2014年2月2日日曜日

説教集A2011年:2011年間第4主日(三ケ日で)



マタイ5章1‐12a節

   本日の第一朗読のゼファニヤ預言者は、敬虔なヒゼキヤ王の血を引く貴族出身者であったようですが、紀元前7世紀のヨシア王の時代に「主の日」、すなわち恐ろしい主の怒りの日の到来について預言しています。その予言書の始めには、「私は地の面からすべてのものを一掃する」という主のお言葉があり、続いてさまざまな生き物や人々に対する容赦なしの恐ろしい天罰が、具体的に描かれています。近年キリスト教会内には、聖書に予言されているこういう恐ろしい「主の日」を、苦しみや怖れの多かった古い時代の人々の思想的名残であるかのように軽視し、もっと現代社会や現代生活に適合した信仰倫理だけを聖書から学び取ろうとする人たちが多いようですが、しかし、神による厳しい裁きと「主の日」の到来に対する信仰は、私たちの信仰生活の一つの大切な基盤であり、神に対する畏れや神から離れる危険性を軽視する人は、この世の罪深い流れに無意識のうちに巻き込まれ深い闇に落とされて行くと思います。詩編にも箴言にも「主を畏れることは知恵の初め」という言葉が三回も読まれますし、主に対する敬虔な畏れの大切さや必要性については、旧約聖書にも新約聖書にも幾度も説かれています。
   しかし、私たちの神は罪の穢れを忌み嫌って、穢れているものを全て滅ぼし尽くそうとしておられるだけなのではありません。何よりも私たちを愛し、その穢れた流れから救い出そうとしておられる愛の神でもあります。ですから、恐ろしい「主の日」について警告しているゼファニヤの預言の中には、本日の第一朗読にあるように、私たちに救いの希望を与えて、慰め励ます言葉も読まれます。「主を求めよ」「恵みの業を求めよ。苦しみに耐えることを求めよ」そうすれば、「主の怒りの日に身を守られるであろう」「私はお前の中に、苦しめられ卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする」「イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを語らない」「彼らは養われて憩い、彼らを脅かす者はいない」などの言葉です。ひたすら神の愛と憐れみの御心に心の眼を向け、その御心に依りすがって、罪に穢れたこの世に対する神の激しい怒りと天罰の日に、その試練に耐えて生き残るよう努めましょう。そうすれば神は、神への愛と信頼の内に生き残った人々に以前より遥かに大きな慈しみを示して下さいます。
   本日の第二朗読の中で、使徒パウロは「神は知恵ある者に恥をかかせるために世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために世の無力な者を選ばれました」と述べています。この言葉を誤解しないよう気をつけましょう。神の選びを受けて人の何倍も逞しく働いていたパウロは、人間的には決して無学で無力な者ではありませんでした。しかし、自分の学識や強さなどを人々に誇示したりはせず、ひたすら自分の弱さや「無であること」に心の眼を向けつつ、その弱さの中にこそ現存して下さる復活なされた主キリストの全能の力に縋って、主キリストの救う働きを身をもって証しようと心がけていたのだと思います。それが彼のいう「無学な者」「無力な者」の生き方だと思います。私たちも神に愛され選ばれるために、自分の人間的な考えや力に頼ることなく、何よりも神の僕、神の婢として神の御摂理にのみ心の眼を向け、主キリストの助けを願い求めつつ生きるように心掛けましょう。そうすれば、主の霊が私たちの心を内面から生かして、私たちの心を道具のように使い、数々の良い実を結ばせて下さいます。
   ご存じのように、わが国では十数年前から毎年3万人以上の大人たちが自殺しています。最近の全国交通事故死が、以前に年間で1万人以上であった所から何とか5千人程に減少していることと比べると、この数値はあまりにも大き過ぎます。人間の命、しかも大人にまで成長した命は、その所有権を保持する神にとっては大切な宝ですので、神は現代人の自殺数の増加を深く悲しんでおられると思います。この悲劇を回避するため、どうしたら良いでしょうか。実は韓国でも、最近は自死する人が1万数千人になって来ているそうですし、全世界では毎年百万人以上の人が自死している、と推測されているのだそうです。しかも、明日の食べ物に困窮していない人々の間で多く起こっているそうですので、その原因は複雑で、現代文明の急速な普及に伴って副次的に発生した各種の個人的・社会的対立や閉塞感に耐えきれない、人の心の弱さにあると思います。
   今とは比較できない程貧しかった昔には、人は生きるために家族や近隣の人たちと助け合い話し合って生活していました。そのためごく自然に各人が日々互いに挨拶し話し合って生活する社交の場、英語でsocietyと言われるものが生まれていました。福沢諭吉はこのsocietyという英単語を「人間交際」と邦訳しているそうですが、各人の人間的交流が薄れるにつれてそれは「社会」と邦訳されるようになり、その後はもう心も言葉も交流しない単なる多数人の集合体を、「社会」と呼ぶようになってしまいました。高度に発達し全てを豊かにしている現代文明の中では、多くの人は子供の時から自分独自の個室に住み、様々な電子機器やパソコンなどを思いのままに自由に使いながら成長しますので、生まれる子供が激減している現代日本の状況では、スポーツや音楽のクラブなどに入って、同志と一緒に励まし合い助け合って何かを成功させるような活動を長年続けて来たような人たちを除くと、大人になっても、他人の気持ちを察知したり困難に立ち向かって難局を忍耐強く潜り抜けたりする能力や、弱い者・貧しい者に対する思いやりの心に不足している、個人主義的な人が少なくないと思われます。高度に発達した物質文明の中で便利に生活しながらも、心に深刻な孤独の悩みを抱えている、そういう現代人の救済や自殺予防のため、わが国では1980年代前半から様々なボランティア活動が発足し、例えば「いのちの電話」などはかなりの成果を上げていますが、悩む心に耳を傾けて親しく話し合う、そういう努力だけではまだまだ大きく不足しているようで、1990年代の中頃からはわが国の自殺者数が毎年3万人を超えるようになっています。事態がここまで来たら、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もありますが、この上は何よりも神の力に頼って、神の特別の助けと恵みを今の世の苦しむ人たちの上に呼び下す必要があるのではないでしょうか。そのためには、今の世の流れに逆行しますが、「清貧に対する愛とその実践」が、一つの貴重な秘訣ではないかと愚考します。
   本日の福音は、「山上の垂訓」とも言われている話の冒頭に主が掲げた箇条書きの信条のような話ですが、十戒を基本にした旧約の神の民の倫理とは違う、「新しい神の民の憲法」と称してもよいと思います。世界中のどの民族の宗教にも、成文化されているいないに拘わらず、他の人に迷惑をかけないための一定の法規がありますが、主がここで話された神の民の倫理は、それらのどこにも見られない全く新しいものですから、神の民になるためには、どの民族の出身者からも、これ迄の倫理の考え方や宗教心の根本的変革が、神から求められると思います。ここではそのうち「真福八端」の最初「心の貧しい人々は幸い」についてだけ、少し考えて見ましょう。原文では「霊において貧しい人々は幸い」となっていて、これについては6年前にもこの聖堂で説教したことですが、この言葉はこの世の物資に窮乏している人たちのことではなく、神の御前で霊的に貧者のようになって清貧愛の内に生活している人たちを指していると思います。そのような清貧愛に生きたアシジの聖フランシスコが、神から特別に愛されて数々の恵みを受け、創立した修道会の会員数を驚くほど多く増やしたばかりでなく、自分でも歴史上最初に貧しいかいば桶での幼児メシアの誕生を記念するクリスマス行事を教会に導入したり主キリストの御聖痕を身に受けたりしたことなどから考えますと、私たちの神は日々個人的に清貧を愛し、その愛を小さな事で実践的に表明している人たちを特別にお心にかけ、その人の祈りや働きに豊かな内的実りを与えようとしておられるのではないでしょうか。豊かさ・快適さを際限なく求めている自由主義・能力主義の今の世の巨大な流れの陰に、温かい心の交流や支え合い、並びに自分の人生の生きがいを見出せずに内的孤立に苦しみ、深刻な絶望の内に自死する人たちや、不特定多数の人を殺害してこのような冷たい社会に復讐しようとする人たちの上に、神の特別の憐れみと助けを呼び下すためにも、日常的な小さな事での清貧愛や節制に努めたいと思います。