2008年1月20日日曜日

説教集A年: 2005年1月16日:2005年間第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 49: 3, 5~6. Ⅱ. コリント前 1: 1~3. Ⅲ. ヨハネ福音 1: 29~34.

① 本日の第一朗読は、この前の日曜日に話した第二イザヤの預言書に読まれる四つの「主の僕」の歌の、第二のものからの引用ですが、第二イザヤの40章から48章までは、バビロンで神の民の解放が近いことを語った預言であったのに対して、本日の朗読である49章からは、エルサレムに帰って来た神の民についての預言になっています。まず49章の1節と2節には、神がその僕の名を、まだ母の胎内にいた時から呼んで、矢筒の中に隠した鋭い矢のような使命をお与えになったことが「主の僕」の歌の冒頭を飾った後に、本日の第一朗読に続いていますが、この第一朗読に抜けている4節には、「私はいたずらに骨折り、空しく力を使い果たしたと思った」というような、神の僕の弱い人間としての嘆きの言葉も収録されています。しかし神は、その弱い私を見捨てることなく、私の苦悩や働きに報いて下さることが明言されて、第一朗読の5節に続き、最後に、神がその僕を国々の光とし、神の救いを地の果てまで齎す者とすることが謳歌されています。

② ここで神の僕キリストについて預言されていることは、洗礼の秘跡によってその主キリストの霊的命に参与し、キリストの霊的体の細胞のようにして戴いた私たち各人と私たちの内的使命についても、ある意味で預言されているのではないでしょうか。神は人間的弱さを抱えて嘆くことのある私たちをも、世の人々を照らす光となし、神の救いを人々の心に齎す者として下さるのではないでしょうか。本日の第二朗読であるコリント前書の冒頭に、使徒パウロはこの書簡の宛先人として、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と書いています。「聖」という概念は、この世的清さを絶対的に超越しておられる神の聖さ、全てが神中心に秩序正しく存在し動いている来世的聖さを意味しています。従って、「聖なる人々」とは、その来世的聖さを身に宿して内的にも神に属する存在となっている人々という意味だと思います。使徒パウロの書簡に読まれるこのような表現を尊重しながら、初代教会は、何よりもまず信徒共同体や信徒各人の中で内在しておられる神の働きに心の眼を向けていましたが、私たちも同様に心がけ、私たち各人を内面から生かし、支え、導いて下さる神とのパーソナルな語らいにも心がけましょう。主キリストは、そのように心がけておられたのですから。

③ 本日の福音は、主キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの言葉ですが、31節までの前半部分でヨハネは、主が「世の罪を取り除く神の小羊」であることを証しし、同時に「来る」という動詞を二度も使いながら自分の使命について語っており、それに続く後半部分では「霊」という名詞を三度使って、主が「神の子」であることを証ししています。この前半と後半の両方にそれぞれ一回「私はこの方を知らなかった」とある言葉は、どういう意味でしょうか。この前の日曜日のマタイ福音に、主がヨハネの洗礼を受けようとしてその面前に現れた時、ヨハネが「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と話していることを考え合わせますと、私は勝手ながら、母エリザベトの胎内にいた時から聖霊に満たされ、聖母の胎内におられる神の子の来訪を感知したヨハネは、子供の時から荒れ野のエッセネ派の所で育てられ成長してはいても、自分の親戚にあたる聖母マリアがナザレトにおり、そこに神の子イエズスも生活していることは知っており、そのイエズスのお顔も見知っていたのではないかと思います。としますと、「私はこの方を知らなかった」という前述の言葉は、この方が内に秘めておられる神秘の深さは、まだ解らずにいたと解釈した方がよいのではないでしょうか。

④ ヨハネは、主が内に秘めておられるその深い神秘が神の民イスラエルの社会に現れ出るよう、主に洗礼を授けたのであり、その時聖霊がその方の上に降って留まるのを見て、この方が聖霊によって洗礼を授ける人であることを、かねて神から与えられていた啓示によって確信したのではないでしょうか。私たちの身近にも、洗礼や聖体の秘跡によって神の御子を心に宿している人々がいますが、私たちも、またその人たち自身も、神の御子のその隠れている現存を、まだほとんど感知せず、解らずにいるのではないでしょうか。私たちが主キリストのその深く隠れた現存を信仰の心で発見し、洗礼者ヨハネのように、いつも主に信仰の眼を向けながら、主のお導きに従って生活することができるよう、恵みを願いつつ本日のミサを捧げたいと思います。