2014年2月16日日曜日

説教集A2011年:2011年間第6主日(三ケ日)



第1朗読 シラ書 15章15~20節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 2章6~10節
福音朗読 マタイによる福音書 5章7~37節

   本日の第一朗読の出典であるシラ書は、その序文から察しますと、紀元前2世紀にエジプトでヘブライ語で書かれた聖書で、「知恵の書」や「ダニエル書補遺」などと共に、ユダヤ教の聖書とはされていませんので、共同訳聖書では「旧約聖書続編」に入れられています。「七十人訳」と言われるギリシャ語訳の旧約聖書には、「シラーの子イエススの叡智」という題がついていますが、紀元3世紀の頃のアフリカの教会ではこの聖書がキリスト信徒の集会で愛読されたことから、聖チプリアノ司教の頃から「集会書」と呼ばれるようになりました。この聖書の第1章は「全ての知恵は主から来る。主と共に永遠に存在する」という言葉で始まっており、「主を畏れること」を「知恵の初め」として強調しています。只今ここで読まれた第一朗読の15章も「主を畏れる人は」という言葉で始まっており、その14節の「主が初めに人間を創られた時、自分で判断する力をお与えになった」という言葉に続いて、本日の第一朗読には初めに「その意志さえあれば、お前は掟を守り、しかも快く忠実にそれを行うことができる」という言葉が述べられています。

   ところで、神が初めにアダムに注がれた「命の息」神の霊を原罪によって失ってしまった人間、すなわち生れながら罪に穢れている人間には、どれ程努力しても自分の生来の力では神が求めておられる掟を遵守することができないのではないでしょうか。本日の朗読は私たちに、それについて考えさせていると思います。16節と17節に「主は、お前の前に火と水を置かれた。手を差し伸べて欲しい方を取ればよい。人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が彼に与えられる」という、謎のような言葉が置かれているからです。罪に穢れている私たち人間の自然性は、自分の手を差し伸べて火を選び取ることはできません。また「生の道と死の道のどちらかを選び取れ」と言われたら、生の道を望むのが自然ですが、しかしその道の途中には、数々の困難や苦労に待ち受けているのではないでしょうか。聖書はこの言葉のすぐ後に、「主の知恵は豊かであり、主の力は強く、全てを見通される。主は、御自分を畏れる人たちに目を注がれる。人間の行いは全て主に知られている」と述べて、私たちの生れながらの自然的力に頼って判断したり行動したりするのではなく、何よりも主の知恵に聴き従い、主の力に頼って主を畏れ慎みながら生きるように、と勧めているように見えます。人祖の罪によって神より注がれた「命の息」、すなわち神の霊の照らしや力を失っている私たち自然の人間がどれ程弱く誤り易いか、神の助けを必要としている弱々しい私たち人間の行いの全てを主は見通しておられるのです。そして主を畏れ、主の霊に聴き従おうとする心の人に目を注ぎ、その人を導き助けて下さる、という意味のお言葉だと思います。

   最後に「主は、不信仰であれとは誰にも命じたことがなく、罪を犯すことを許されたこともなかった」とありますが、ここで言われている「不信仰」や「罪」は、ユダヤの律法学者たちが問題にしていた伝統的宗教生活の外的営み方に反することではなく、何よりも神が問題にしておられる「不信仰」と「罪」であり、それは神を畏れず、神の霊に聴き従わずに自分中心に自分の自然の力だけに頼って行動しようとする「古いアダム」の生き方や罪を指していると思います。私たちもまずそういう人間中心の生き方に死んで、いつも神の知恵の霊に聴き従う生き方を営むように心掛けましょう。

   本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私たちが語るのは、隠されていた神秘としての神の知恵であり」「それはこの世の知恵ではなく、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」と述べていますが、神の知恵とこの世の知恵という、この二つの知恵の違いを心得て置くことも大切だと思います。この世の知恵は、私たちの生活しているこの世の現実・この世の体験に基づいて人間が発見した、言わば人間中心の生活の知恵ですが、そこにはこの世の人生生活のため学ぶべき貴重な真理がいろいろとあります。それも大切にしなければなりませんが、しかし、人間は単にこの苦しみの世で百年そこそこ生きるために創られた存在ではありません。神に特別に似せて創られた私たち人間の本当の人生はあの世にあり、あの世で神の許に神と共に永遠に神に感謝しつつ生きる所に、神に似せて創られた人間の使命と生き甲斐があると思います。この世の人生は、あの世でのその人生のための準備期間であって、その準備のため一番必要なのは、あの世の霊の知恵に聴き従うことだと思います。使徒パウロが強調する、このようなあの世的霊の知恵を二の次にしないよう気を付けましょう。

   本日の福音の中で主イエスは、「私が来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と話し、「全てのことが実現し、天地が消え失せるまでに、律法の文字から一点一画も消え失せることはない」などと強調しておられます。紀元70年にエルサレムが滅び、エルサレム神殿も無くなって、かろうじて生き延びたユダヤ人たちの間では今も律法の生活規定が遵守されていますが、主イエスのこれらのお言葉はどう受け止めたらよいのでしょうか。私の個人的見解では、主は「律法の文字」というお言葉で、旧約聖書に記されているユダヤ教の規定だけではなく、新約時代も含め全ての文字による宗教的規定を指しておられたと思います。それらは私たちの信仰生活を正しく営ませ、教会組織を構成し発展させて種々の危険や混乱を阻止するために必要な外的枠組みですが、道路のガードレールのようなそれらの規定を遵守して、様々な危険から守られながら生活しているだけでは、まだ神の霊に内面から生かされ、神の御旨に聴き従う神の僕・婢の生き方ではないと思います。それで主は、それらの規定を「廃止するためではなく、完成するため」に来たのだと宣言なされたのだと思います。神から与えられた「律法や預言者」、すなわち聖書の規定は全て、私たちが神の霊に生かされ、神の御旨に従って生きるための恵みなのですから。主はこのようにして生きることを、「律法を完成する」と表現なさったのではないでしょうか。

   「あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない」という、主の厳しいお言葉も忘れてはならないと思います。当時の律法学者やファリサイ派の人々は聖書を細かく忠実に研究して、本日の福音の後半に主があげておられるような、昔の人たちが神から命じられた掟は全て遵守していました。しかし、それらの掟を人間中心・自分中心の「古いアダム」の精神で理解したり解釈したりしていたようです。そこで主は、「しかし、私は言っておく」という言葉を四回も連発して、そのような人間中心の解釈を退け、神の霊に生かされている人のもっと厳しい解釈を提示なさったのだと思います。同じことは、現代の私たちが大切にしている修道生活の会憲や、公会議公文書などについても言うことができると思います。特に40数年前に開催された第二ヴァチカン公会議が発布した新しい規定については、一部の人たちの間で様々の誤った解釈が流布しているようですが、気をつけたいと思います。神の霊に生かされ、日々神の僕・神の婢として何よりも神の声なき声に聴き従うよう心掛けましょう。そうすれば、神の知恵の霊が私たちの心を守り導いて下さると信じます。その恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。