスラエル人たちを滅ぼし尽くそうとしてやって来た強力なアマレク人たちを見た時、この杖を通して働いて下さる神に頼る以外に救われ得ないという深刻な恐怖感のうちに、この神の杖をもって丘の上に立ち、神に真剣に祈ったのではないでしょうか。彼のその真剣な祈りと信頼に応えて、神がイスラエル軍を助けて下さったのだと思います。手を上げて祈る時に勝ち、手を下ろすとアマレク人が優勢になったなどという、外的一時的な勝ち負け、進退の現象にあまり囚われないよう気をつけましょう。神に信頼して真剣に祈る者には、必ず最後の勝利が与えられるのですから。モーセは目先の勝ち負け現象に一喜一憂したりはせずに、それらを超越して、ひたすら神の愛に対する信頼を新たにしながら、終日祈り続けていたのだと思います。そして神はその信頼と祈りに応えて、最後の大勝利を与えて下さったのだと思います。

③ この前の日曜日にも申しましたように、私は本日の第二朗読の出典であるテモテ後書は、自分の愛弟子であるテモテ司教に対する使徒パウロの遺言のような書簡だと考えます。パウロはその中で、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と命じた後、「全て神の霊の導きの下に書かれ」ている聖書が、「信仰を通して救いに導く知恵をあなたに与えることができます」と説いています。そして「神の御前で、…キリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」と前置きして、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。咎め、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。云々」と、多少くどく感ずる程、厳しい命令を続けています。パウロは、自分たち使徒が殉教して死に絶えた後、まだ歴史の浅い教会には、外の世界からの迫害や内部からの異端説などの嵐に、根底から揺り動かされるという大きな試練の時が来ることを予感して、このような命令を書き残したのではないでしょうか。

④ 私たちの生きている「グローバル時代」といわれる現代も、キリストの教会にとっては、これまでの伝統的信仰が内外の様々な新しい荒波によって根底から揺り動かされている、大きな試練の時だと思います。極度の多様化や相対化などの荒波に抗して、主キリストの信仰遺産を護り抜くには、神の導きに対する徹底した従順と信頼と共に、実り少ない絶望的事態にも怯まずに忍耐強く神に祈ること、時には咎め、戒め、励ますことも大切なのではないでしょうか。使徒たちの残した戒めの言葉を心に銘記しながら、逃げ腰にならず積極的に、現代の巨大な激流をバランスよく渡り切るよう努めましょう。神に信頼し、神の杖をもって祈り続けたモーセのように。

⑤ 本日の福音の中で、主は「気を落とさずに絶えず祈り」続けることを教えるため、一つの譬え話を語っておられます。ユダヤ人やアラブ人の社会は、今日でも男性優位の傾向が根強く残っていますが、古代には外的社会的に女性を軽視する風潮が強かったと思われます。それで、聖書にもイスラム教のクーランにも、夫や父親の保護を失った寡婦や孤児の権利を弁護し尊重させようとする規則や言葉がたくさん読まれます。出エジプト記22章には、「寡婦や孤児は全て苦しめてはならない。もしあなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞き入れる」という神の厳しい警告の言葉も読まれます。本日の福音の譬え話に登場する不正な裁判官は神の裁きを恐れず、人を人とも思わないような人だったので、そういう規則のことは知っていても、寡婦の訴えなどは取り上げようとしなかったのだと思います。察するに、その訴えというのは、古代にも多かった遺産問題のトラブルであったでしょう。遺産を不当に横取りされて貧しくなった寡婦は、これからの一生に関わることですから我慢できず、いつまでも叫び続け、訴え続けるのだと思います。

⑥ 始めは取り合おうとしなかった裁判官も、遂にその寡婦の執念に負け、裁判に立ち上がったようですが、神信仰に生きる人も、このような「心の執念」ということもできる、不屈の真剣な信仰の叫びを持ち続けて欲しい。そうすれば神は、夜昼叫び求めている選ばれた人たちの願いを、いつまでも放っておかれることはないというのが、この譬え話の趣旨だと思います。

⑦ 必要なものを一言で、あるいはワンタッチで入手できる豊かさと便利さに慣れている現代人には、祈りの中で二、三度申し上げても神に聞き入れられなかった願い事を、いつまでも根気強く願い続けるということは、難しいかも知れません。すぐに聞き入れられないと嫌気がさし、沈黙の神に、冷淡・無関心な態度をとり勝ちになるかも知れません。しかし神は、私たちがいつまでも口先だけの祈り方をしていないで、もっと苦しんで奥底の心を目覚めさせ、心の底から本気になって祈るのを待っておられるのではないでしょうか。「本気」は「根気」なのです。日々真剣に根気強く祈る人の祈りは、必ず神に聞き入れられます。それが、主がこの譬え話を通して教えておられる真理だと思います。忍耐して根気よく祈っても、神は少しも変わらず、沈黙し続けておられるでしょう。しかし、苦しみながらのその真剣な祈りによって、私たちの心がゆっくりと変わり始め、神が待っておられる霊的土壌の中に深く根を下ろすようになります。

⑧ 相田みつをさんの「いのちの根」という詩をご存知でしょうか。「なみだをこらえて かなしみにたえるとき ぐちをいわずに くるしみにたえるとき いいわけをしないで だまって批判にたえるとき いかりをおさえて じっと屈辱にたえるとき あなたの眼のいろが ふかくなり いのちの根が    ふかくなる」という詩であります。私たちの心が苦しみに耐えて祈りつつ、黙々と根を深く下ろし、神が待っておられる地下の水脈にまで達すると、その時神の神秘な力が私たちの内に働き出して下さるのではないでしょうか。しかし主は最後に、人の子が来臨する時、この地上にそのように本気になって叫び求めている信仰者を見出すであろうか、というような疑問のお言葉を残しておられます。

⑨ ルカ福音書によると、主が弟子たちにこの話をなさったのは、エルサレムへの最後の旅行中でしたが、弟子たちはこの段階になっても、まだ神に心から本気になって祈るようなことはしていなかったのではないでしょうか。しかし、このルカ福音書18章の後半には、エリコの盲人が「ダビデの子イエス様、私を憐れんで下さい」、「ダビデの子イエス様、私を憐れんで下さい」と真剣になって叫び続け、遂に主から癒して頂いた話が載っています。この盲人のように、本気になって叫び続ける祈りの姿を、主もゲッセマニで弟子たちにお見せになっておられます。私たちもその模範を心に銘記して、将来の時に備えていましょう。