2014年2月9日日曜日

説教集A2011年:2011年間第5主日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 58章7~10節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 2章1~5節
福音朗読 マタイによる福音書 5章13~16節


    本日の第一朗読は、バビロン捕囚から故国ユダヤに戻って荒れ果てた祖国の再建にとりかかっている、神の民イスラエルに宛てて語られた第三イザヤ書からの引用ですが、彼らは山程ある困難を克服する助けを神に願い求めて断食や苦行をしても、神がなかなか助けて下さらないので、「何ゆえ私たちの断食や苦行を顧みて下さらないのか」などと嘆いていたようです。そこで神は預言者を通して、貧困に苦しむ人々の多い時代、貧富の格差の目立つ時代に生きる人々から、神が望んでおられる断食は、何よりも献身的な慈善行為であることを語られたのです。それが本日の第一朗読の始めに繋がっています。私たちも間もなく四旬節に入りますが、数十年前に私が高齢の信者たちを訪ねて明治・大正頃の教会や信者生活についてお聞きしたところでは、昔の信者たちは四旬節に、日曜祝日を除いて日々厳しく断食の規則を守っていました。第二次世界大戦後に教皇ピオ12世が、四旬節の断食や苦行の規則を大きく緩和して、それよりも苦しむ人たちへの温かい愛の実践を強調するようになった理由の一つは、本日の第三イザヤ預言者を介して語られた神のお言葉にあると思います。

    その第一朗読には「あなたの光」という言葉が二度も登場しています。この光は私たちの心の傷を癒し、私たちを導き守っていて下さる神の愛の光を指していると思います。私たちの生きているこの大きく発展した物質文明の世界には、外的豊かさ・便利さだけを追い求めて自己中心主義の殻に閉じこもっている人が多く、そのため身近の隣人と言葉を交わすことも助け合うこともなく、遂には自己中心主義の心が産み出す深刻な孤独の悩みを抱えてしまう人が少なくないようです。この前の日曜日の説教に、私はわが国で十数年前から毎年3万人以上の大人が自殺していることや、現代技術文明の普及に伴い全世界では毎年百万人以上の人が自死していると推察されていることなどについて話しましたが、その後の先週月曜日にある新聞を読みましたら、毎日発行の官報に掲載される行旅死亡人の数を集計すると、最近は年間32千人にのぼると書いてありました。行旅死亡人とは、警察や自治体が身元を掴めなかった行き倒れの無縁死者を指していて自殺者とは別ですので、それと自殺者数とを合わせると年間6万数千人となり、人々の心に深刻な孤独の悩みを産み出して止まない、現代の能力主義的教育や生活環境の悲劇は、急速に拡大して来ているように思われます。私たちが小さいながらも清貧や節約に心掛け、神と人とに対する愛の実践によって神の愛の内的光が私たちの心の中から輝き出るように努める時、神は本日のイザヤ預言書にあるように「私はここにいる」とおっしゃって、私たちを覆い包むように立ちこめている現代世界の暗い冷たい内的闇が、今の世界から次第に消え去るようお働き下さるのじはないでしょうか。神の現存に対する信仰の内に、希望を持って励みましょう。

    使徒パウロは本日の第二朗読の中で、コリントで宣教した時に人間の「優れた言葉や知恵を用いませんでした」「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と述べています。そしてそれは、コリントの人々が「人間の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」などと説明しています。何事も理知的に考えたり批判したりし勝ちな現代世界の流れの中で生活している私たちにとっても、これらの言葉は大切だと思います。現代人の心の悩みも、極度に多様化しつつある現代社会にはびこる各種のトラブルも、理知的な説得や話し合いでは解決できない心の病的なこだわりや偏向性に根ざしていることが多く、主キリストの霊に照らされて人間主導の生き方にいったん死に、神の御旨に徹底的に従おう、そして神の愛を体得しようと一心に努めると、神の霊が働いて下さり意外と簡単に問題を解消して下さるのではないでしょうか。

    本日の福音は、山上の説教の始めに掲げられている真福八端(八つの幸い)に続く話ですが、真福八端では三人称複数形でごく一般的に言われていたのに、ここでは弟子たちに向かって、「あなた方は」と二人称複数形で語られています。主はまず、主に聞き従う弟子たちは「地の塩である」と、神の御眼から見た弟子たちの内的姿について話されます。それは同時に、彼らがこの世の人間社会に対して神から与えられている使命を示す言葉でもあります。塩が食物の腐敗を防ぎ、食物に味をつけるように、彼らは社会の中にあって人々の心の腐敗を防止し、人々の心に陰ながらそっと伴いつつ、それに味をつける使命を頂いているのではないでしょうか。食物の持つ本来の味を引き立てるには塩味が強すぎてはなりません。それで、料理にはよく「隠し塩」という言葉も使われています。同様に、彼らの宗教色があまり強すぎたり、緊急の特別な社会的必要性が一時的に生じた時以外は、宗教者が上から人々を支配することは好ましくないと思います。政治とは違う隠れた内的領域で、ちょうど家庭の母親のようにして人々の心の教育や心構えなどに神信仰の塩味をつけてあげるのが、主がその弟子たちにお与えになった使命を継承している私たち宗教者の使命なのではないでしょうか。

    主は続いて弟子たちに、「あなた方は世の光である。云々」とおっしゃいました。それは、今の時代に生きる私たち各人に話されたお言葉でもあると思います。神から信仰の恵みを受けた魂を、神はまだ闇の中にいる人々の心を照らすために、時として人前に大きく輝かせようとなさいます。その時、自分の利己的な配慮や怖れや損得勘定から、その光を隠してしまわないよう気を付けましょう。その光はあなたのものではなく、神のものなのですから。ちょうど朝露が朝日を浴びて輝くように、あなたの受けたその光を、喜んで為す立派な行いの実践によって、希望も喜びも失って苦しんでいる人々の前に輝かしましょう。その時人々は、あなたの模範を見ることを介して天の御父からの照らしや恵みを受け、神信仰へと導かれると思います。私たち人間の目には何も見えなくても、神の霊がその人たちの心の中でお働きになるのです。私たちにそっと伴っておられる神に心の眼を向けながら、日々の生活のうちに神よりの光を輝かすように心掛けましょう。アシジの聖フランシスコは一度、一人の弟子を連れて町の人々に説教しに出かけましたが、一言も話さずに家に戻って来てしまいました。それでその弟子が「今日は何も説教しませんでしたね」と申しましたら、聖人は「黙って歩きながら、説教して来たのだ」とお答えになったそうです。神は私たちからも、日々何よりもこのような沈黙の説教を今の世の人たちに為してくれるよう、望んでおられるのではないでしょうか。日常の平凡な仕事や奉仕、あるいは外出や旅行などを通しても、私たちはささやかながら、今の世の人たちに神の愛の光を輝かせ、神よりの恵みを伝えることができるのではないでしょうか。神の霊が私たちの小さな行為や動作の中でお働き下さるように、心掛けましょう。