2014年2月23日日曜日

説教集A2011年:2011年間第7主日(三ケ日)



第1朗読 レビ記 19章1~2、17~18節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 3章16~23節
福音朗読 マタイによる福音書 5章38~48節

   本日の第一朗読の出典であるレビ記は、創世記・出エジプト記に続くモーセ五書の第三の文書で、その前半には犠牲と祭司について、後半には神の民についての規定が述べられています。その後半の17章から26章までは、「神聖法典」とも呼ばれています。そこには「私は聖であるから、あなた方も聖でなければならない」という神のお言葉が、幾度も登場しているからだと思います。この「聖」という言葉は、真・善・美などこの世で通用している価値観とは違うので、多くの人には解り難いと思いますが、私はこれを、「神中心主義のあの世的聖さ」を意味していると考えています。万物の創り主であられる神に対する感謝と愛の心で生きること、それがあの世的聖さに輝く聖なる生き方だと思います。神は本日の朗読個所で、「あなたたちは聖なる者となりなさい」と命じておられますが、何事にも私たちの命の本源であられる神に対する感謝と愛の心で、神に心の眼を向け神中心に聖く生きること、これが私たちに対する神の第一の一番大きなお望みだと思います。この神の御旨を基盤として生きる所に、私たちの心の聖さも、人生の仕合わせもあるのではないでしょうか。

   第一朗読の後半には、「心の中で兄弟を憎んではならない」「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である」という神のお言葉がありますが、この隣人愛の基盤も、私たち全てのものの創り主・所有主であられる神に対する感謝と愛であります。「自分自身を愛するように」というお言葉を、見逃さないように致しましょう。神から頂いた私たちのこの存在、私たちのこの心と体も、全ては私たち個人のものではなく、神から愛されている神の所有物です。神に対するこの信仰と愛を基盤として、各人の心と体を大切にし、健康な体、聖なる愛の働く心に磨き上げるよう心掛けましょう。そしてこの自分自身を愛するようにして、同じく神の所有物である隣人たちをも愛するように努めましょう。70年程前の戦争中には、国のために命を捧げることを勧める余り、自己愛を蔑視する人たちがいましたが、そんな人間理性が考え出した合理主義的一辺倒には気を付けましょう。神に対する感謝と愛を第一にする基盤に立てば、自己愛も隣人愛も、敵に対する愛も愛国心も、皆神よりのもので、大切にすべきものであります。しかし、神の御摂理により隣人を、敵を、あるいは祖国を救うために自分の命を捧げることが必要と思われるような事態に立たされたような時は、主キリストの模範に倣って、喜んで自分の命を神に捧げましょう。神がこの世の人々に多くの恵みをもたらす媒介となる、神への聖なるいけにえとして。

   本日の第二朗読の中で、使徒パウロは「あなた方は神の神殿なのです」と強調し、「あなた方はキリストのもの、キリストは神のものなのです」とも述べています。これらの言葉も大切だと思います。何でも自分の頭で研究して理解し、自分が主導権を取って利用しよう所有しようとするこの世的知恵者を、パウロは「神の前では愚かな者」として退けています。まず己を無にして、神の器となり神の神殿となりましょう。器にとり、また神殿にとって大切なのは、その中心に位置する何もない部分であります。私たちの心のその中心部に居座り勝ちな利己的な「古いアダム」の精神を追い出し、空っぽにして置きましょう。それが、仏教者がよく口にする「無」あるいは「空」の境地だと思います。そうして置くと、そこに目に見えない神の霊が宿り、働き始めて下さいます。神の僕・神の婢として、その神の霊に従って生きようと努めればよいのです。これが、使徒パウロのいう、「神の神殿」として生きることだと思います。全てを理解し利用し所有しようと努めなくても、パウロの言うように、神において「世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなた方のもの」なのですから、心配いりません。ただ神の為さることだけに心の眼を向け、神の導くままに従順に従っていましょう。

   本日の福音の中では、主が弟子たちに「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」などと話しておられます。一般社会の常識となっている「人間各人の権利」や「社会道徳」というような人間の理論にだけ囚われていますと、とてもそのようなことはできませんし、それは悪者たちをつけ上がらせ、社会道徳を乱して社会を不穏なものにしてしまう危険な行為でもあります。なぜ主はそのようなことをおっしゃったのでしょうか。マタイは主のそのお言葉を山上の説教の中に収録してまとめ、主がシリア、ガリラヤ、ユダヤ等々の各地からやって来た大勢の群衆を前にして、一般的に話されたかのような話にしていますが、察するにこの話は、ご自身が主の弟子として伝道するために特別にお選びになった、ごく一部の人たちにだけ語られたのではないでしょうか。その人たちは、言わば神の生きている神殿、神の聖霊の依り代(よりしろ)のようになって働く権能を与えられるので、その霊の導くままに悪人達をも悔い改めへと導くため、そのように行うようお命じになったのだと思います。主ご自身も、御受難の時にはそのように行動なさいました。そしてその行為によって、それを目撃した無数の人々の心に神による救いの恵みを呼び下し、処刑者側の百人隊長にも「真にこの人は神の御子であった」と言わせる程、その心に深い感動をお与えになったのだと思います。私たち修道者も、神から聖霊の神殿として生きるよう召されていると思います。将来もし主の御受難の苦しみに参与するような状況に導き入れられたなら、主のこのお言葉を忘れずに、多くの人の救いのために喜んで全ての苦しみをお献げ致しましょう。

   福音の後半には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである」「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」というお言葉が読まれます。主のこのお言葉も、心に銘記していましょう。ただし、「天の父が完全であられるように」というお言葉を、この世の人間の道徳観や倫理観で非の打ちどころがない程立派な人格的完全さを指している、などと誤解しないよう気を付けましょう。そんなこの世的人格者になることは、私たちにはできませんし、神から求められてもいません。ここで言われているのは、悪人にも善人にも例外なく全ての人に恵みの光や雨をお注ぎになる、「全ての人に与える」という意味での完全さであると思います。

2014年2月16日日曜日

説教集A2011年:2011年間第6主日(三ケ日)



第1朗読 シラ書 15章15~20節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 2章6~10節
福音朗読 マタイによる福音書 5章7~37節

   本日の第一朗読の出典であるシラ書は、その序文から察しますと、紀元前2世紀にエジプトでヘブライ語で書かれた聖書で、「知恵の書」や「ダニエル書補遺」などと共に、ユダヤ教の聖書とはされていませんので、共同訳聖書では「旧約聖書続編」に入れられています。「七十人訳」と言われるギリシャ語訳の旧約聖書には、「シラーの子イエススの叡智」という題がついていますが、紀元3世紀の頃のアフリカの教会ではこの聖書がキリスト信徒の集会で愛読されたことから、聖チプリアノ司教の頃から「集会書」と呼ばれるようになりました。この聖書の第1章は「全ての知恵は主から来る。主と共に永遠に存在する」という言葉で始まっており、「主を畏れること」を「知恵の初め」として強調しています。只今ここで読まれた第一朗読の15章も「主を畏れる人は」という言葉で始まっており、その14節の「主が初めに人間を創られた時、自分で判断する力をお与えになった」という言葉に続いて、本日の第一朗読には初めに「その意志さえあれば、お前は掟を守り、しかも快く忠実にそれを行うことができる」という言葉が述べられています。

   ところで、神が初めにアダムに注がれた「命の息」神の霊を原罪によって失ってしまった人間、すなわち生れながら罪に穢れている人間には、どれ程努力しても自分の生来の力では神が求めておられる掟を遵守することができないのではないでしょうか。本日の朗読は私たちに、それについて考えさせていると思います。16節と17節に「主は、お前の前に火と水を置かれた。手を差し伸べて欲しい方を取ればよい。人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が彼に与えられる」という、謎のような言葉が置かれているからです。罪に穢れている私たち人間の自然性は、自分の手を差し伸べて火を選び取ることはできません。また「生の道と死の道のどちらかを選び取れ」と言われたら、生の道を望むのが自然ですが、しかしその道の途中には、数々の困難や苦労に待ち受けているのではないでしょうか。聖書はこの言葉のすぐ後に、「主の知恵は豊かであり、主の力は強く、全てを見通される。主は、御自分を畏れる人たちに目を注がれる。人間の行いは全て主に知られている」と述べて、私たちの生れながらの自然的力に頼って判断したり行動したりするのではなく、何よりも主の知恵に聴き従い、主の力に頼って主を畏れ慎みながら生きるように、と勧めているように見えます。人祖の罪によって神より注がれた「命の息」、すなわち神の霊の照らしや力を失っている私たち自然の人間がどれ程弱く誤り易いか、神の助けを必要としている弱々しい私たち人間の行いの全てを主は見通しておられるのです。そして主を畏れ、主の霊に聴き従おうとする心の人に目を注ぎ、その人を導き助けて下さる、という意味のお言葉だと思います。

   最後に「主は、不信仰であれとは誰にも命じたことがなく、罪を犯すことを許されたこともなかった」とありますが、ここで言われている「不信仰」や「罪」は、ユダヤの律法学者たちが問題にしていた伝統的宗教生活の外的営み方に反することではなく、何よりも神が問題にしておられる「不信仰」と「罪」であり、それは神を畏れず、神の霊に聴き従わずに自分中心に自分の自然の力だけに頼って行動しようとする「古いアダム」の生き方や罪を指していると思います。私たちもまずそういう人間中心の生き方に死んで、いつも神の知恵の霊に聴き従う生き方を営むように心掛けましょう。

   本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私たちが語るのは、隠されていた神秘としての神の知恵であり」「それはこの世の知恵ではなく、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」と述べていますが、神の知恵とこの世の知恵という、この二つの知恵の違いを心得て置くことも大切だと思います。この世の知恵は、私たちの生活しているこの世の現実・この世の体験に基づいて人間が発見した、言わば人間中心の生活の知恵ですが、そこにはこの世の人生生活のため学ぶべき貴重な真理がいろいろとあります。それも大切にしなければなりませんが、しかし、人間は単にこの苦しみの世で百年そこそこ生きるために創られた存在ではありません。神に特別に似せて創られた私たち人間の本当の人生はあの世にあり、あの世で神の許に神と共に永遠に神に感謝しつつ生きる所に、神に似せて創られた人間の使命と生き甲斐があると思います。この世の人生は、あの世でのその人生のための準備期間であって、その準備のため一番必要なのは、あの世の霊の知恵に聴き従うことだと思います。使徒パウロが強調する、このようなあの世的霊の知恵を二の次にしないよう気を付けましょう。

   本日の福音の中で主イエスは、「私が来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と話し、「全てのことが実現し、天地が消え失せるまでに、律法の文字から一点一画も消え失せることはない」などと強調しておられます。紀元70年にエルサレムが滅び、エルサレム神殿も無くなって、かろうじて生き延びたユダヤ人たちの間では今も律法の生活規定が遵守されていますが、主イエスのこれらのお言葉はどう受け止めたらよいのでしょうか。私の個人的見解では、主は「律法の文字」というお言葉で、旧約聖書に記されているユダヤ教の規定だけではなく、新約時代も含め全ての文字による宗教的規定を指しておられたと思います。それらは私たちの信仰生活を正しく営ませ、教会組織を構成し発展させて種々の危険や混乱を阻止するために必要な外的枠組みですが、道路のガードレールのようなそれらの規定を遵守して、様々な危険から守られながら生活しているだけでは、まだ神の霊に内面から生かされ、神の御旨に聴き従う神の僕・婢の生き方ではないと思います。それで主は、それらの規定を「廃止するためではなく、完成するため」に来たのだと宣言なされたのだと思います。神から与えられた「律法や預言者」、すなわち聖書の規定は全て、私たちが神の霊に生かされ、神の御旨に従って生きるための恵みなのですから。主はこのようにして生きることを、「律法を完成する」と表現なさったのではないでしょうか。

   「あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない」という、主の厳しいお言葉も忘れてはならないと思います。当時の律法学者やファリサイ派の人々は聖書を細かく忠実に研究して、本日の福音の後半に主があげておられるような、昔の人たちが神から命じられた掟は全て遵守していました。しかし、それらの掟を人間中心・自分中心の「古いアダム」の精神で理解したり解釈したりしていたようです。そこで主は、「しかし、私は言っておく」という言葉を四回も連発して、そのような人間中心の解釈を退け、神の霊に生かされている人のもっと厳しい解釈を提示なさったのだと思います。同じことは、現代の私たちが大切にしている修道生活の会憲や、公会議公文書などについても言うことができると思います。特に40数年前に開催された第二ヴァチカン公会議が発布した新しい規定については、一部の人たちの間で様々の誤った解釈が流布しているようですが、気をつけたいと思います。神の霊に生かされ、日々神の僕・神の婢として何よりも神の声なき声に聴き従うよう心掛けましょう。そうすれば、神の知恵の霊が私たちの心を守り導いて下さると信じます。その恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。

2014年2月11日火曜日

説教集A2011年:2011年2月11日ペトロ安井雅訓(まさのり)帰天七年の追悼式に



第1朗読 創世記 41.56-42.26
第2朗読 列王記上8・22-23、27-30
福音朗読 マルコ7・1-13

    七年前の216日に、神は晩年の数年間を信仰と希望の内に病と戦いながら、入退院を繰り返しておられたペトロ雅訓様を、天にお召しになりました。推察するに、今はあの世で先に洗礼を受けて天国に召された愛するペトロ謙様と共に、まだこの世にいる私たちのために祈っていて下さることと信じます。死別によって別れ、言葉を交わすことはできなくても、祈りは私たち相互の心と心を結ぶ絆として、神から与えられた恵みだと思います。カトリック司祭に叙階された私は、かつて教わったドイツ人宣教師たちの模範に倣って、毎週火曜日と金曜日のミサの中で、お先にあの世に召された霊魂たちのために個人的に祈りを捧げています。もちろんその中では雅訓様のためにも、合わせてあの世での御冥福をお祈りしています。長年このような慣習を大切にして続けていますと、これまでに幾度も数多く、あの世からの助け、導きと思われる小さな体験をしています。それで祈りはこの世とあの世とをつなぐ心のパイプであり、直接に言葉を交わすことはできなくても、神の霊が働いてこの世の私たちの思いをあの世の霊魂たちに伝え、あの世の霊魂たちの思いを現実的な助け、導きという形でこの世の私たちに届けて下さるのではないか、と度重なる小さな体験から確信しています。本日の私たちのこの祈りもあの世の雅訓様、謙様に届けられ、お二人は神の恵みを受けて喜んでおられ、あの世から私たちの無事と幸せを祈っておられることと信じます。

    話は違いますが、謙様、雅訓様が次々とあの世に召された後、この世の社会はまた一段と不穏なものとなりつつあるように覚えます。心に家庭や社会に対する不満を抱えている若者たちが、次第に増えて来ているように見えるからです。五年程前に日本青少年研究所が、日本・中国・アメリカの高校生それぞれ千人に対して、自分の親に対しての意識調査をしたことがありました。「将来自分の親が高齢になって手助けなしに生活できなくなった時、親の面倒をみるか」という問いに「みる」と答えた生徒は、中国では66%、アメリカでは46%なのに対して、日本ではわずか16%でした。核家族化して狭い家に住んでいる現代日本の住宅事情から、自分の家ではなくどこかの施設に入ってもらう、と考える日本人が多いのかも知れません。続いて「親は自分の子供に介護されることを喜ぶであろうか」という問いに対しても、中国とアメリカでは「喜ぶ」の返事が70%なのに、日本では30%だけでした。今の日本の若い世代における親子の心の断絶を示した衝撃的数値ですが、心理学者たちによるとその原因は、1歳から6歳頃までの心の情緒が発達する時期に、子供が一番必要としている親子の心の交流に不足している家庭が、最近の日本では極度に増えて来ていることにあるようです。五年程前の高校生たちは、1990年頃の経済的バブル崩壊前後に生まれたと思いますが、わが国ではそれ以前の高度成長期に都会での両親の共働きが定着し、日中子供を育児園に預けて働いた母親たちは、夜は食事の世話やテレビなどで時を過ごし、子供にもテレビや一人で遊べる様々の便利な遊び道具を与えることが多くて、親子の自由で親密な語らいや心の交わりに時間を割くことが少な過ぎたのではないかと思われます。成績重視・塾通いなどの……も。

    能力主義的日本社会に広まっている心の教育のこのような失陥は、高度に発達した現代技術文明が世界中に広まり、合理的能力主義や効率主義が全人類を支配するようになりますと、他の国々でも心の情操教育が疎かにされて、貧者や弱者に対する思いやりに欠ける人間や現代社会を憎む人間が多くなり、社会全体が次第に冷たくなって行くかも知れません。しかし、私たちは神から来世信仰の恵みを頂いています。祈りによってあの世の神、あの世の霊魂たちとの心の結びつきを深めるように努めましょう。日々よく祈る生き方を続けるなら、私たちはどんなに危険な状況や難しい事態に直面しても、あの世からの照らし、導き、助けなどを受けて、次々とそれらの難局を忍耐強く切り抜けることができると信じます。雅訓様、謙様も、その時はあの世から私たちを助けてくれると信じましょう。