2008年1月13日日曜日

説教集A年: 2005年1月9日主の洗礼(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 42: 1~4, 6~7. Ⅱ. 使徒 10: 34~38. Ⅲ. マタイ福音 3: 13~17.

① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚時代に神の民イスラエルが過去に犯した罪の恐ろしさに目覚め、落胆しかけている民に、神による救いと解放を予告した第二イザヤという言われる預言書からの引用ですが、「第二イザヤ」と言われているイザヤ書の40~55章に、四つ読まれる「主の僕の歌」のうちの最初のものであります。神がここで「私の僕」と呼んでいる者が誰を指しているかについては、ユダヤ人ラビたちの間でも解釈が分かれていて、イザヤ預言者自身を指しているのではないかだの、いや神の民イスラエルを指しているのではないかなどと言われていたそうですが、キリスト教では伝統的に救い主メシアのこととしています。メシアは後述する天からの神の声の中でも、「私の愛する子、私の心に適う者」と呼ばれていますが、同時に、神が特別に選び支えておられる神の「僕」でもあると思います。使徒たちも主キリストを「神の僕」と考えていました。使徒言行録4章によると、神殿の祭司長たちに捕らえられていたペトロとヨハネが、釈放されて信徒団の所に戻って来た時、皆が心を一つにして神に捧げた祈りの中で、「あなたの聖なる僕イエズス」という言葉が二度も読まれますから。

② ところで、この第一朗読の中に3回も登場している「裁き」という言葉は、世の終わりの時のような、この世の悪を徹底的に断罪するという意味の裁きではなく、むしろこの世にはびこる悪の支配を抑圧し、弱い者、苦しむ者を救い出す、助け出すという意味の裁きだと思います。3節には「傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく」という言葉も読まれますが、これは、いくら説明しても物分りの悪い、頑迷な心の人や、どうにも仕様がないと思われる程意志力や意欲に欠けている人をも見捨てることなく、どこまでも変わらない誠実な心で事ある毎に呼びかけ、道を示して行くことを意味しているのではないでしょうか。

③ 1970年代の前半に、安保闘争に勝てなかった若者たちの間に「しらけムード」が広まった時、無気力・無関心など子供たちの心の「三無主義」が話題になったこともありましたが、幼い時から人工的な豊かさと便利さの中で、汗水流して働く体験なしに育った現代の日本人の中にも、新たに心の無気力や意欲喪失に悩む人たちが増えているのではないでしょうか。英語のNot in Education, Employment, or Training の頭文字NEET から名づけられた「ニート」と呼ばれる若者たち、すなわち学校にも行きたくない、仕事もしたくない、どんな訓練も受けたくないという若者たちが、今の日本には既に60万人もいると聞きますが、救い主はそのような心の病に苦しむ人々をも「自己責任だ」などという冷たい言葉で切り捨てることなく、その癒しと立ち直りのために特別に配慮しておられるのではないでしょうか。彼らは皆ある意味で、神忌避の現代社会や現代のゆがんだ教育の犠牲者なのですから。「宣教」だの「伝道」などの言葉は、単に道を求めて意欲的になっている人々に福音の真理を説くことだけを意味しているのではなく、そういう働く意欲さえ失っている心の病人たちにも大きく心を開いて、その癒しと立ち直りのため尽力することも意味していると思います。福音書を調べてみますと、主キリストの宣教のかなりの部分は、癒しによって神の国の到来を証することにあったと言うことができます。私たちも心の意欲喪失に悩む人たちを足手まといとして厭わずに、主の僕・婢として祈りつつ、主のそのような宣教活動の器・道具となるよう心がけましょう。心の病からの癒しのために捧げる祈りも、立派に一つの宣教活動なのですから。特に今年成人式を迎える若者たちの上に、神からの照らしと祝福の恵みが豊かにあるよう祈りましょう。

④ 本日の福音では、主が人類の罪を背負ってなされた行為なのでしょうか、群衆に紛れ、群衆の一人となってヨハネから悔い改めの洗礼を受けるためにヨハネの所に来られましたが、驚いたヨハネが「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と言って思い留まらせようとしますと、主は「今は、止めないで欲しい。義を全て行うのは、我々に相応しいことです」と答えておられます。ここで「我々」とあるのは、誰のことでしょうか。二つの可能性があると思います。一つは、「我々」を主とヨハネとに限定し、「義」という言葉をこの二人を通して働く神の義として理解することで、二人はやがて神のご計画に従って共に殺されて行きますが、ヨハネによる主の洗礼も、神による救いの道を世に示し証する一つの業としてなしてくれるよう頼むという意味で理解する可能性であります。もう一つは、「我々」を主イエズスを含む民衆と理解し、「義」を人間が神に対して為すべきことと考える立場で、ヨハネの説く悔い改めの洗礼を受けて、今生きている心を、一旦創造の神との接点である「無」に立ち返らせ、我なしの素直に従う心で神よりのもの全てを受け入れる「義」を証するために、洗礼を授けてくれるよう頼むという意味で理解する可能性であります。

⑤ 察するに、ヨハネはこの二つの意味で主のお言葉を理解し、主に悔い改めの洗礼を授けたのではないでしょうか。その時、それまで雲で覆われていたようになっていた天が急に開け、洗礼を受けて水から上がられた主の上に、神の霊が鳩の形で降り、天から「これは、私の愛する子、私の心に適う者」という声が響き渡りました。一つは視覚的に、一つは聴覚的にイエズスが誰であるかを明らかにするものでしたが、それを見聞きした洗礼者ヨハネは、預言の時代・準備の時代の終わりと、神主導の新しい救いの時代の始まりとを、この時はっきりと自覚したと思います。主のヨルダン川での洗礼は、主のメシアとしての就任式であり、新しい時代の始まりであると思います。しかし、まだ神中心の福音的信仰生活を営んでいない人々のためには、人間側からの謙虚な準備の時代は続いていると考えてよいのではないでしょうか。ヨハネもヘロデ王に捉えられるまでは、この後もまだ悔い改めの洗礼を授けていたと思われます。

⑥ 従ってヨハネの洗礼は、神の子の命に参与して生かされるための準備の次元に属しており、まだそのような準備の次元に留まって、心に病菌を抱えている多くの現代人のため、また主の受洗を記念する私たち自身のためにも必要なものだと思います。ヨルダン川でヨハネの洗礼をお受けになった主と一致して、私たちも神の御前に己を全く無にして謙虚に生きる恵みの照らしと力を祈り求めつつ、本日のミサ聖祭をお捧げ致しましょう。