2008年2月3日日曜日

説教集A年: 2005年1月30日:2005年間第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ゼファニヤ 2: 3, 3: 12~13. Ⅱ. コリント前 1: 26~31. Ⅲ. マタイ福音 5: 1~12a.

① 本日の第一朗読の預言者ゼファニヤは、バビロン捕囚の少し前頃の人で、ヒゼキヤ王の血を引く貴族出身者であったと考えられています。当時のユダヤ貴族の罪深さをよく知っていて、「主は言われる。私は地の表から全てのものを一掃する」という言葉で、恐ろしい主の怒りの日についての預言を書き始めています。しかし、ゼファニヤ預言者の言う「主の怒りの日」は終わりの日ではなく、そこから新しい神の民が出現する始まりの日のようです。本日の第一朗読にも、「恵みの業を求めよ。苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に、あるいは身を守られるであろう。」「私は お前の中に、苦しめられ卑しめられた民を残す。彼らは、主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は、云々」とあって、神に従おうとしない世俗社会での成功や安楽を自分の人生目的とせずに、苦しみに耐えてひたすら神の御旨を訊ね求め、それに従おうとしている少数の小さい貧しい者たちには、神が避難所を提供してその人たちを匿い、生き残らせて下さることが予告されています。ゼファニヤという名前も、「隠す」という意味の動詞から派生している名詞のようです。

② 本日の第二朗読の中でも、「神は、…世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、誰一人神の前で誇ることがないようにするためです」という言葉が読まれますが、私たちも、預言者ならびに使徒たちのこれらの言葉に従って、ひたすら神の御旨中心に、神に匿われて小さく貧しく忠実に生きるよう心がけましょう。そうすれば、不慮の恐るべき天罰の日や災害の日にも、神に守られて生き残り、神の民として立ち直って新しく仕合せに生き続けることができると信じます。

③ 本日の福音は、いわゆる「山上の説教」と言われている話からの引用ですが、その始めにギリシャ語原文で「この群衆を見て」とあるその群衆とは、すぐ前にある文脈を見ますと、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から来た大勢の群衆を指しています。としますと、そこにはユダヤ人に混じって非常に多くの異教徒もいたと思われます。ルカ福音6章の平行記事を見ても同様です。どちらの福音にも、主はこの話の後でカファルナウムの町に行っています。従って、マタイがここで「山」と書いているのは、地上高くに聳えているような山ではなく、大群衆が一緒に寄り集まることのできる広い高台や高原のような所を指していると思われます。カファルナウムの西南にはちょうどそのような広い平坦な丘がありますし、そこには今日「山上の説教」の教会が建っています。それでルカが、山にいって夜通し祈ってから12使徒を選定した主が、「彼らと共に山を下り、平らな所にお立ちになった」と書いている処と同じ、平らな丘の上での話であったと思われます。

④ しかし、マタイがその処をわざわざ「山」と表現しているのには、何か特別な意図があるからではないでしょうか。察するにマタイはこの「山上の説教」を、神がかつてシナイ山上でモーセを介して旧約の神の民に授けた十戒などの信仰規範に匹敵する、神の子メシアがユダヤ人も異邦人も一緒になっている新しい神の民に、人里よりは天に近い山の上から授けた新約時代の信仰規範として描いているのではないでしょうか。それでこの観点から、本日の福音であるいわゆる「真福八端」(八つの幸い) について、考察してみましょう。

⑤ まず出エジプト記20章に載っている十戒には、「他のものを神にしてはならない」とか「みだりにあなたの神、主の名を呼んではならない」とか、「ならない」という禁令が数多く連発されており、その間に二回だけ「安息日を心に留めて聖とせよ」という命令と、「あなたの父母を敬え」という命令があって、旧約の信仰規範は全体として、罪に傾き勝ちな人間の自由を束縛し、心を矯めなおそうとしているような印象を与えます。これに対してマタイの描く新約の信仰規範は、まず「マカリオイ(幸い)」という言葉を連発しながら、神の救う力がどういう人々の中で働くかを啓示しています。「幸い」と邦訳されている原語の「マカリオイ」は、英語ではhappyと訳されていますが、いずれも少しニュアンスが違っていて、中国語の「恵福」(恵まれ祝福された) という訳語の方が、原語の意味に近いと思われます。新約の信仰規範は、神から各人の心に注がれる温かい思いやりの精神で、主体的に自由に生きさせる規範であり、ますます豊かに神よりの恵みと祝福を受けさせる規範である、と考えてよいのではないでしょうか。

⑥ 次に、十戒の最初の部分が対神関係、後の部分が対人関係のものであるように、私は勝手ながら、マタイ福音書にある「真福八端」も、前半部分に神に対する心の態度を、「憐れみ深い人々」以降の後半部分に人に対する心の態度を教えていると受け止めています。もしこの見解が正鵠を得ているとするなら、主はこの世で貧しい人、悲しんでいる人が天国に入れていただき慰められる、などと説かれたのではないと思います。神の御前で霊的に貧しい人、すなわち人間の心が生み出す一切の偶像を捨て去って真の神以外のものを神とせず、ひたすら神中心に生きている宗教的に貧しい人が、神の国、すなわち神の支配・神の働きを自分のものとする、と宣言しておられるのだと思います。

⑦ 「心の貧しい」と邦訳されている原文のプトーコイ・トー・プネウマティは、原文をそのまま訳しますと「霊において貧しい」となり、神の御前での霊的乞食を指していると思われますし、同様に「悲しむ人々」という言葉も、この世の富・権力・名誉や、対人関係のことで悲嘆に暮れている人々のことではなく、何よりも神を忘れ、神に背を向けて生き勝ちな自分の中の罪のことで悲しむ人々を指している、と私は受け止めます。ここで「慰められる」と邦訳されている動詞パラカレオーは、直訳すると「側で声をかける」となり、慰め励ますという意味で理解することもできますが、側で声をかけて慰めて下さるのは、神ご自身なのではないでしょうか。第三の「柔和な人々」も、対神関係の観点から見直しますと、八方美人のような人々ではなく、神からの呼びかけや導きにすぐに従おうとしている聖母や聖ヨゼフのような、神の僕・神の婢の精神で生活している人々を指していると思います。「柔和な」と邦訳されているヘブライ語も、「貧しい」と邦訳されているヘブライ語と同様に、背を曲げるという意味合いを持っているそうです。これは、神の御前に遜り、神に徹底的に従おうとしている人々の姿を指しているのではないでしょうか。第四の「義に飢え渇く人々」は、この世の社会正義や自分の権利主張のために奔走する人々のことではなく、神の御前での義、すなわち神に対する正しい従属関係のうちに生きることを切望している人々を指していると思います。そういう人の心は、ちょうど鉄が磁石に引きつけられるように絶えず神に憧れ、神中心に生きようと努めると思いますが、この憧れは、神に近づくほど強くなるのではないでしょうか。

⑧ 次に後半部分で「幸い」と言われている人々は、この世の暗い難しい生活環境や、真の信仰に生きる人を迫害するような社会状況の中で、神の愛の命に生かされている人々を指していると思います。「憐れみ深い人々」は、たといこの世では人から理解されず迫害されることが多いとしても、その罪を快く赦して善をなす人々を、「心の清い人々」は、心に神の愛の火を燃やしつつ、誤解する人や迫害する人をも温かい清い眼差しで眺める人々を、更に「平和を造る人々」は、神の子キリストの献身的愛の精神に内面から生かされつつ、この世の人々の間に互いに赦しあい助け合う精神を広める人々を指していると思います。たとい神の義のために迫害されたり、あるいは身に覚えのない言葉や行いのことで悪口を浴びせられることがあっても、荒れ狂うその現実や滅び行くこの世の流れを恐れずに、むしろ「その時にこそ大いに喜びなさい。天国はその人たちのものであり、その人たちは天国で大きな報いを受けるのですから」というのが、主キリストが新しい神の民に与えた実践的信仰規範なのではないでしょうか。私たちも積極的心意気を重んずるこの規範を日々心に銘記しながら、激動する今の世を希望をもって生き抜きましょう。