2009年3月29日日曜日

説教集B年: 2006年4月2日、四旬節第5主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 31: 31~34. Ⅱ. ヘブライ 5: 7~9.
   Ⅲ. ヨハネ福音 12: 20~33.
① 本日の第一朗読であるエレミヤの預言書31章は、ある意味では旧約聖書の最高峰とも言われています。主なる神がイスラエルの家と新しい契約を結び、その律法を彼らの心に記す日が来ることを予告して、神の民によって破られることの多かった旧約の完成である、新約への預言がなされているからであります。ところで、この31章に読まれる神の長い話の始めに、神が「民の中で剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける。イスラエルが安住の地に向かう時に」と話し始めておられることは、注目してよいと思います。
② この預言がなされたバビロン捕囚直前頃のユダ王国の宗教事情は乱れていて、エレミヤ預言者は迫害されていました。モーセの時にシナイ山で締結された神との契約、神をイスラエルの民の主と仰いで生きるという契約は守られず、宗教界は人間中心の世俗的精神に汚染されていたからです。それで、バビロニアの襲撃という天罰を受けて神の民のバビロン捕囚が始まったのですが、国家の滅亡というかつてなかった程の悲惨な破局が迫って来ている中で、エレミヤは旧約を遥かに凌ぐ新約を思わせるような、神からの大きな祝福に満ちた時代の到来を、天罰の剣を免れて生き残る人々のために予言したのでした。彼らはその恵みを荒れ野で、すなわちこの世の生きとし生けるものが全て乾燥に苦しみ、人々が絶望的貧困と苦難を体験しつつひたすら神に救いを祈り求めるような状態で受けるのです。
③ 神の言われるその荒れ野は、バビロン捕囚やメシアの受難死など、様々な苦難の時を指していたと考えてもよいと思います。そのような苦難の時に絶望せず、祈りつつ神によって与えられる安住の地に向かって進もうと努めるなら、神はその人たちの心に新しい律法を書き記し、その人たちと新しい契約を結んで、その人たちは新しく神の民となるのです。こうして彼らは皆、小さい者も大きい者も、ちょうど羊がその牧者の声を聞き分けるように、神の導きや働きを正しく察知するようになり、神は彼らの過去の罪悪を全て赦して下さる、というのがエレミヤの受けた神の約束だと思います。この約束は、バビロン捕囚時代やメシア時代に実現したばかりでなく、その後にも、信仰に生きる各人の心の中で実現していると考えてよいでしょう。私たちも苦しみに出遭う時、それを神との出会いの時、恵みの時と考えて、使徒パウロがフィリピ書3章に書いている「十字架の敵」として歩むことのないよう心がけましょう。
④ 本日の第二朗読からは、二つのことを学びたいと思います。その一つは、「その畏れ敬う態度のゆえに聞きいれられた」という説明からであります。主イエスは、神の御独り子であっても、また激しい叫び声をあげ、どれほど涙を流して祈っても、その出自やその祈り声だけでは、人間としてのその願いはまだ天の御父に聞きいれられず、神を畏れ敬い、神の御旨中心に生きる心を、日ごろの態度にもはっきりと表明し体現していたので、その心の表われを御覧になった神に願いが聞きいれられた、という意味でその説明を受け止めたいと思います。ヨハネ5章の中ほどに、主はユダヤ人たちに、「私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御旨を行おうとしているからである」と話しておられますが、何が正しいかという正義の問題になると、私たち人間は、とかく何かの法や何かの理論に基づいて考えようとし勝ちですが、それはこの世の社会には通用しても、神には通用しません。神の上に法や人間の理論を置くことになるからです。私たちの信仰生活においては、神の御旨だけが正義の基準であり、それを実践的に畏れ尊ぶ生活だけが神に願いが聞き届けられる道であると信じます。主は、その模範を身を持って示しておられたのではないでしょうか。
⑤ 第二朗読から学びたいもう一つのことは、「多くの苦しみによって従順を学ばれ、完全な者となられたので」全ての人の「永遠の救いの源となった」という理由付けであります。神の子という肩書きや、修道者・司祭というような肩書きが幾つあっても、それだけではたとえどれ程多くの祈りを神に捧げても、人々の上に救いの恵みを豊かに呼び降すことはできないと思います。私たちの心の奥底には、人祖から受け継いだ自分中心の罪の根、不従順の罪の力がまだ残っていて、神の働きを妨げて止まないでしょうから。その隠れている罪の力を多くの苦しみに耐えることによって根絶し、神への徹底的従順を体得してこそ、そして神の愛の恵みが心の底にまで完全に行き届く人間になってこそ、神の御独り子と内的に深く結ばれた神の子・修道者・司祭となり、全ての人に救いの恵みを伝える神の器に高められるのではないでしょうか。人となられた神の子イエスを、人間としても初めから全てを知っておられて、何も学ぶ必要のなかった方と考えないように気をつけましょう。主は人間としては多くの苦しみによって神への従順を学び、最後まで内的に成長し続けられた方だと思います。神は私たちも同じ様に内的に成長し続け、人類救済の業に参与するよう望んでおられるのではないでしょうか。主において私たちにも与えられているこの使命を、私たちもできるだけ忠実に果たすことができるよう、主の実践に学びましょう。
⑥ ここで「完全な者」とある言葉を、社会道徳の観点から非の打ち所のない人格者、などと考えないように致しましょう。それは神の愛の働きが完全に行き届いている、という意味でしょうから。主がマタイ5章の終りに「天の御父が完全であられるように、あなた方も完全な者になりなさい」と命じられたお言葉も、その前にある文脈から考えますと、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる天の御父の愛が全ての人に行き渡っているように、隣人に対する私たちの愛も、自分を愛してくれる人たちだけにではなく、自分の敵にも、自分を迫害する人たちにも行き渡らせる人間になりなさい、という意味だと思います。そのような愛の人になるには、神の御言葉の種が根を深く張り易いように、自分の心の奥にある固い土を耕し砕く努力も必要であります。旧約聖書には「砕く」という言葉が数多く使われていますが、神は今も、私たちの心が肥沃な「砕かれた心」になることを、切に望んでおられると思います。
⑦ 主のご受難が間近に迫って来た頃の話である本日の福音には、「栄光」という言葉が4回、「今」という言葉が3回、「時」という言葉が4回登場しています。ヨハネ福音の7章と8章には、主の敵対者たちが神殿の境内で教えておられる主を捕らえようとしたが、「イエスの時がまだ来ていなかったので」できなかったと述べられています。しかし、本日のヨハネ福音には、主ご自身がいよいよその「時」が来たことを明言しておられます。その契機となったのは、ユダヤ人の過越祭の時に礼拝するため、エルサレムに上って来た数人のギリシャ人たちが、ギリシャ系の名前を持つフィリッポとアンドレアスを介して、主に御目にかかりたいと願い出たことでした。主が彼らにお会いになったかどうかについて、ヨハネは何も語っていませんが、彼らからの願い出を聞くと、主はすぐに「人の子が栄光を受ける時が来た。云々」と話し始められたのです。主は以前に「善い牧者」について語られた時、「私にはこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらをも導かなければならない。…. こうして一つの群れ、一人の牧者となる。…. 私は命を捨てることができ、また再びそれを得ることができる。私は、この命令を父から受けた」などと話されましたが、異邦人の到来は、何かこの話と関係しているのではないしょうか。主はこの出来事の中に何か御父からの徴を御覧になり、この時に異邦人たちの罪も背負われたのではないでしょうか。とにかく主は、異邦人たちの来訪を知らされると、ご自身の死についての話をなされて、「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名に栄光を現して下さい」と祈りましたが、その時天から「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が響き渡ったようです。側にいた群衆はそれを、雷が鳴っただの、天使が語ったなどと思ったようですが、その声が威厳に満ちていたからであったと思われます。
⑧ ところで、主が「栄光を受ける時」あるいは「御名に栄光を現す時」と表現しておられるその「時」は、主がその御命を捨てる時を指しています。主はその時について、「一粒の麦が地に落ちて、…. 死ねば多くの実を結ぶ」と説明し、更に弟子たちのためにも、「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所にいることになり、…. 父はその人を大切にして下さる」などと教えておられます。私たちも主と一致して神に敵対する人類の罪までも背負い、その罪に汚れた自分の命をいけにえとなして神に捧げるなら、そして地に葬られてその殻を破るなら、その時、私たちのこの世の命の殻の中に孕まれていた神の子の永遠の命も輝き出て、多くの人を救いに導き、豊かな実を結ぶに至るのではないでしょうか。私たち各人がこのようにしてそれぞれの死を神に捧げる時、本日の福音にあるように、神の栄光が私たち各人の上にも現れて、この世の支配者、悪霊たちを追放して下さるのではないでしょうか。それは、生身の人間になられた主ご自身も、「私の魂は騒いでいる。何と言おうか。父よ、私をこの時から救って下さい」と御父に祈られた程、恐ろしい苦しみの「時」でしょうが、しかし、その魂がこの世の殻を破って輝かしい栄光の命に生まれ出る時でもあります。ちょうど昆虫が羽化して成虫になる飛躍の時のように。
⑨ 主の受難死と復活を記念する聖週間の典礼を間近にして、本日の福音にある主のお言葉を心に銘記しながら、私たちも主と共に全てを全能の神に委ねつつ、大きな信頼のうちに自分の死を先取りし、主の死を追体験するよう心がけましょう。繰り返しになりますが、主は「私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所に私に仕える者もいることになる」「父はその人を大切にして下さる」と語っておられるのですから。恐れずに、主と共に勇気をもって死に向かって進んで行きましょう。多くの人の救いのため、自分の命も主のいけにえに合わせて天の御父にお献げするために。

2009年3月25日水曜日

説教集B年: 2006年3月25日、神のお告げの祭日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 7: 10~14; 8: 10c. Ⅱ. ヘブライ 10: 4~10.
   Ⅲ. ルカ福音 1: 26~38.

① 本日のこの祝日は、昔は聖母の祝日とされていましたが、40年ほど前の典礼改革の時から、この世に受肉なされた神の御ことば、主キリストの祝祭日として祝われるようになりました。聖母マリアが大天使ガブリエルを介して神のお告げを受け、それに承諾なされたことも同時に記念致しますが、神の御ことばのこの世への来臨に重点を置いて祝う祝日ですので、ひと言その神の御ことばについて話をさせて戴きます。
② 神の御言葉の受肉と聞きますと、多くの信徒は、私たち人間に救いの恵みを提供するため人類社会の一員になって下さったのだと、原罪の結果多くの悩みや苦しみを抱えて呻吟している人類社会の観点から、その受肉の出来事を受け止め勝ちだと思います。それで結構なのですが、しかし、ローマ書8章にある「被造物は全て今日に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっています」という言葉や、「被造物もいつか滅びへの隷属から解放されて、神の子らの栄光に輝く自由にあずかれるからです」などの言葉を読むと、天の御父はもっと遥かに大きな規模でこの出来事を観ておられるように思います。すなわち単に人類の救いだけではなく、全被造物の救いと栄光化のために、その御独り子を人間としてお遣わしになったのではないでしょうか。
③ もちろん、神に特別に似せて創られた人間は万物の霊長として、いわば天と地、神と全被造物との接点にあって立つ存在なので、神もまずはその人間の救済を念頭に置いておられて、救われる人類が御独り子を頭とする一つ共同体になることを望んでおられるでしょうが、しかし、この人類の救済と栄光化を介して、お創りになった全被造物の救済と栄光化も意図しておられると思います。神の御ことばは、単に人類社会に受肉し、天の御父から人類を受け取られただけではなく、被造物世界全体にも受肉し、全ての被造物をもお受け取りになったのだと思います。そして今も、この世の終末に万物が栄光化される日までは、創られた全ての存在を両手でしっかりと支え、黙々と浄化しつつあるのだと信じます。
④ 「作品は作者を表す」という言葉がありますが、生命の本源であられる神によって創られた被造物は、地球も太陽もその他の宇宙万物も、皆それぞれに次々と産まれては老化する、ある意味で生きている存在だと私は考えます。聖書によると、神はその御ことばを発しながら宇宙万物をお創りになったのですから、それら生きとし生けるもの全ての創り主であられる神の御ことばが人間となってこの世に来られたのは、人類ばかりでなく万物をこの苦しみの世から救い出し、万物の王として永遠に支配するためであると信じます。その宇宙万物の王であられる神の御ことばが、私たちの信仰によると、今ミサ聖祭を献げるこの祭壇に現存して下さるのです。その意味では今私たちの目前にあるこの小さな祭壇は、この世とあの世との接点であり、畏れ多くも宇宙万物の王であられる方が、全宇宙の救済と聖化のために働かれる拠点と申してもよいと思います。神のお告げを感謝のうちに記念して献げるこのミサ聖祭を、スケールの大きなこういう宇宙的信仰を新たにしながら、お献げ致しましょう。全ての生きとし生けるものの救いと栄光化のために。

2009年3月22日日曜日

説教集B年: 2006年3月26日、年四旬節第4主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 歴代誌下 36: 14~16, 19~23. Ⅱ. エフェソ 2: 4~10.
   Ⅲ. ヨハネ福音 3: 14~21.
① 本日の第一朗読である歴代誌は、サムエル記上下と列王記上下の記述を補足するような形で、まず人祖以来の主な系図を略述した後、サウル王の戦死から始まって、ダビデとソロモンの統治について詳述し、続いて分裂王国時代のユダ王国の歴史について、バビロン捕囚に到るまで略述しているものですが、本日の朗読箇所は、その最後の章から引用されています。神の民とされたイスラエル民族は、ダビデ王とソロモン王の時代には神の恵みを豊かに受けて繁栄していましたが、国王たちが神に対する畏れと敬虔・従順の精神を失って、自分の望みや自分の考え中心に民を支配するようになったら神の恵みと保護を失い、煩わしいこの世の争い事などに呻吟するようになりました。新約時代の神の民に属する私たちも、神の僕・婢として神の導きに従って生きようとする預言者的精神を失うことのないよう、気をつけましょう。さもないと、神は新約の神の民にも突然大きな試練の嵐を遣わされるかも知れません。もしそのような事態に陥ったら、バビロン捕囚の時の敬虔なユダヤ人たちのように、悔い改めて神中心の預言者精神に生きるよう、希望をもって励みましょう。そうすれば、神は私たちにも本日の第一朗読の最後に読まれるような、大きな希望に生きる道を開いて下さることでしょう。神は私たちを愛しておられ、ただ時折、愛する者たちの怠りや不熱心の精神を矯め直そうとなされるだけなのですから。
② 本日のミサは、イザヤ66章に読まれる「喜べ、神の民よ、云々」の言葉で入祭唱が始まるので、昔から「Laetare (喜べ) のミサ」と呼ばれて来ました。すでに断食・苦行の時期、四旬節が半分を過ぎ、復活祭の喜びが遠くないという明るい希望のうちに、教会は四旬節の務めに勤しむ信徒たちを励ましていたのだと思います。そのせいか、第二朗読のエフェソ書には私たち罪人に対する神の大きな愛のご計画が啓示されています。このエフェソ書はまず2章3節に、私たちが肉の欲望のため「神の怒りの子」として生まれついていると述べていますが、現実の人間の心が生来自分の命の源であられる神を無視し、目先の事物に対する利己的欲望に駆られ易いことを考えますと、私たちの心の奥底には、そういう忘恩の自己中心的罪の毒素が根を深く張りめぐらせているように思われます。神に背を向けているそんな心では、永遠に続く自分の本当の人生のため何一つ美味豊かな献身的愛の実を結ぶことができません。それで本日朗読された2章5節は、その状態を「罪のために死んでいた」と表現しているのだと思います。欲望のままに生きる人生は、いわば儚く過ぎ行くこの世の人生の終わり、すなわち死を空しく待っているだけの人生で、そこからは永遠の仕合わせへの期待も待望も生じ得ないからです。
③ しかし、憐れみ深い父なる神は、そのような内的死の状態、罪の状態に生活していた私たちをこの上なく愛して下さり、その愛のうちに御独り子をこの世に派遣して人間となし、その御独り子の新しい命によって私たちが罪の命に死に、御独り子と共に神の命に復活する道、そして神の御許で永遠に仕合わせに生きる道を開いて下さったのです。神の限りなく豊かな恵みにより、神への信仰と信頼一筋に生きることよって救われる道を提供し啓示して下さった、神のこの大きな慈しみを堅く信じ、希望と喜びのうちに立ち上がりましょう。本来神は私たち人間を、この暗い苦しみの世にわずか50年か100年間生存させて、空しく死んで行くために、お創りになったのではありません。創世記の神話を通しても啓示されているように、私たち人間は神に特別に似せて創られ、神の下に神と共に全被造物を支配するという使命を神から戴いているのです。創世記にある「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。……全ての生き物を支配せよ」という神のご命令は、そのことを示していると思います。
④ 真に残念至極なことですが、その使命を授けられた人祖が神の恩愛に背き、悪魔の誘惑に従って神のようになろうとしたために、人間は時間空間の制約に堅く閉ざされたこの暗い神秘な苦しみの世に追放されたのですが、私たち人間の本当の人生は、この万物流転の世にあるのではありません。メシアが譬え話にしてお語りになったあの放蕩息子のように、この世の絶望的不安と苦しみと限界を体験して奥底の心が目覚め、悔い改めて神に立ち帰る生き方へと転向するために、この世に追放されているのです。人間が自力でどれ程科学的研究を発達させても、神のおられる永遠の栄光と至福の世に入ることはできませんが、神のお遣わしになった御独り子と内的に一致し、その命に生かされつつ共に苦しみ、共にこの世の命に死ぬならば、やがてあの世の命に復活し、復活なされた主イエスと同様に、時間空間の一切の制約を超えた永遠の世で、神と共に全ての被造物を永遠に支配し、主キリストと共に永遠に幸福な人生を営むに至るのです。使徒パウロはローマ書8章で、「被造物は (皆、今は) 空しさに服従させられていますが、神の子らの (そのような) 現われを切なる思いで待ち焦がれているのです」と書いています。この大きな希望の将来像を啓示して下さった神に感謝しながら、主と共に日々喜んで十字架を担い、神に立ち帰る生き方に心がけましょう。
⑤ 本日の福音には、「信じる」という動詞が5回、「裁く」という動詞あるいは「裁き」という名詞が合わせて4回登場しています。主イエスがニコデモに語られた話の一部ですが、主はそこで、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。云々」と話しておられます。このお言葉から察しますと、天の父なる神は、その御独り子を与えて下さるほど、罪の中にいる全人類を深く愛し、恐ろしい十字架刑の死を甘受して、ご自身を神へのいけにえとなされたその御独り子の功徳により、その御独り子が提供する神の永遠の命を信仰をもって受け入れ、その命に参与する人を断罪せずに救って下さる、と主はニコデモに説かれたようです。
⑥ 主がその話の中で「信じない者は既に裁かれている」と話しておられることは、注目に値します。光の本源であられる神の御子が大きな愛をもってこの世に来られたのに、悪を好み悪行をなす者たちは、その行いが明るみに出されるのを恐れて光を憎み、光の方に来ようとしません。それが、主の言われる「信じない」ということのようです。としますと、その人たちは自分で神の光を避け、その光を憎むという生き方を選び取っていることになります。従って、それは自分で神の光を裁き退けていることになり、神の側からみれば、「既に裁かれている」ことになるのだと思います。私たち人間の心には、自分で自分の救いの道を頑固に排除し閉ざしてしまうという、真に痛ましい危険な自由の可能性も残されています。そのような固い石地の心には、せっかく神の命の種が蒔かれても、根を下ろして実を結ぶことはできません。
⑦ 石地の心ではなく、自分の心を細かく砕き耕すことに心がけ、神の命の種が根を張り実を結び易いような肥沃な畑地の心にするよう努めましょう。聖母は神の御子受肉のお告げを受けた時、「私は主の婢です。お言葉通りにこの身になりますように」とお答えになりましたが、私たちも徹底的従順に生きる僕・婢の精神で、自分の怠りや欠点などを容赦なく明るみに出す神の光や働きなどを恐れずに受け入れ、それに従うよう努めましょう。それが心を浄化して、主キリストと深く一致する栄光へと高め導く救いの道なのですから。
⑧ 私たちは数年前から、三ヶ月に1回、浜松市から豊橋市にいたるまでの地元住民のためにミサ聖祭を献げて、神の豊かな祝福とご保護を特別に願い求めていますが、本日のミサ聖祭はこの目的のためにお献げしたいと思います。ご一緒に心を合わせて祈りましょう。

2009年3月15日日曜日

説教集B年: 2006年3月19日、年四旬節第3主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 20: 1~17.  Ⅱ. コリント前 1: 22~25.
   Ⅲ. マルコ福音 9: 2~10.

① 本日の第一朗読は、モーセを通して旧約の神の民に与えられたいわゆる「十戒」であります。聖書には「十戒」という言葉はありません。しかし、ユダヤ教の教師たちはその神のお言葉を覚え易くするためなのか、十の戒めに分けて教えています。1節から17節までのお言葉のうち、始めの11節は神と人間との関係についてであり、残りの6節が人間相互の関係についてですが、ユダヤ教では始めの11節に読まれる長いお言葉を四つの戒めにまとめ、残りの6節に読まれるお言葉を、そのまま六つの戒めにして教えています。
② しかし、古代教父の聖アウグスティヌスは、3や7などの聖なる数に対するこだわりから、神と人との関係のお言葉を三つにまとめ、残りを七つにして教えました。この区分法を継承したカトリック協会も、例えば「あなたの父母を敬え」を第四戒、「殺してはならない」を第五戒とし、最後の17節にある「隣人の妻を欲してはならない」を第九戒、その他「隣人のものを欲してはならない」を第十戒としていました。しかし、プロテスタントきユダヤ教の区分を導入したために、長年カトリックとプロテスタントとの区分が違っていて、例えばフランスのカトリック作家の本に読まれる「第六戒に反する罪」などを、教外者には一々説明しなければならないという不便がありました。それで公会議後に一部のカトリック者たちは、プロテスタントと同じ区分法で教えるようになり、私もそのように教えていましたが、1992年に教皇庁から公表された カテキズムは、相変わらず伝統的区分法を取っており、日本語の『カトリック教会の教え』もそれに従っています。それで、私たちもそれに従いましょう。
③ 神はこの十戒を授けるに当たり、まず「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と、イスラエルの民を特別に選び、深く愛して奴隷状態から救い出した神であることを思い出させています。神のこの格別な愛と働きとを心に銘記して、これから述べる神の戒めを守るよう求めておられるのです。その第一の戒めは、民を救い出したこの「私」だけを神として信奉し、他のいかなるものをも神として崇めたり、その像を作ったりしていならない、という戒めです。ここでいう「像」は、後年預言者たちの伝えた神のお言葉を参照しますと、目に見える物質的な彫像よりも、むしろ目に見えない心の像、例えば富・自分の名誉・地位・権力等々を指していると思われます。この世のそんな過ぎ去る事物や手段・栄誉などを最高のものとして崇め尊び、それに仕えよう、そのために自分の人生を捧げようとするなら、あなたを選び、特別に深く愛している、あなたの主である神に背を向け、神を無視する罪を犯すことになるのです。神は「私は熱情の神」、すなわち妬みの神であるともおっしゃって、神との愛の契約や、神への感謝と愛を忘れる裏切りの罪を厳しく戒めています。人間を遥かに超越しておられる神が人間に対して、「私」と「あなた」という、心と心の特別な愛の関係に立って話しておられることも、注目に値します。
④ 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という第二戒は、自分のこの世の目的のために神をも利用しようとする、自分中心の心を厳しく戒めていると思います。また「安息日を心に留め、これを聖とせよ」という第三戒は、七日ごとという生命のリズムを生活のリズムとし、その内の一日を、神に心を向けて神に捧げる、感謝と安息の日とすることを命じているのだと思います。察するに、その日は主である神も、愛する民と共にくつろいで過ごすことを望んでおられる神の安息日で、いわば私たち人の子らとの一種の「デートの日」と言ってもよいのではないでしょうか。このような有り難い神の愛の聖心に応えるよう、私たちもその日には、なるべく自分の仕事を後回しにし、神と共に過ごすよう心がけましょう。
⑤ この第三戒までは神と民との愛の関係についての戒めですが、それに続く七つの戒めはごく簡潔に表現されているために、社会道徳の禁令を並べてあるだけ、という印象を与えるかも知れません。しかし、温かい親心で見守っておられる神よりの戒めであることを考えると、単に社会生活を乱す行為を禁ずる道徳律とは違って、何よりも私たちの心が神の愛に成長するのを妨げる言行や欲情を禁じている戒めなのではないでしょうか。例えば「あなたの父母を敬え」という戒めにある「敬う」という動詞は、ヘブライ語ではその語源を考え合わせると、栄光を見るという意味合いの動詞だと聞いたことがあります。もしそうであるなら、父母の背後に神の栄光と臨在を感知しようとする心がけや、神に仕える心で父母を大切にする心がけなどを命じているのではないでしょうか。また第九戒と第十戒は、普通の社会道徳では取り上げていない、心の中の隠れている欲情までも禁じています。神が、私たちの心の愛の成長と清さとを第一にしておられるからだと思います。私たちも、こういう心の愛の観点から、神の十戒を受け止め守るように努めましょう。
⑥ 本日の第二朗読には、「ユダヤ人はしるしを求める」とありますが、なぜしるしを求めるのでしょうか。何事も自分中心に理知的に考え、利用しようとしている自我を捨てきれず、我なしの神の大らかな愛に全く身を委ね、神の僕・婢として、神の奉仕愛に生かされて生きようとしないからだと思います。自力で智恵を探していると言われているギリシャ人たちも、自分中心の理知的自我の立場に立つ限りでは、人間に神による救いの恵みをもたらすため十字架の死を甘受なされたキリストの生き方や、献身的な心の愛を理解できず、数多くの誤解や不安や矛盾が渦巻くこの現し世の深い霧の中に、いつまでも留まり続けると思います。自我が造ったそのような殻の中に閉じ込められている私たちの奥底の心を目覚めさせるため、神は時として大きな失敗・病苦・災害などを遣わされますが、その時はすぐに、神に心の眼を向け、神の僕・婢として神中心に神のために生きよう、神のお導きに従い神の力に生かされて生きようと努めましょう。すると私たちの奥底の心がしっかりと立ち上がり、自我の築いた殻や壁を打ち破ってのびのびと自由に生き始めます。心の中に神の力、神の賢さが働いて下さるからだと思います。使徒パウロはそのことを自分でも度々体験し、その体験に基づき本日の朗読聖書の中で、私たちにも説いているのではないでしょうか。
⑦ 本日の福音に登場する「神殿の境内」という言葉は、ヘロデ大王が紀元前20年から、ソロモン王が残した広いハーレム (後宮) の廃墟跡を整地し、ギリシャの天才的建築家ニカノールの指導の下に、矩形になって広がっているその跡地の周辺を、四列の大円柱で屋根を支える綺麗な回廊で飾った境内を指しています。その回廊は「ソロモンの回廊」と呼ばれていました。その境内の中心部にはユダヤ人のための拝殿があり、そこにソロモン時代からの神殿も至聖所も、新たに美しく増改築されて建っていましたが、これらの建物外の境内地は「異邦人の庭」と呼ばれていました。この庭に神殿への大きな献金箱が13も置かれており、異邦人たちも献金して祈っていました。大勢の巡礼者や異邦人たちが祈るこの神域の東南隅には、ユダヤ人たちがいけにえとして神殿に捧げる羊や牛や鳩などを売る商人たちがいて、その売り買いで少し騒々しくにぎわっていたと思われます。またローマ皇帝の肖像や銘などが刻まれた異国の通貨は、神殿への献金に使うことが禁じられていましたので、それらの通貨を聖句が刻まれたユダヤ貨幣に両替する商人たちもいました。いずれも多数の巡礼者たちの便宜のため、神殿当局の認可を得てなしている商売であり、献金といけにえからの収益に支えられている神殿礼拝の宗教には、不可避といってよい程の合理的制度ですが、主イエスが縄で鞭のようなものを作り、その商人や動物たちを神殿の境内から追い出されたのは、なぜでしょうか。
⑧ 同じヨハネ福音書によると、この出来事の少し前に、主がカナの婚宴で聖母に「私の時はまだ来ていません」とお答えになりながらも、大量の水を上等のぶどう酒に変える奇跡をなし、新しいメシア時代の幕開けを明示なされたことを考え合わせますと、「私の父の家を商売の家とするな」という主のお言葉は、何よりも神殿礼拝の終末と、新たな形で神を礼拝する時代の到来とを示しているのではないでしょうか。この出来事の少し後にも、主はサマリアの女に、「あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る」「真の礼拝者たちが、霊と真理のうちに父を礼拝する時が来る。今がその時である」と話しておられます。これらのお言葉から察しますと、主はすでに公生活の前半に、人々が神殿でのいけにえによる礼拝時代から、全世界到る所で霊と真理における真の礼拝を天の御父に捧げる時代へと移行する時が来ていることを、世に示そうとしておられたように思われます。
⑨ 本日の福音の後半で、主は商人追放に抗議する神殿当局のユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と、おそらくご自身の体を指差しながらおっしゃっていますが、ユダヤ人たちが「この神殿は建てるのに46年もかかっているのに、云々」と話していることから察しますと、この出来事は、ヘロデ大王がエルサレム神殿の大増築を紀元前20年に始めてから46年余り後の、紀元27年の過越祭直前頃のことであったと思われます。主がその時に「三日で建て直してみせる」と言われた新しい神殿とは、死後三日で復活なされた主を頭とする、新しい信仰共同体の教会を指していると思います。そこではもう牛も羊もいけにえとされず、ただご自身を天父への永遠のいけにえとなして十字架上で捧げられた主が、この世の時間空間を超越して全世界のミサ聖祭に臨在し、その同じ一つの永遠のいけにえをパンとぶどう酒の形で天の御父にお捧げすることにより、そのミサが挙行される時代の人類に豊かな祝福を与えて下さるのです。同時に、そのミサに参与する私たちの日々の労苦と祈りも喜びも悲しみも、その永遠のいけにえと共に天の御父に捧げられるのです。四旬節に当たり、主が制定なされたこの新しい形の普遍的礼拝について一層深く悟るように心がけ、その礼拝に心を込めて参加するよう努めましょう。

2009年3月8日日曜日

説教集B年: 2006年3月12日、年四旬節第2主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 22: 1~9, 9a, 10~13, 15~18.
Ⅱ. ローマ 8: 31b~34.    Ⅲ. マルコ福音 9: 2~10.

① 本日の第一朗読には、アブラハムが自分の一番大切な息子イサクを、神のご命令により焼き尽くす幡祭のいけにえとして捧げようとする話が語られています。神の言われた「モリヤの地」がどこであるか、神の命じた山がどこにあるのかは、全く不明です。しかし、アブラハムがご命令を受けた日に薪を割るなどの準備をして、息子と二人の若い下僕を連れて出かけ、翌日は一日中歩き、三日目に目指すモリヤの山を遠くに見ていることから察すると、当時アブラハムの住んでいたベエルシェバの地から80キロほど離れている所と考えてよいと思います。ちょうどそれぐらい離れている所には、後にエルサレム神殿が建立されたシオンの山があります。「モリヤの地」は、このエルサレム辺りを指していると考えられます。アブラハムがいけにえを献げるために息子イサクと一緒に登ったのは、シオンの山だったのではないでしょうか。もしそうでないとしたら、私は勝手ながら、後世のエルサレムの都の郊外にあったゴルゴタの山だったのではないか、などと想像しています。イサクのいけにえは、それから2千年近くも経ってから、この山で捧げられた救い主のいけにえの前表でしたから。
② 神から突然このようなご命令を受けた時の、アブラハムの驚きと心痛は深刻であったと思われます。数十年も前からの神のお約束に明らかに矛盾するご命令ですし、自分の長年の信頼も希望も全て台無しにし、自分自身の人生までも否定してしまうと思われる程の恐ろしいご命令なのですから。人間の理性ではいくら考えても、神からのこの不合理なご命令を理解することはできません。しかしアブラハムは、神からの新たなご命令に異を唱えるようなことはせず、いわば解決の下駄を神に預けて、極度に苦しみつつもひたすら黙々と神に対する従順に努めていたと思います。こうして苦悩のうちに夜を明かし、息子イサクと二人の下僕たちを連れてその山へと歩いているうちに、アブラハムの心の中には、次第に新しい確信が生まれ育って来たのではないでしょうか。すでに長年体験して来たように、神は自分たちを愛して下さっているのですし全能なのですから、たとえイサクを幡祭のいけにえとなして捧げても、神はきっと復活させて下さるに違いないという信仰であります。
③ 本日の朗読には省かれていますが、アブラハムは目指す山の麓で下僕たちに、「お前たちは、ロバと一緒にここで待っていなさい。私と息子はあそこへ行って礼拝をしてから、また戻って来るから」と、この「戻って来る」という言葉を複数形の動詞で話しています。アブラハムは遅くともこの時には、神がイサクをすぐにでも復活させて下さると、堅く信じていたのではないでしょうか。彼のこの信仰に応えて、神はご自身の意図しておられる人類救済の道を啓示なさいました。それは、人間が自分の力で捧げるいけにえによってではなく、人間のその信仰とその捧げとを御覧になった上で、神がお与えになった代償のいけにえによって、神は救いの恵みを豊かにお与え下さるという道であります。十字架上の主キリストのいけにえも、神が人類にお与え下さった代償のいけにえであります。しかし、その豊かな恵みに浴するには、どんなに小さなものであっても、人間側からの真心のこもった祈りや苦しみや善業などの捧げが必要だと思います。それは、本質的にそれらの代償として神がお供え下さったいけにえなのですから。ミサのいけにえも同様だと思います。教会は第一奉献文の中で、聖変化の後に「あなたの与えられた賜物のうちから、清く尊く汚れのないいけにえをあなたに捧げます」と神に祈っていますし、ミサの奉納の時にも、いつも「ここに供えるパンはあなたから戴いたもの」などと祈っていますから。
④ 私たちも実生活の中で、神からの理解し難い要求に出会うことがあるかも知れません。その時、自分にその要求を齎した人間よりもまず神に眼を向け、自分に対する神の愛と誠実さを信じつつ、ひたすら神への従順に努めましょう。時として、それは耐え難い程の苦難になるかも知れませんが、しかし、神への信頼に忍耐強く留まり続けていますと、やがて救い主の復活の力が心の奥に働いて、私たちを内的に強め救ってくれます。苦しみが大きければ大きい程、救われた時の恵みも喜びも大きいのです。この希望と神の愛に対する信頼を心に堅持しながら、祈りつつ全てを耐え抜きましょう。
⑤ 本日の第二朗読の中で、使徒パウロは神に対する不退転の大きな信頼心を表明していますが、私たちも特に何かの困難・試練に直面した時には、このような信頼心を心に呼び起こすよう努めましょう。神は実際に私たちの味方であり、その御独り子を死に渡すことも厭わない程に私たちを愛しておられる方なのですから。私たちに困難・試練が来るのも、奥底の心を一層はっきりと目覚めさせて、神にしっかりと結ばれるように導くための、神のお計らいであると信じていましょう。そうすれば、神によって義とされた太祖アブラハムの試練の時のように、全ては大きな恵みに変わる時が来ます。復活の主キリストも、私たちのために神に取り成して下さいます。
⑥ 本日の福音では、主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山にお登りになりました。会堂長ヤイロの娘を蘇らせた時も、受難の前夜のゲッセマネでも同様でした。ご自身の奥深くに隠れている神の働きや、ご自身の心底の深いお苦しみなどを露わにして、彼ら三人に証言させるためであったと思われます。本日朗読された日本語の訳文では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」となっていますが、原文では「彼らの目の前で姿を変えられた」となっていて、このご変容の場面では主イエスは主体になっていません。神が主体となって、弟子たちに救い主の隠れているご正体を見せて下さるのです。天に取り上げられたと信じられていたエリヤがモーセと一緒に出現し、主イエスと語り合ったのも、人間イエスが天に属する存在であり、おそらく時々深い祈りの中であの世の存在と語り合っていたことを示しているのではないでしょうか。
⑦ しかし、この出来事の少し前に、ご受難を予告なされた主をいさめ、「サタン、退け」と叱責されたペトロは、主のご変容を目撃してもまだ主のご受難を信ずることができず、天の栄光を長く地上に繋ぎ止めて置こうと思ったのか、「仮小屋 (テント) を三つ建てましょう」などと主に申し上げています。神は彼ら弟子たちに、間もなく恐ろしい受難死を遂げる救い主の中には、こういう来世的栄光のお姿が隠されていて、それが救い主の死後に輝き出ることを教え、彼らが主の受難死を目撃しても、なるべく躓かないよう配慮なさったのだと思いますが、メシアは死ぬことがない、必ず勝つというこの世的メシア観・先入観に囚われていた彼らの心は、まだまだ主の受難死を素直に受け入れる状態になっていなかったようです。私たちも、この世の好ましい人間関係やこの世の組織中心の先入観に警戒し、神がそれら全てを犠牲にすることもあることを覚悟して、何よりも「神の御旨」中心のアブラハム的信仰に生きるよう心がけましょう。
⑧ 一週間ほど前のミサの初めにも申しましたように、明治後半から昭和初めにかけての昔の信者たちや、キリシタン時代の信者たちは、四旬節の断食、すなわち日曜・祝日を除いて、毎日の昼食は普通に食べても朝晩はごく少ししか食べないという断食をかなり厳しく続けており、私がその人の息子野口和人さんから間接に聞いたところでは、八王子の野口さんという信者の町医者は、四旬節には医者の仕事も時々身にこたえるので、日曜日には夜にもたくさん食べて置くのだと話していたそうです。第二次世界大戦後には、旧約の預言書などの言葉にも従ってこの厳しい断食規定が次々と緩和され、その代わりに何かの善業や別の小さな苦しみを心を込めて神にお捧げするよう勧められていますが、断食規定が灰の水曜日と聖金曜日だけの二日だけになった今では、ただ規則の緩和だけに眼を向けて、ほとんど何もせずに四旬節を過ごしている人の多いのは、残念だと思います。もっと神に、また主キリストに眼を向けて、「代償のいけにえ」であられる主によって恵みを受けるには、小さくても結構ですから、アブラハムのように神に何らかの苦しい捧げものをしなければならないということを、心に銘記していましょう。お互いに歳が進んでいますので大きなことはできませんが、この四旬節中には日ごろ後回しにしている何かの仕事や整理、あるいは何かの悪い癖や口癖などの矯正、その他祈りによる人助けなどの実行に心がけましょう。その決心を神に表明しつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2009年3月3日火曜日

説教集B年: 2006年3月3日、日比野浩平氏と野田由紀子さんの結婚式 (神言神学院聖堂)

朗読聖書: コリント前 13: 1~7.
① 日比野浩平さん、野田由紀子さん、神の御前で結婚の誓約を交わすに当たり、まずご両親をはじめ、これまでお世話になった数多くの方々に対する感謝の念を新たにして下さい。受けた御恩を有り難く思い、その御恩に報いよう、そのご期待に応えようと努める、人間としての相応しい心がなければ、神の御前に進み出ても、その御祝福・御加護を受けることができないからです。近年は不当な弱者抑圧を止めさせるため、しきりに「人権」という言葉が叫ばれており、それはある意味で真に結構なことですが、しかし、自分には生まれながらに何人たりとも侵すことのできない権利があるなどと、錯覚してはなりません。究極の原点にまで立ち返って考えるならば、私たちは皆、本来全くの無であり、この存在も持ち物も、全て万物の創造者であられる神からいただいているのです。神は、私たち被造物に対する無限の愛とその全能の力によって、私たちを無から存在へと言わば押し出すようにして、絶えず与え支え続けておられるのです。目に見えないながらも、神は今もそのようにして私たちの中に内在し現存して働いておられる、私たちの最大の恩師であり、すべての生きとし生けるものの命の本源なのです。したがって、今結婚によって新しい生き方を始めるに当たり、万物の本源、命の本源であられる神に感謝することも、忘れてはなりません。
② ところで、神はいったい何のために私たちこんなに雑多な被造物をお創りになったのでしょうか。聖書の教えに基づいて考えると、それは私たちが日々ますます大きく心を開いて、これらの全てが神からの命に生かされていることを悟り、感謝のうちに神を愛し、その愛によって堅く神と結ばれ、神の幸せに参与するためであると思われます。神に似せて創られ、神からこの世の万物を支配する使命を与えられている人間は、宇宙万物の命の流れを神に対する感謝へと導く、大きな使命を自覚していなければならないと思います。
③ 神は、人間が自分と異なる他者に心を開いて、愛のうちに共に生きることを実践的に学ぶように、聖書によると人間を男と女にお創りになりました。また全ての生きとし生けるものをも、同様に雄と雌二つのものから成り立つようにお創りになりました。男と女があるのは、単に結婚して子を産み育て、子孫を残すため増やすためだけではありません。立派な子孫を残すということは、確かに結婚の一つの目的ではありますが、しかし、その前に自分と異なる他者に心を開いて、愛のうちに共に生きることを実践的に学ぶことも、結婚の大切な目的であります。教会は聖書に基づいて昔からこの立場を堅持していますが、第一次世界大戦後に個人主義精神や享楽的自由主義結婚観が広まったりすると、夫婦の相互愛という結婚目的を強調しました。40数年前に開催された第二ヴァチカン公会議も、この結婚目的を強く説いています。私たち人間の結婚は、身近な一人の他者を愛することから始まって、やがて自分と性格も考えも異なる親戚や一族子孫、さらに社会全体、生きとし生けるもの全てをも心を開いて受け入れ、愛のうちに共に生きる道を実践的に見出すようになるため、そして究極的には私たちを無限に超越しておられる神にも、心を大きく開いて感謝するようになるためにあるのだと思います。神からの超自然の恵みに支えられつつ、その存在もお考えも知り得ない絶対の他者であられる神秘な神とも、愛と感謝のうちに共に生きるようになるためなのです。したがって、結婚生活には、自分と異なる他者のため、その他者に心を開いて愛のうちに共に生きることを実践的に学ぶ道場としての使命が、神から付与されていると思います。たとえ二人の間に子供が生まれないとしても、他者への広い忠実な愛に成長するという結婚の目的は、立派に達成することができます。これが、カトリック教会の教えです。
④ ところで、戦後のベビー・ブームに生まれた圧倒的に大勢の若者たちが、1970年代に入って都市での結婚式場の不足に困窮し、カトリック教会に依頼した時から、日本の教会では、キリスト信者でなくても、結婚講座を受けて二人が宇宙の創り主である神の御前にまじめに夫婦の誓いをなし、結婚生活を営む意志を抱いていることが確認できればという条件で、このようにカトリックの聖堂で結婚式を挙げることを受け入れることにしました。浩平さんも由紀子さんも、私の下でその結婚講座を受け、真摯な結婚意志が確認できましたので、本日めでたい式を迎えている訳ですが、結婚生活はある意味で二人三脚のようなもので、二人三脚においては互いに内側の脚をしっかりと結び、相互の愛と思いやりのシンボルであるその一つに結ばれた脚を優先して、その脚から踏み出すこと、その脚の歩幅とリズムに合わせて、互いに外側の自由な脚を踏み出すことが肝心だと思います。しっかりと肩を組んでこのように心がけると、程なく意気投合と言われるものを体験し、身につけるようになります。しかし、束縛を嫌う現代人の中には、内側の脚をなるべくゆるく縛り、外側の自由な脚を優先し勝ちな人たちも少なくないようです。運動会の時に一度そのようにして走ってごらんなさい。意気投合どころか、お互いにストレスが溜まって転んでしまったり、立ち止まってしまったりしてしますます。そして互いに相手に向かって文句を言ったり、責任を転嫁したりし勝ちです。お互いにしっかりと肩を組んで仕合わせな意気投合を体験している夫婦は、自分を束縛する横の方に心を向けるよりも、もっと多く前方の目標、二人の共同の目的の方に心の眼を向けながら話し合っています。今日結婚するお二人も、このような仕合わせな結婚生活を営むよう希望して止みません。お二人には前にも話したことですが、私たちの人生はこの世だけで終わるのではなく、神の啓示した教えによると、私たちは死後にも新たな形で永遠に生き続けるのであり、ますます神のように自由で仕合わせな神の子になって行くのです。この仮の世の生活は、私たちのその本当の人生のために各々自分の心を準備し、磨き鍛える、いわば修練期間のようなものなのです。
⑤ 仕合わせという言葉は、太平洋戦争後に新しい学校制度が施行された50数年前から、短く幸福の「幸」という字一つで書く表記が定着するようになりましたが、昔の辞書には、仕え合うという時の「仕える」という字と「合う」という字を結んで、「仕合わせ」書かれており、私も学生時代にはそのように書いていました。私たちの本当の仕合わせは、互いに仕え合う心とその実践から生まれるのではないでしょうか。そのように心がけていた昔の日本人の智恵からも、謙虚に学んで欲しいと思います。浩平さん、由紀子さん、愛のうちに他者と共に生きる実践的訓練を施してくれる結婚生活が、幸福な自己完成への一つの道であることをしっかりと心に銘記し、これから出会う各種の困難や誤解などに対しては二人でよく話し合い、いっしょに弁護し助け合って乗り越えて行こうとの決心を新たにして、神の助けとご保護を願い求めて下さい。ご列席の皆様も、新しい人生の門出をなすお二人の上に、神の祝福が豊かにありますようお祈り下さい。皆で、お二人が仕合わせな結婚生活を営むよう、神の恵みを願い求めましょう。

2009年3月1日日曜日

説教集B年: 2006年3月5日、年四旬節第1主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 9: 8~15. Ⅱ. ペトロ後 3: 18~22.
Ⅲ. マルコ福音 1: 12~15.

① 本日の第一朗読は、数千年前の出来事かと思われますが、ノアとその家族が大洪水の後で箱舟を出てから、神が彼らに話されたお言葉であります。以前にも話したように、私は個人的に、数百万年前の原人や数十万年前の旧人たちは二本足歩行の人間ではありますが、優れた知能を発達させてはいてもまだ高等動物の一種で、神から万物の霊長としての使命とそれを達成するための超自然の賜物とを受けてはいなかったと考えています。彼らは他の全ての動植物たちと同様、弱肉強食のこの世の苦しみと死に脅かされながらも、子孫を残そうと逞しく生きていたと思います。神はその後でホモサピエンスと言われる今の人類をお創りになり、人類史上のいつの時点か知りませんが、これに万物の霊長としての使命とそれを達成するための超自然の賜物とをお与えになったのではないでしょうか。この新しい人類は、その超自然の賜物によって苦しみも死も味わうことなく、それまでの自然界全体を神の御旨中心に生きる輝かしい栄光の世に高めて行く使命を受けていたのではないか、などとも勝手に想像しています。しかし、その人祖が悪魔の誘惑に負けて自分に与えられた大きな自由を悪用し、神の御旨に背を向けてしまったので、神からの超自然の賜物を全て喪失し、それ以前の高等動物たちと同様に、自分の自然的能力に頼ってこの苦しみの世に生き、死を味わう身となったのではないでしょうか。でも、神は今の人類にお与えになった万物の霊長としての使命を取り上げることはなさらずに、創世記3章15節にあるように、蛇の姿で現われていた悪魔に、「彼 (すなわち女の子孫、メシア) がお前の頭を砕く」ことを予告なさいました。神は人祖アダムたちの罪を永遠の昔から予知しておられたので、その罪ゆえに、生きとし生けるものは初めから苦しみの世に生活するのを余儀なくされていた、と考えることもできましょう。
② それからどれ程の世代を経たのか分かりませんが、おそらくメソポタミア地方に住んでいたと思われるヨブが、後世のアブラハムのように神からの選びを受け、神の声に従う生活をして、遂に大洪水からも救われるという体験をしました。すると神は、本日の第一朗読にあるように、ノアとその息子たちを介して「箱舟から出た全てのもののみならず、地の全ての動物と契約を立てる」とおっしゃって、洪水が全ての肉を滅ぼすことはもう決してないことを、約束して下さったのです。アブラハムとの契約が、単にアブラハムとその子孫だけに与えられた祝福ではなく、聖書に「地上の諸国民は全て」とあるように、全人類に与えられた祝福でありましたが、ノアとその息子たちに与えられた契約と祝福も同様に、彼らを介して全人類、いや全被造物に与えられたものと考えてよいと思います。神は「地の全ての動物と契約を立てる」と話しておられるのですから。
③ その中で神が「代々とこしえに私が立てる契約のしるし」として「虹」について話しておられることも、注目に価します。虹は自然現象ですから、それ以前の時代にも見られたと思いますが、神はこの時から、その虹を神と全人類ならびに地の全ての生き物との間の「契約のしるし」として眺めることを望んでおられるのだと思います。神ご自身も、雲の中に虹が現われると、「私は、私とあなた達ならびに全ての生き物」「との間に立てた契約を心に留める」とおっしゃっておられるのですから。この物質界の全ての被造物は、人類の一員となられた主キリストの栄光の再臨と、その時に溢れるほど豊かに注がれる超自然の賜物によって実現する新しい世界で、永遠に美しく輝きながら神の創造と救いの御業に感謝し、それを讃えるような生き方をするようになるのではないでしょうか。私は、本日の第一朗読にある神のお言葉から、空に虹を見る時は、それをこのような大きな明るい希望のうちに眺め、神の御約束を思い出しています。
④ 本日の第二朗読によると、使徒ペトロは、受難死の直後に主イエスの御霊魂が陰府の国に囚われていた霊魂たちの所へ降って行って宣教しましたが、その霊魂たちの中には、ノアの時代に神に従わずに大洪水で滅んで行った者たちもいた、と考えていたようです。としますと、この世に生きていた時には神の呼びかけや働きをよく識別できず、それに従わずにいて死んでしまい、あの世で捕囚状態になっていた霊魂たちにも、キリストによる救いの恵みが届けられるのでしょうか。これは、真に喜ばしい福音だと思います。この世でキリストの福音を聞く機会に恵まれなかった無数の乳幼児の霊魂たちや、それよりも遥かに多くの異教徒や罪人の霊魂たちは、あの世で主キリストの福音に出会い、そこで自分の永遠の人生についての基本姿勢を選択決定することができるのかも知れません。以前の使徒信経に「古聖所に降り」とあるその古聖所 (今の使徒信条には陰府と邦訳) とは、そのような死者の霊魂たちに、自分の永遠の人生について決断する機会を提供する所なのかも知れません。あの世はこの世の時間空間を超越している世界ですので、主が古聖所にお降りになったのは、2千年前の受難死直後の時だけではなく、今もなお世の終りまで続いているのではないでしょうか。主はこうして、この世の時間的あとさきを超越して神に従う全ての人の王となり、全人類とその他の全被造物とを神の愛と光り輝く栄光の内に集め、全く一つにして下さるのではないでしょうか。
⑤ ペトロが、ノアと共に箱舟に乗り込み、大洪水の苦難を無事乗り越えて救われた少数の人々を、洗礼の水によって救われる人々のシンボルと考えていることも、注目に値します。ペトロも書いているように、洗礼は肉の外的な汚れを取り除くのではなく、たとえ肉は汚れたままであっても、その中にあって神の御旨、神の働きに忠実に従う正しい心を願い求めつつ生きる力を与える、と考えることも大切です。神のお言葉に従って、各種の生き物たちといっしょに狭い箱舟に乗り込み、その世話に追われながら生活していた8人の人たちは、大洪水の水かさが増すとますます天へと高められ、その水に運ばれて高い所に到着したようですが、ペトロは、神によって選ばれたその人たちを、洗礼によって教会という箱舟に乗り、この世の荒波を乗り越えて次第に天上へと運ばれ、数々の救いの恵みに浴するに到る受洗者たちのシンボル、と考えていたのではないでしょうか。洗礼の水もノアの大洪水の水と同じく天からの水であり、神のお言葉に従わない者たちを滅ぼし、神のお言葉に従って教会という箱舟に乗り込む人たちを、高めて救いに導く水であると思います。その水が私たちからどれ程の従順と忍耐を要求しようとも、神の愛の御旨に信頼しつつ、神の僕・婢として忠実に従っていましょう。私たちの本当の仕合わせは、そこから大きく開けて来るのですから。
⑥ 本日読まれた福音の最初の言葉は、「霊はイエスを荒れ野に送り出した」と邦訳されていますが、この「送り出した」は、ギリシャ語原文ではエクバローという動詞で、マルコ福音書にはこの動詞が16回も登場していますが、うち12回は悪霊を追い出す意味で使われており、残りの4回も、例えば悪い小作人たちが主人からの使者を追い出す時や、主が神殿から商人たちを追い出す時など、いずれも追い出したり追放したりする意味で使われていますので、ここでも「送り出した」よりはもっと強く、誰も行きたがらない荒れ野へと強制的に追い立てた、という意味で使われていると思います。マルコはなぜそんなに強い意味の言葉を、ここで主に使ったのでしょうか。それは、神の計画、神の救いの御業を妨げて止まないサタンとの戦いは、メシアにとって避けて通れない苦しい戦いであり、荒れ野でのその苦しい決戦に雄々しく立ち向かうことは、神の不退転の決意であるからだと思います。現代の私たちは、「日々自分に与えられる十字架を担って私に従え」という主のお言葉を頭ではよく承知していても、いざ寒い朝に起床する時や、何かの難しい困難や煩わしい問題に直面したりした時に、すぐにはその十字架に立ち向かって行けない弱さを心に抱えています。心の眼を自分自身にばかり向けていると、なかなかその弱さに勝てません。もっと神の声に、また主の御模範に、心の眼を向けるように努めたいと思います。
⑦ 野獣たちも少ない獲物を探し回って荒立っている、全てがとげとげしく乾燥している荒れ野に行くよう、人間イエスは神の霊によって駆り出され、極端な孤独と長期の断食のうちに、悪魔からの誘惑や攻撃に耐えなければならなかったのだと思いますが、水気のほとんどないその荒れ野にいるのは、野獣と悪魔だけではありません。目には見えなくても、神の天使たちも信仰に生きる人の側にいて、緊急時には必要な奉仕をしてくれます。私たちも、愛する者たちをこのように厳しく鍛えようとなさる神に、緊急時には行き届いたご配慮のあることを堅く信じ、勇気をもって自分の弱さや悪魔と戦う心を堅持していましょう。
⑧ 本日の福音には、もう一つ注目したい言葉があります。主は「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と話されましたが、この「悔い改めて」というお言葉を頭で理解し、規則に違反しないようにしていれば良いのだとか、神のおられる天を時々見上げていれば良いのだなどと、外的に受け止めないよう気をつけましょう。主がその言葉の直前に言われた「神の国」は神の支配を意味していて、その神の新たな臨在と支配は、目には見えなくても今や私たちの身近な人間関係や日常茶飯事の中にまで、すなわち私たちのすぐ目前にまで来ているのです。主が言われる「悔い改め」は、何事も自分中心に利用しようとする考え方・生き方を完全に捨て去り、自分の身近に臨在する神の新たな支配に全面的に心を開く、これまでの生き方の根本的転換を意味していると思います。四旬節に当たり、その神の支配に徹底的に従う決意を新たに固めつつ、日々神のお求めになる心の「悔い改め」に励みましょう。

説教集B年: 2006年2月26日、年間第8主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ホセア 2: 16b, 17b, 21~22. Ⅱ. コリント後 3: 1b~6. Ⅲ. マルコ福音 2: 18~22.

① 本日の第一朗読であるホセア書は、現世的豊かさを求めて神から離れて行った北イスラエルを神へと呼び戻すためになされた紀元前8世紀中葉の預言書ですが、ホセア2章の前半には、ホセアの妻ゴメルが姦通によって親しくなった愛人たちの後を追って、ホセアの許を去って行ったことが述べられています。しかし、自分に豊かな富と楽しみを与えてくれたその愛人たちを尋ね求めても見出せず、彼女はついに「初めの夫の許に帰ろう。あの時は今よりも幸せだった」と後悔するに到りました。神は背信の罪を犯した民イスラエルに神の大きな愛を示して、真の神信仰へと呼び戻すために、ホセア預言者に姦通したその妻に対する大きな愛を実証させ、それをイスラエルに対する神の愛の証しとさせたのが、この預言書だと思います。
② 本日の朗読箇所には削除されていますが、ホセア2章の17節aには、「アコルの谷を希望の門として与える」という神の言葉が読まれます。このアコルの谷はヨシュア7章に出てくる地名で、神の民は約束の地に侵入した当初、アイという名の部族と戦って惨敗しましたが、神は契約の箱の前でひれ伏して祈るヨシュアに、その原因は、神が滅ぼし尽くすようにと命じた異教徒の富を、アカンの一族がひそかに棲家である天幕の中および地下に隠して保持していたためであることを啓示なさいました。それでヨシュアはアカンを詰問した後に、全イスラエルを率いてアカンが神の命令に背いて集めた富を谷間に運び出し、アカン一族と共に滅ぼし尽くしました。神の民はこうして神の怒りを和らげ、アイの部族に勝つことができましたが、この時から神に背くもの一切を滅ぼし尽くした谷は、「アコルの谷」と呼ばれるようになった、と聖書にあります。ホセアの妻ゴメルも、荒れ野にあるその谷に連れて行かれて罪のほだしから清められ、乙女であった時の忠実心をとり戻したのではないでしょうか。本日の第一朗読の後半で、神は悔い改めたその彼女に見立てたイスラエルの民を、もう「彼女」とは呼ばずに「あなた」と呼んで、その民と「とこしえの契り」を結ぶこと、そして民は主を知るようになることを預言しています。この短い預言の言葉の中で「契りを結ぶ」という言葉が三回も繰り返されているのは、それが結婚の契りのように、特別な愛の契約を指しているからだと思われます。
③ 本日の第二朗読の始めにある「推薦状」という言葉は、キリストを信じて洗礼を受けても、割礼を受けて律法を守らなければ救われない、と主張するユダヤ教キリスト者たちからの非難を排除するために、パウロとバルナバがエルサレム教会に行って、神が割礼からの自由を説く自分たちの宣教活動を祝福し、非常に多くの異邦人を真の信仰に導いて下さったことを説明して、使徒たちと長老たちの会議によって与えられた、その宣教方法公認の推薦状を連想させます。しかし、パウロはここで、そんな信徒団向けの文字で書かれた推薦状や信徒団からの推薦状よりも、神の霊によって私たち各人の心に書かれている推薦状を重視しています。そして多くの異邦人が神の恵みを受け、神の働きによって次々と信仰の花を咲かせ実を結ぶことが、神からの生きている推薦状なのだと主張しているようです。「あなた方」、すなわちコリントにいる大勢の信徒たち自身が、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に書きつけられた手紙です」と書いているからです。エルサレムの使徒会議も、パウロたちの宣教活動の内に、信ずる人々の心に神の霊によって書かれた推薦状を確認したから、全会一致で彼らの宣教方法を承認し、立派な羊皮紙に書かれた推薦状を与えたのだと思います。
④ それでパウロたちは、第二朗読の後半に述べられているように、「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さった」のだと確信し、「文字は殺しますが、霊は生かします」という、意味深長な言葉も書き添えています。そこに述べられている「独りで何かできるなどと思う資格」というのは、この世の社会的に公認された資格、例えば文字で書かれている免許証などの資格を指していると思われますが、パウロたちはここで、神から「新しい契約に仕える資格」を与えられて宣教する人たちは、そういう文字で書かれた社会的公認の資格よりも、現実の人々の心の中での神の霊の働きや導きに注目し、その霊が自分たちの奉仕を通して実際に実を結ばせて下さっていることを重視しているのではないでしょうか。社会的に公認された資格を持っていても、その祈りや働きがさっぱり実を結ばないようであるなら、神の霊に仕えるという命の火のような資格が心の中に消えていないかについて、謙虚に検証してみる必要があると思います。
⑤ 主は本日の福音の中で、インマヌエルの神が世に来臨し、人の子らと共にいる「今の時」の新しさと喜ばしさを強調しています。断食は、生身の弱さを心に留めているこの世の信仰者にとって大切な務めですが、花婿がいっしょにいる結婚のお祝い時にはしてはなりません。花婿を迎えている新しい喜びに深く参与し、新しい命の力を吸収することの方が優先されるからです。しかし、やがてその花婿が奪い取られ、その再臨を長く待たされる時が来ますから、その時には婚礼に招かれた神の民も断食するようになる、というのが主のお返事だと思います。古い伝統を忠実に順守している洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派とは違って、この時点の主の弟子たちは、神の御独り子と神の民との新しい婚礼を祝うという大事な時を迎えているというのが、主のお考えなのではないでしょうか。
⑥ 主がそれに続けて、「誰も新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。云々」と話しておられることも、注目に値します。新しいぶどう酒は美味しいですが、まだ静かに発酵を続けているのか、現代のようにガラス瓶などに入れるのではなく、古代人が常用していた古い革袋に入れたりすると、その革袋を破ってしまうのだと思います。新しいぶどう酒の旺盛な変革力に耐えるには、新しい革袋が必要だったようです。
⑦ 余談になりますが、聖書のこの話を読む時、私がいつも懐かしく思い出すことがあります。それは、1960年の5月初めに、私の所属していたローマのグレゴリアナ大学教会史学部修士課程の学生たち30人余りといっしょに、イエズス会員の著名なキリスト教考古学者の案内する、ナポリ近郊のキリスト教遺跡探訪の三日間のバス旅行に参加した時、一人のスペイン人の学生神父が持参した、真に古びた大きな革袋に入っている古い美味しいぶどう酒を、一口飲ませてもらったことです。一口と言っても、口を大きく開けてその袋から注がれるぶどう酒を飲めるだけ飲めというのですから、ある程度の量は飲みましたが、その美味しさは長く忘れられませんでした。この旅行中の5月最初の日曜日の朝9時に、私は、305年 (?) にナポリで殉教した聖ヤヌアリウス司教の乾いて石のようになっている血潮が、保管されているガラス瓶の中で、祈りの後に祝別されて点されたローソクを近づけた瞬間、私のすぐ目の前1m程の所で黒ずんだ赤い液体に変化する奇跡を目撃しました。この奇跡のことは、すでに名古屋で神学生時代に聞いており、19世紀と20世紀にあらゆる科学的検証が試みられても、科学では説明不可能な奇跡的現象であると立証されていることは聞いていましたが、こうして目撃したことから、私は神の働きによる奇跡のあることを堅く信ずるようになりました。聖ヤヌアリウスの血潮は、その奇跡的液状化の後に2週間ほどで元の固体に戻るそうですが、9月19日の殉教記念日と、私の失念したもう一つの記念日にも、毎年合計3回同様にして奇跡的に液状化する現象が続いていると聞いています。
⑧ ついでながらもう一つ余談を申しますと、つい二、三日前の典礼にその殉教を記念した、使徒ヨハネの直弟子聖ポリカルポ司教が、小アジアのスミルナで155年頃に火刑によって殉教した後、信徒がその遺骨の前で神に何かを祈り求めると、その祈りが非常によく聞き届けられるというので、「その御遺骨は私たちにとってどんな宝石よりも貴重です」と、スミルナ教会が諸教会に宛てた書簡で知らせると、各地の教会でも殉教者崇敬が盛んになり、それが後世の聖人崇敬に発展しましたが、私は自分の数多くの個人的体験からも、神は今も聖母マリアをはじめ、信仰に生きた聖人たちの取次ぎを介して捧げる願い事を、度々本当によく聞き届けて下さることを確信しています。主キリストが、目には見えなくとも今なお実際に私たちの間に現存しておられるのだと、心で実感することもあります。
⑨ 話が横道にそれてしまいましたが、主は本日の福音にある革袋の譬え話で、神の国が現存し、神が新しい形で私たちの現実生活の中で働いておられる新約時代には、目に見える理知的画一的な在来の法規や社会的慣習中心の信仰生活ではなく、今現に身近に隠れて私たちを見ておられる神に対する信仰と愛と感謝を中心とした信仰生活を優先しなければならないことを、説いておられるのではないでしょうか。教会という集団も私たちの心も、ある意味で器のようなもので、そこにお入り下さった主は御自ら主導権を取って静かに発酵を続けておられ、そのお働きに柔軟に対応し従って行こうとはせずに、人間中心の古い法規や慣習にだけ従っていようとする古い器は、容赦なく内面から破ってそこから流れ出ようとなさる方なのではないでしょうか。私たちを神へと導く法や慣習が不要だ、と言うのではありません。その法や慣習の中で新しく発酵し、新しく働いておられる神の働きに従って行こうとする信仰実践が大切だと思うのです。その実践が革袋を若返らせ、柔軟不抜のものに変えて行くのですから。神のその現存と働きに心の眼を向け、愛と感謝の心で従って行く決意を新たにしながら、本日の感謝の祭儀を献げましょう。