2008年1月27日日曜日

説教集A年: 2005年1月23日:2005年間第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 8: 23b~ 9: 3. Ⅱ. コリント前 1: 10~13, 17. Ⅲ. マタイ福音 4: 12~23.

①本日の第二朗読は、使徒パウロのコリント前書第1章からの引用ですが、パウロは挨拶と感謝から成るこの書簡の序文の後で、すぐに本論に入り、「皆勝手なことは言わず、仲たがいせずに、心を一つにし思いを一つにして、固く団結しなさい」と、キリストの名によって強く勧告しています。コリントの信徒団の中に争いが生じ、「私はパウロに従う」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」などと言い合っているという知らせが、クロエの家の人たちからあったからでした。それでパウロは、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか ! 」と、厳しく詰問しています。

②この厳しい叱責の言葉を、現代の私たちキリスト者も身を正して謙虚に受け止め、深く反省しなければならないと思います。ご存じのように、一口にキリスト教と言っても、教会は、カトリック教会やギリシャ正教や、英国教会・プロテスタント各派などと、歴史的に数多くのグループに分かれてしまっており、互いにその勢力拡張を競い合った前歴の名残は、今も続いているからです。四十数年前の第二ヴァチカン公会議以降、相互の話し合いや相互協力の動きが盛んになって、過去の忌まわしい対立関係が大きく緩和されて来たことは喜ばしいことですが、しかし、まだ主キリストにおける一つの信仰共同体にはなってはいません。18世紀半ば以来キリスト教会の信仰一致のためになされた提案や祈りは、個別的に幾例かありましたが、教会一致のための祈祷週間は、1856年にロンドンで開催されたYMCAの大会の時から一部のプロテスタント諸派の間でなされたのを始めとして、カトリック教会内でも1894年のレオ13世教皇の呼びかけに応じて、始めはごく一部の人々によって続けられています。20世紀に入り第一次世界大戦後に国際精神が高まると、プロテスタント諸教派の間でキリスト教一致のための祈りが次第に世界的に広まって来て、信仰と職制の一致についても教派間で幾度も話し合いがなされていますが、初代教会以来の伝統を何よりも重視するカトリック教会では、教会一致のための祈りは続けながらも、教義や教会組織などについての話し合いには距離を置いて来ました。

③ところで、これ程多くの祈りと話し合いが大きな善意のうちになされても、キリスト教会がまだ一つになれずにいるのは、何故なのでしょうか。私はその一番大きな原因を、人間主体の自分の信条、自分たちの信条や伝統というものにこだわり、主キリストや聖母マリアのように、己を徹底的に無にして神の僕・婢として生きようとしていないことにあると考えます。人間主体の善意は山ほどあるのですが、己を無にして現実世界の中での神のお考え、神の働きに徹底的に従おうとする意志的「心の信仰」に不足していますと、創世記3章に描かれている蛇の誘惑の時のように、そこに知的な悪魔の誘惑が巧みに介入し、人間の知性や心を神の無我な愛から離れるように誘導してしまうのではないでしょうか。人間主体のそういう「頭の信仰」を超越して、我なしの神の愛の御旨に徹底的に従おうとする「心の信仰」に生きるには、神の聖霊による特別の照らしと導きの恵みが必要だと思います。それでカトリック教会は、毎年1月18日からパウロの改心の記念日である25日までの八日間に、キリスト教会一致のために特別に祈ることにしています。本日のこのミサ聖祭もその意向で捧げていますので、ご一緒に心を合わせて、教会一致の恵みを神に祈り求めましょう。

④パウロは本日の第二朗読で、「キリストが私を遣わされたのは、…..福音を告げ知らせるためであり、しかも、...言葉の知恵によらずに告げ知らせるためです」と述べていますが、この言葉も私たちに、人間主体の「頭の信仰」を脱皮して己を徹底的に神に捧げ、広い大らかなキリストの愛のうちに生きるよう、私たちを促しているのではないでしょうか。私たち各人の平凡な日常生活においても、そのような柔軟で寛大な神の愛を体現するよう心がけましょう。

⑤本日の第一朗読の中でイザヤ預言者は、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。云々」と述べて、エルサレム周辺のユダヤ人たちから軽蔑され勝ちであった異教的闇の中に住む人々の所に、神よりの救いの光が輝くことを預言していますが、マタイはこの預言を念頭に置きながら、本日の福音を書いています。当時ユダヤ教の指導者たちは、預言者ミカの予言に基づいてメシアはユダヤのベトレヘムから出るとのみ思い込んでいました。彼らが、あまりにも聖書の知識のみに偏った「頭の信仰」に留まっていたからだと思います。それでマタイは、彼らの思い込みの不完全さを正すために、博士たちの来訪について述べた2章では、そのミカの予言も引用してメシアが確かにベトレヘムに生まれたことを伝えると共に、ここではイザヤ預言者の言葉を引用して、メシアの齎した救いの光がユダヤ人たちから見下されていた異邦人たちの多く住む、ガリラヤから輝き始めたことを明らかにしているのだと思われます。それは、誇り高いユダヤ教指導者たちにとっては躓きであり、神の約束に反することに見えたかも知れませんが、かつてその指導者たちから軽蔑される徴税人であったマタイは、このことも神の予言通りであることを明示したかったのだと思います。

⑥本日の福音の後半は、主がガリラヤ湖のほとりを歩いて、二人ずつ計四人の無学な漁夫を宣教活動に召し出された話です。「頭の信仰」よりも「心の信仰」を重視する主にとって、宣教とは、神のお考えや教えを解り易く合理的に解説したり、その知識をできるだけ多くの人に伝えたりすることではなく、何よりも各人が実際に見聞きし、感動した神の救う働きを人々に力強く証言することであったと思います。目撃した現実について証言することは、学歴のない素朴な労働者であっても子供であっても、現実を素直に受け止め感動する心さえあればできます。現代に生きる私たちも、主が一番望んでおられる宣教活動は、そのような神の救い体験に基づく力強い証言であることを心に銘記しながら、復活なされた救い主が今も世の終わりまで続けておられる救いの働き、私たちの中でも成しておられる救いの働きに心の眼を開き、それを世の人々に証しするよう努めましょう。私たちが皆、目に見えないながらも実際に身近に現存しておられる復活の主に対する信仰と従順に励むなら、キリスト教会の一致を妨げて来た歴史的隔ての壁も、やがてゆっくりと内面から崩壊するに到ると信じます。この希望を新たにしながら、キリスト教会の信仰一致のために祈ると共に、日々の祈りと信仰実践にも励みましょう。