2008年1月27日日曜日

説教集A年: 2005年1月23日:2005年間第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 8: 23b~ 9: 3. Ⅱ. コリント前 1: 10~13, 17. Ⅲ. マタイ福音 4: 12~23.

①本日の第二朗読は、使徒パウロのコリント前書第1章からの引用ですが、パウロは挨拶と感謝から成るこの書簡の序文の後で、すぐに本論に入り、「皆勝手なことは言わず、仲たがいせずに、心を一つにし思いを一つにして、固く団結しなさい」と、キリストの名によって強く勧告しています。コリントの信徒団の中に争いが生じ、「私はパウロに従う」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」などと言い合っているという知らせが、クロエの家の人たちからあったからでした。それでパウロは、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか ! 」と、厳しく詰問しています。

②この厳しい叱責の言葉を、現代の私たちキリスト者も身を正して謙虚に受け止め、深く反省しなければならないと思います。ご存じのように、一口にキリスト教と言っても、教会は、カトリック教会やギリシャ正教や、英国教会・プロテスタント各派などと、歴史的に数多くのグループに分かれてしまっており、互いにその勢力拡張を競い合った前歴の名残は、今も続いているからです。四十数年前の第二ヴァチカン公会議以降、相互の話し合いや相互協力の動きが盛んになって、過去の忌まわしい対立関係が大きく緩和されて来たことは喜ばしいことですが、しかし、まだ主キリストにおける一つの信仰共同体にはなってはいません。18世紀半ば以来キリスト教会の信仰一致のためになされた提案や祈りは、個別的に幾例かありましたが、教会一致のための祈祷週間は、1856年にロンドンで開催されたYMCAの大会の時から一部のプロテスタント諸派の間でなされたのを始めとして、カトリック教会内でも1894年のレオ13世教皇の呼びかけに応じて、始めはごく一部の人々によって続けられています。20世紀に入り第一次世界大戦後に国際精神が高まると、プロテスタント諸教派の間でキリスト教一致のための祈りが次第に世界的に広まって来て、信仰と職制の一致についても教派間で幾度も話し合いがなされていますが、初代教会以来の伝統を何よりも重視するカトリック教会では、教会一致のための祈りは続けながらも、教義や教会組織などについての話し合いには距離を置いて来ました。

③ところで、これ程多くの祈りと話し合いが大きな善意のうちになされても、キリスト教会がまだ一つになれずにいるのは、何故なのでしょうか。私はその一番大きな原因を、人間主体の自分の信条、自分たちの信条や伝統というものにこだわり、主キリストや聖母マリアのように、己を徹底的に無にして神の僕・婢として生きようとしていないことにあると考えます。人間主体の善意は山ほどあるのですが、己を無にして現実世界の中での神のお考え、神の働きに徹底的に従おうとする意志的「心の信仰」に不足していますと、創世記3章に描かれている蛇の誘惑の時のように、そこに知的な悪魔の誘惑が巧みに介入し、人間の知性や心を神の無我な愛から離れるように誘導してしまうのではないでしょうか。人間主体のそういう「頭の信仰」を超越して、我なしの神の愛の御旨に徹底的に従おうとする「心の信仰」に生きるには、神の聖霊による特別の照らしと導きの恵みが必要だと思います。それでカトリック教会は、毎年1月18日からパウロの改心の記念日である25日までの八日間に、キリスト教会一致のために特別に祈ることにしています。本日のこのミサ聖祭もその意向で捧げていますので、ご一緒に心を合わせて、教会一致の恵みを神に祈り求めましょう。

④パウロは本日の第二朗読で、「キリストが私を遣わされたのは、…..福音を告げ知らせるためであり、しかも、...言葉の知恵によらずに告げ知らせるためです」と述べていますが、この言葉も私たちに、人間主体の「頭の信仰」を脱皮して己を徹底的に神に捧げ、広い大らかなキリストの愛のうちに生きるよう、私たちを促しているのではないでしょうか。私たち各人の平凡な日常生活においても、そのような柔軟で寛大な神の愛を体現するよう心がけましょう。

⑤本日の第一朗読の中でイザヤ預言者は、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。云々」と述べて、エルサレム周辺のユダヤ人たちから軽蔑され勝ちであった異教的闇の中に住む人々の所に、神よりの救いの光が輝くことを預言していますが、マタイはこの預言を念頭に置きながら、本日の福音を書いています。当時ユダヤ教の指導者たちは、預言者ミカの予言に基づいてメシアはユダヤのベトレヘムから出るとのみ思い込んでいました。彼らが、あまりにも聖書の知識のみに偏った「頭の信仰」に留まっていたからだと思います。それでマタイは、彼らの思い込みの不完全さを正すために、博士たちの来訪について述べた2章では、そのミカの予言も引用してメシアが確かにベトレヘムに生まれたことを伝えると共に、ここではイザヤ預言者の言葉を引用して、メシアの齎した救いの光がユダヤ人たちから見下されていた異邦人たちの多く住む、ガリラヤから輝き始めたことを明らかにしているのだと思われます。それは、誇り高いユダヤ教指導者たちにとっては躓きであり、神の約束に反することに見えたかも知れませんが、かつてその指導者たちから軽蔑される徴税人であったマタイは、このことも神の予言通りであることを明示したかったのだと思います。

⑥本日の福音の後半は、主がガリラヤ湖のほとりを歩いて、二人ずつ計四人の無学な漁夫を宣教活動に召し出された話です。「頭の信仰」よりも「心の信仰」を重視する主にとって、宣教とは、神のお考えや教えを解り易く合理的に解説したり、その知識をできるだけ多くの人に伝えたりすることではなく、何よりも各人が実際に見聞きし、感動した神の救う働きを人々に力強く証言することであったと思います。目撃した現実について証言することは、学歴のない素朴な労働者であっても子供であっても、現実を素直に受け止め感動する心さえあればできます。現代に生きる私たちも、主が一番望んでおられる宣教活動は、そのような神の救い体験に基づく力強い証言であることを心に銘記しながら、復活なされた救い主が今も世の終わりまで続けておられる救いの働き、私たちの中でも成しておられる救いの働きに心の眼を開き、それを世の人々に証しするよう努めましょう。私たちが皆、目に見えないながらも実際に身近に現存しておられる復活の主に対する信仰と従順に励むなら、キリスト教会の一致を妨げて来た歴史的隔ての壁も、やがてゆっくりと内面から崩壊するに到ると信じます。この希望を新たにしながら、キリスト教会の信仰一致のために祈ると共に、日々の祈りと信仰実践にも励みましょう。

2008年1月20日日曜日

説教集A年: 2005年1月16日:2005年間第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 49: 3, 5~6. Ⅱ. コリント前 1: 1~3. Ⅲ. ヨハネ福音 1: 29~34.

① 本日の第一朗読は、この前の日曜日に話した第二イザヤの預言書に読まれる四つの「主の僕」の歌の、第二のものからの引用ですが、第二イザヤの40章から48章までは、バビロンで神の民の解放が近いことを語った預言であったのに対して、本日の朗読である49章からは、エルサレムに帰って来た神の民についての預言になっています。まず49章の1節と2節には、神がその僕の名を、まだ母の胎内にいた時から呼んで、矢筒の中に隠した鋭い矢のような使命をお与えになったことが「主の僕」の歌の冒頭を飾った後に、本日の第一朗読に続いていますが、この第一朗読に抜けている4節には、「私はいたずらに骨折り、空しく力を使い果たしたと思った」というような、神の僕の弱い人間としての嘆きの言葉も収録されています。しかし神は、その弱い私を見捨てることなく、私の苦悩や働きに報いて下さることが明言されて、第一朗読の5節に続き、最後に、神がその僕を国々の光とし、神の救いを地の果てまで齎す者とすることが謳歌されています。

② ここで神の僕キリストについて預言されていることは、洗礼の秘跡によってその主キリストの霊的命に参与し、キリストの霊的体の細胞のようにして戴いた私たち各人と私たちの内的使命についても、ある意味で預言されているのではないでしょうか。神は人間的弱さを抱えて嘆くことのある私たちをも、世の人々を照らす光となし、神の救いを人々の心に齎す者として下さるのではないでしょうか。本日の第二朗読であるコリント前書の冒頭に、使徒パウロはこの書簡の宛先人として、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と書いています。「聖」という概念は、この世的清さを絶対的に超越しておられる神の聖さ、全てが神中心に秩序正しく存在し動いている来世的聖さを意味しています。従って、「聖なる人々」とは、その来世的聖さを身に宿して内的にも神に属する存在となっている人々という意味だと思います。使徒パウロの書簡に読まれるこのような表現を尊重しながら、初代教会は、何よりもまず信徒共同体や信徒各人の中で内在しておられる神の働きに心の眼を向けていましたが、私たちも同様に心がけ、私たち各人を内面から生かし、支え、導いて下さる神とのパーソナルな語らいにも心がけましょう。主キリストは、そのように心がけておられたのですから。

③ 本日の福音は、主キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの言葉ですが、31節までの前半部分でヨハネは、主が「世の罪を取り除く神の小羊」であることを証しし、同時に「来る」という動詞を二度も使いながら自分の使命について語っており、それに続く後半部分では「霊」という名詞を三度使って、主が「神の子」であることを証ししています。この前半と後半の両方にそれぞれ一回「私はこの方を知らなかった」とある言葉は、どういう意味でしょうか。この前の日曜日のマタイ福音に、主がヨハネの洗礼を受けようとしてその面前に現れた時、ヨハネが「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と話していることを考え合わせますと、私は勝手ながら、母エリザベトの胎内にいた時から聖霊に満たされ、聖母の胎内におられる神の子の来訪を感知したヨハネは、子供の時から荒れ野のエッセネ派の所で育てられ成長してはいても、自分の親戚にあたる聖母マリアがナザレトにおり、そこに神の子イエズスも生活していることは知っており、そのイエズスのお顔も見知っていたのではないかと思います。としますと、「私はこの方を知らなかった」という前述の言葉は、この方が内に秘めておられる神秘の深さは、まだ解らずにいたと解釈した方がよいのではないでしょうか。

④ ヨハネは、主が内に秘めておられるその深い神秘が神の民イスラエルの社会に現れ出るよう、主に洗礼を授けたのであり、その時聖霊がその方の上に降って留まるのを見て、この方が聖霊によって洗礼を授ける人であることを、かねて神から与えられていた啓示によって確信したのではないでしょうか。私たちの身近にも、洗礼や聖体の秘跡によって神の御子を心に宿している人々がいますが、私たちも、またその人たち自身も、神の御子のその隠れている現存を、まだほとんど感知せず、解らずにいるのではないでしょうか。私たちが主キリストのその深く隠れた現存を信仰の心で発見し、洗礼者ヨハネのように、いつも主に信仰の眼を向けながら、主のお導きに従って生活することができるよう、恵みを願いつつ本日のミサを捧げたいと思います。

2008年1月13日日曜日

説教集A年: 2005年1月9日主の洗礼(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 42: 1~4, 6~7. Ⅱ. 使徒 10: 34~38. Ⅲ. マタイ福音 3: 13~17.

① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚時代に神の民イスラエルが過去に犯した罪の恐ろしさに目覚め、落胆しかけている民に、神による救いと解放を予告した第二イザヤという言われる預言書からの引用ですが、「第二イザヤ」と言われているイザヤ書の40~55章に、四つ読まれる「主の僕の歌」のうちの最初のものであります。神がここで「私の僕」と呼んでいる者が誰を指しているかについては、ユダヤ人ラビたちの間でも解釈が分かれていて、イザヤ預言者自身を指しているのではないかだの、いや神の民イスラエルを指しているのではないかなどと言われていたそうですが、キリスト教では伝統的に救い主メシアのこととしています。メシアは後述する天からの神の声の中でも、「私の愛する子、私の心に適う者」と呼ばれていますが、同時に、神が特別に選び支えておられる神の「僕」でもあると思います。使徒たちも主キリストを「神の僕」と考えていました。使徒言行録4章によると、神殿の祭司長たちに捕らえられていたペトロとヨハネが、釈放されて信徒団の所に戻って来た時、皆が心を一つにして神に捧げた祈りの中で、「あなたの聖なる僕イエズス」という言葉が二度も読まれますから。

② ところで、この第一朗読の中に3回も登場している「裁き」という言葉は、世の終わりの時のような、この世の悪を徹底的に断罪するという意味の裁きではなく、むしろこの世にはびこる悪の支配を抑圧し、弱い者、苦しむ者を救い出す、助け出すという意味の裁きだと思います。3節には「傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく」という言葉も読まれますが、これは、いくら説明しても物分りの悪い、頑迷な心の人や、どうにも仕様がないと思われる程意志力や意欲に欠けている人をも見捨てることなく、どこまでも変わらない誠実な心で事ある毎に呼びかけ、道を示して行くことを意味しているのではないでしょうか。

③ 1970年代の前半に、安保闘争に勝てなかった若者たちの間に「しらけムード」が広まった時、無気力・無関心など子供たちの心の「三無主義」が話題になったこともありましたが、幼い時から人工的な豊かさと便利さの中で、汗水流して働く体験なしに育った現代の日本人の中にも、新たに心の無気力や意欲喪失に悩む人たちが増えているのではないでしょうか。英語のNot in Education, Employment, or Training の頭文字NEET から名づけられた「ニート」と呼ばれる若者たち、すなわち学校にも行きたくない、仕事もしたくない、どんな訓練も受けたくないという若者たちが、今の日本には既に60万人もいると聞きますが、救い主はそのような心の病に苦しむ人々をも「自己責任だ」などという冷たい言葉で切り捨てることなく、その癒しと立ち直りのために特別に配慮しておられるのではないでしょうか。彼らは皆ある意味で、神忌避の現代社会や現代のゆがんだ教育の犠牲者なのですから。「宣教」だの「伝道」などの言葉は、単に道を求めて意欲的になっている人々に福音の真理を説くことだけを意味しているのではなく、そういう働く意欲さえ失っている心の病人たちにも大きく心を開いて、その癒しと立ち直りのため尽力することも意味していると思います。福音書を調べてみますと、主キリストの宣教のかなりの部分は、癒しによって神の国の到来を証することにあったと言うことができます。私たちも心の意欲喪失に悩む人たちを足手まといとして厭わずに、主の僕・婢として祈りつつ、主のそのような宣教活動の器・道具となるよう心がけましょう。心の病からの癒しのために捧げる祈りも、立派に一つの宣教活動なのですから。特に今年成人式を迎える若者たちの上に、神からの照らしと祝福の恵みが豊かにあるよう祈りましょう。

④ 本日の福音では、主が人類の罪を背負ってなされた行為なのでしょうか、群衆に紛れ、群衆の一人となってヨハネから悔い改めの洗礼を受けるためにヨハネの所に来られましたが、驚いたヨハネが「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と言って思い留まらせようとしますと、主は「今は、止めないで欲しい。義を全て行うのは、我々に相応しいことです」と答えておられます。ここで「我々」とあるのは、誰のことでしょうか。二つの可能性があると思います。一つは、「我々」を主とヨハネとに限定し、「義」という言葉をこの二人を通して働く神の義として理解することで、二人はやがて神のご計画に従って共に殺されて行きますが、ヨハネによる主の洗礼も、神による救いの道を世に示し証する一つの業としてなしてくれるよう頼むという意味で理解する可能性であります。もう一つは、「我々」を主イエズスを含む民衆と理解し、「義」を人間が神に対して為すべきことと考える立場で、ヨハネの説く悔い改めの洗礼を受けて、今生きている心を、一旦創造の神との接点である「無」に立ち返らせ、我なしの素直に従う心で神よりのもの全てを受け入れる「義」を証するために、洗礼を授けてくれるよう頼むという意味で理解する可能性であります。

⑤ 察するに、ヨハネはこの二つの意味で主のお言葉を理解し、主に悔い改めの洗礼を授けたのではないでしょうか。その時、それまで雲で覆われていたようになっていた天が急に開け、洗礼を受けて水から上がられた主の上に、神の霊が鳩の形で降り、天から「これは、私の愛する子、私の心に適う者」という声が響き渡りました。一つは視覚的に、一つは聴覚的にイエズスが誰であるかを明らかにするものでしたが、それを見聞きした洗礼者ヨハネは、預言の時代・準備の時代の終わりと、神主導の新しい救いの時代の始まりとを、この時はっきりと自覚したと思います。主のヨルダン川での洗礼は、主のメシアとしての就任式であり、新しい時代の始まりであると思います。しかし、まだ神中心の福音的信仰生活を営んでいない人々のためには、人間側からの謙虚な準備の時代は続いていると考えてよいのではないでしょうか。ヨハネもヘロデ王に捉えられるまでは、この後もまだ悔い改めの洗礼を授けていたと思われます。

⑥ 従ってヨハネの洗礼は、神の子の命に参与して生かされるための準備の次元に属しており、まだそのような準備の次元に留まって、心に病菌を抱えている多くの現代人のため、また主の受洗を記念する私たち自身のためにも必要なものだと思います。ヨルダン川でヨハネの洗礼をお受けになった主と一致して、私たちも神の御前に己を全く無にして謙虚に生きる恵みの照らしと力を祈り求めつつ、本日のミサ聖祭をお捧げ致しましょう。

2008年1月6日日曜日

説教集A年: 2005年1月2日主の公現(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6. Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.

① 本日の福音に登場する星がどのような星であるかについて、私は1970年1月以来各地でなした講演や説教の中で、ウィーン天文学研究所長ドキエッポ教授の綿密な研究に基づいて説明しており、それは31年前に発行した拙著『一杯の水』の208頁から216頁の中でも「博士たちの星」と題して詳述して置きましたので、皆様も既に読んでおられると存じますが、わが国ではまだドキエッポ教授の新しい天文学的研究のことを知らずにいる人が多いようですので、久しぶりに本日の説教の中で、その主要点について簡単に紹介してみましょう。

② マタイ福音書第2章に述べられている「その星」が、彗星でも、老化した星の原子爆発によって一時的に明るく輝いて見える新星でもなく、木星と土星とが重なって大きく見える相合現象であろうということは、既にかなり以前の頃から有識者たちの間で言われていました。彗星は、キリスト時代の観測記録から拾うと、紀元前44年3月のユリウス・カエサル暗殺の日と、紀元前17年、ハーレー彗星が見えた紀元前12年と、紀元後66年のネロ皇帝によるキリスト者迫害の直前頃に見られただけで、一般に不吉な徴と考えられており、これを見て東方の博士たちが拝みに来たとは思われません。次にNovaといわれる新星(星の原子爆発)は、紀元前134年と紀元後173年に現れていますが、キリスト時代には観測されていません。それで、第三の木星と土星の相合現象がキリスト時代に観測されていたかの問題について、考察してみましょう。

③ この現象が805年毎に地球から観測されることを最初に突き止めたのは、ガリレオと同時代の天文学者ケプラーでした。彼はユダヤ教に、「木星と土星とが魚座の中で相会する時、メシアが現れるであろう」という、ラビ・アバルバネルの予言が言い伝えられていることを聞いて、木星と土星の軌道・周期を精密に計算し、彼が32歳の時、1603年12月18日の朝早くにプラハで、魚座を背景とするその相合現象を実際に観測し、時間を書き入れた観測記録を絵にして残しています。そして前人未到の天文学的計算をなした後、紀元前7年にも同様の現象が観測された筈だと書いています。

④ ドキエッポ教授によると、現存する四つのバビロニアの暦はいずれも断片的ですが、古代の占星術の概要を伝えており、それによると木星は最高神の星とされており、土星は幸福の王の星で、同時にパレスチナ人やイスラエル人の守護神とされているそうです。また各星座は、それぞれ地上の特定国のシンボルとされ、魚座はパレスチナまたはユダヤのシンボルと考えられていたそうです。邦訳のマタイ福音書に「博士たち」と訳されているマゴイは、太古は一部族の呼称でしたが、後にはバビロニアで星の観測などに従事している貴族的知識人たちの呼称となり、彼らは既に前9世紀頃から星の観測をしていたようです。前8世紀の中頃に活躍したアモス預言者は、バビロニア占星術の思想にかぶれて、土星を自分たちの神として拝むイスラエル人を、アモス書5:26の中で批判していますが、当時のマゴイは、今度木星と土星とが重なって昇る時、その背景となる星座の示している国に、偉大な王、世界の救い主が生まれると信じていたそうです。前述のラビ・アバルバネルの予言は、この思想に基づくものだと思われます。

⑤ 二つの星が紀元前7年のいつ重なって昇ったかについては、既に天文学者リープハルトが、それがこの年に3回あったことをその月日と共に1954年の神学雑誌に発表していますが、ドキエッポ教授の新たな一層緻密な研究はその研究を少し訂正して、前7年の3月15日、4月4日、9月15日の3回としており、いずれも早朝で魚座を背景にして昇っています。なお教授は、マタイのギリシャ語原文にen te anatole と単数で書いてあるのは「昇る時に」と訳すべき天文学上の専門用語で、en tais anatolais と複数で書いてある時の「東方で」というのとは、少し意味が違うと指摘しています。

⑥ 前7年に魚座を背景にして木星と土星とが重なって昇るのを観測したマゴイは、祖先代々の古い伝えに基づいて世界の救い主がユダヤに生まれたと考えたと思います。しかし、春に見られた二回の現象は二つの星の重なっていた時間が短くて、一緒に並んで昇ったという印象を与えたかも知れませんが、三回目の9月15日の早朝には、二つがしっかりと重なり、一つの大きな星のようになって見えた筈だとドキエッポ教授は考えています。としますと、博士たちは9月15日の観測後に救い主の誕生を確信し、旅支度を整えて拝みに来たのだと思われます。その六ヶ月前の3月15日には、洗礼者ヨハネが生まれたのかも知れません。博士たちのいたシッパルからエルサレムまでは、ゆっくりと旅して一ヶ月程の道程ですが、旅支度に手間取り、エルサレムに着いたのは11月上旬頃になったかも知れません。星が先立って道案内をし、博士たちはその後をつけて来たのだ、などという御伽噺的想像はしないで下さい。彼らは、ユダヤに行って星にメシア誕生の徴が現れたことを知らせるなら、同じく救い主の到来を待ちわびているユダヤ人たちに喜ばれるであろうし、また数多くの預言者を輩出させたことで有名なユダヤでは、彼らの齎す知らせの合鍵となる預言もあって、人類の救い主を見出すことができるであろうなどと希望しながら、やって来たのだと思われます。

⑦ ヘロデ王の宮殿で、預言によるとメシアがベトレヘムに生まれることになっているという返事を得た彼らは、エルサレムの南9キロ程のベトレヘムに向けて旅を続けましたが、それは午後になってからのことだったようです。ベトレヘムに近づくと、東方で見た星が今度は南の方に見え、幼子のいる家の上に止まったように書かれています。ドキエッポ教授の研究によると、前7年には一回だけ11月12日の夜に、木星と土星が一つに重なって南方に止まって見える、非常に珍しい現象が発生しています。止まって見えるというのは、コペルニクスによって明らかに説明された現象で、太陽から地球よりも遠い軌道をめぐっている火星・木星・土星は、観測者がいる地球の軌道がUターンすると、暫くの間地球からは逆行しているように見えますが、その逆行現象のちょうど変わり目の時に一時的に生ずる現象です。察するに、星の観測の専門家であった博士たちは11月12日の夜にベトレヘムを間近にした地点で、木星と土星が一つに重なってある家の上で止まって見えるという、神の特別の配慮によって生じたこの真に珍しい現象に遭遇し、大きな喜びに溢れたのだと思います。生まれて一ヶ月余の幼児を見出すのも、難しくなかったと思われます。

⑧ なお、メシアの誕生が、ローマの不敗太陽神の祝日に合わせて12月25日に祝われるようになったのは4世紀からで、12月にはベトレヘムの羊飼いたちも野宿していませんから、メシアが9月頃に生まれた考えるのは聖書の記事にも適合しています。また博士たちは、ルネサンス時代の絵に描かれているような家畜置き場でメシアを礼拝したのではなく、ヨゼフたちは遅くとも住民登録が終わるとすぐ、ヨゼフの本家の大きな家に住んでいたでしょうから、博士たちもそこでメシアを礼拝し、その家に一泊させていただいたのだと思います。本日の福音にも、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」とあるのですから。異邦人のためにも、このようにしてメシアに会う機会を提供して下さった神の至れり尽くせりの不思議な御摂理に感嘆し感謝すると共に、神は現代の私たちのためにも、また無数の異教徒たちのためにも、同じ愛の御摂理で配慮して下さっていることを堅く信じ、感謝し、何よりも神のお導きに従うように努めましょう。神の愛の摂理は、素直に信じて従う人々の中で働いて下さるのですから。アーメン。

2008年1月1日火曜日

説教集A年: 2005年1月1日神の母聖マリアの祝日(三ケ日)

聖書朗読: Ⅰ. 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7. Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

① 年の始めの聖書朗読は、古くから神の民イスラエルに伝わっている祝福の言葉で始まります。それは神から命じられたもので、祭司が民を荘厳に祝福して唱える言葉であります。神は新しい神の民である私たちをも守り、私たちにも恵みと平安を与えて下さいます。もし私たちが神を自分の存在の本源、自分の人生の最終目標として崇め尊び、ひたすらその導きと助けに縋って生きようとしているならば。 新しい年の初めに当たり、神の民としてのこの心構えを新たにして、神からの祝福を豊かに戴くように致しましょう。

② 第二朗読の「時満ちて」という言葉を神学生時代に読んだ時から、私の心にはいつも一つの想像が去来するようになりました。それは、海岸の砂浜に造られたさまざまな砂の模様や家や城などが、潮が満ちて来ると一様に崩されてしまう情景であります。私は既に幾度も講演・講話・説教の中などで話して来ましたので、あるいは皆様にも話したことがあるかも知れませんが、数百年来の伝統的価値観や家族組織・社会組織などが次々と流動化して拘束力を失い、内面から崩壊しつつある現代の世相も、それに似た情景を露呈しているのではないでしょうか。2千年前のオリエント諸国の世相も、同様の情景を示していたと思われます。国際的なシルクロード貿易と商工業の急速な発展と、人口の流動化や生活の豊かさなどによって、人々の価値観が極度に多様化し、親子の間でも意思の疎通を欠くようになると、自分中心に考えたり行動したりする人間が増え、家庭での躾や心の教育も投げ遣りにされて、社会には詐欺や盗みや横領などが横行していたのではないでしょうか。どれ程多くの小さい者たち、弱い者たちがその犠牲となって嘆き悲しんでいたか知れません。

③ 外的には豊かになったオリエント社会が、このようにして内的に弱体化し、人の力ではもう施す手がない程に精神的に崩壊し始めていた時、その社会の最下層に救い主がお生まれになって、神中心に生きる新しい生き方を身をもって啓示し、そのように生きるための神の命もお与えになったのではないでしょうか。現代の人類社会も同様の様相を呈し始めていることから察すると、救い主がお示しになった神中心の新しい生き方の内に、このような満潮時代に生きる人々への神からの大きな祝福と私たちの本当の生き甲斐も隠されているのではないかと思われます。新しい年の始めに当たり、神の母聖マリアの執り成しを願いつつ、救い主がお示し下さった生き方を正しく深く洞察する照らしと恵みを祈り求めましょう。

④ 本日の福音は、クリスマスの夜半のミサに朗読された福音の続きで、羊飼いたちが天使から告げられた通りに乳飲み子の救い主を見出し、天使から告げられたことを人々にも知らせ、神を崇め賛美しながら帰って行った話ですが、ここに「人々に知らせた。聞いた者は皆、……不思議に思った」とある、この「人々」は誰を指しているのでしょうか。当然その乳飲み子と共にいた聖母マリアと聖ヨゼフを指してはいますが、このお二人だけでしょうか。としますと、「そこにいた二人は」でなく、「聞いた者は皆」という書き方は少し不自然に思われます。私は勝手ながら、クリスマスの説教にも申しましたように、救い主のお生まれになった家畜置き場が、真夜中の羊飼いたちの来訪によって少し騒がしくなったので、その上のカタリマで眠っていたダビデ家の一部の人たちが、階段を下りて様子を見に来たのではないかと想像しています。その人たちが、マリアの生んだ幼子が神の子だとその時すぐに信じたとは思いませんが、羊飼いたちの語った不思議な話から、この子が神から特別に眼をかけられている恵みの子なのだと考えたのではないでしょうか。ヨゼフが、住民登録のために一時的に本家の家に来泊した他の親戚たちと違って、その後もナザレに戻らずに、ベトレヘムで一月半も滞在し得たのは、本家の人たちの格別の厚意によるのではないか、と思われます。

⑤ 本日の福音でもう一つ注目したいのは、「マリアはこれらの出来事を全て心に納めて、思い巡らせていた」という言葉です。出来事と邦訳されているギリシャ語の原語は、「語る」を意味する動詞から派生したレーマという名詞ですが、レーマは第一に「語られた言葉」を意味しており、そこから転じて「出来事」をも意味するようになったと聞いています。私はこのことから、全能の神の語られる言葉には、単に何かの心情や意味を伝える手段でしかない私たち人間の言葉とは違って、この歴史的現実世界に実際に形をとって出現したり、歴史的現象に絶対的影響を与えて、その成り行きや運命を変えることもできる程の大きな生命力が込められているのではないかと想像しています。聖書に読まれる「み言葉は肉となられた」だの、「私があなた方に話した言葉は霊であり命である」などの言葉も、これと関連して理解してよいと思います。聖母は神からの言葉のこのような神秘な働きを、この後も全て心に納めて思い巡らせておられたのではないでしょうか。年の始めに神の母を記念する私たちも、神からの言葉に対する同様の信仰を新たにしながら、聖書の言葉を心に納めて日々思いめぐらせつつ、ますます深く洞察して行く恵みを祈り求めましょう。全ての人の運命を統括しておられる神は、そのように生活する人の人生を、実り豊かにして下さると信じます。