2009年3月29日日曜日

説教集B年: 2006年4月2日、四旬節第5主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 31: 31~34. Ⅱ. ヘブライ 5: 7~9.
   Ⅲ. ヨハネ福音 12: 20~33.
① 本日の第一朗読であるエレミヤの預言書31章は、ある意味では旧約聖書の最高峰とも言われています。主なる神がイスラエルの家と新しい契約を結び、その律法を彼らの心に記す日が来ることを予告して、神の民によって破られることの多かった旧約の完成である、新約への預言がなされているからであります。ところで、この31章に読まれる神の長い話の始めに、神が「民の中で剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける。イスラエルが安住の地に向かう時に」と話し始めておられることは、注目してよいと思います。
② この預言がなされたバビロン捕囚直前頃のユダ王国の宗教事情は乱れていて、エレミヤ預言者は迫害されていました。モーセの時にシナイ山で締結された神との契約、神をイスラエルの民の主と仰いで生きるという契約は守られず、宗教界は人間中心の世俗的精神に汚染されていたからです。それで、バビロニアの襲撃という天罰を受けて神の民のバビロン捕囚が始まったのですが、国家の滅亡というかつてなかった程の悲惨な破局が迫って来ている中で、エレミヤは旧約を遥かに凌ぐ新約を思わせるような、神からの大きな祝福に満ちた時代の到来を、天罰の剣を免れて生き残る人々のために予言したのでした。彼らはその恵みを荒れ野で、すなわちこの世の生きとし生けるものが全て乾燥に苦しみ、人々が絶望的貧困と苦難を体験しつつひたすら神に救いを祈り求めるような状態で受けるのです。
③ 神の言われるその荒れ野は、バビロン捕囚やメシアの受難死など、様々な苦難の時を指していたと考えてもよいと思います。そのような苦難の時に絶望せず、祈りつつ神によって与えられる安住の地に向かって進もうと努めるなら、神はその人たちの心に新しい律法を書き記し、その人たちと新しい契約を結んで、その人たちは新しく神の民となるのです。こうして彼らは皆、小さい者も大きい者も、ちょうど羊がその牧者の声を聞き分けるように、神の導きや働きを正しく察知するようになり、神は彼らの過去の罪悪を全て赦して下さる、というのがエレミヤの受けた神の約束だと思います。この約束は、バビロン捕囚時代やメシア時代に実現したばかりでなく、その後にも、信仰に生きる各人の心の中で実現していると考えてよいでしょう。私たちも苦しみに出遭う時、それを神との出会いの時、恵みの時と考えて、使徒パウロがフィリピ書3章に書いている「十字架の敵」として歩むことのないよう心がけましょう。
④ 本日の第二朗読からは、二つのことを学びたいと思います。その一つは、「その畏れ敬う態度のゆえに聞きいれられた」という説明からであります。主イエスは、神の御独り子であっても、また激しい叫び声をあげ、どれほど涙を流して祈っても、その出自やその祈り声だけでは、人間としてのその願いはまだ天の御父に聞きいれられず、神を畏れ敬い、神の御旨中心に生きる心を、日ごろの態度にもはっきりと表明し体現していたので、その心の表われを御覧になった神に願いが聞きいれられた、という意味でその説明を受け止めたいと思います。ヨハネ5章の中ほどに、主はユダヤ人たちに、「私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御旨を行おうとしているからである」と話しておられますが、何が正しいかという正義の問題になると、私たち人間は、とかく何かの法や何かの理論に基づいて考えようとし勝ちですが、それはこの世の社会には通用しても、神には通用しません。神の上に法や人間の理論を置くことになるからです。私たちの信仰生活においては、神の御旨だけが正義の基準であり、それを実践的に畏れ尊ぶ生活だけが神に願いが聞き届けられる道であると信じます。主は、その模範を身を持って示しておられたのではないでしょうか。
⑤ 第二朗読から学びたいもう一つのことは、「多くの苦しみによって従順を学ばれ、完全な者となられたので」全ての人の「永遠の救いの源となった」という理由付けであります。神の子という肩書きや、修道者・司祭というような肩書きが幾つあっても、それだけではたとえどれ程多くの祈りを神に捧げても、人々の上に救いの恵みを豊かに呼び降すことはできないと思います。私たちの心の奥底には、人祖から受け継いだ自分中心の罪の根、不従順の罪の力がまだ残っていて、神の働きを妨げて止まないでしょうから。その隠れている罪の力を多くの苦しみに耐えることによって根絶し、神への徹底的従順を体得してこそ、そして神の愛の恵みが心の底にまで完全に行き届く人間になってこそ、神の御独り子と内的に深く結ばれた神の子・修道者・司祭となり、全ての人に救いの恵みを伝える神の器に高められるのではないでしょうか。人となられた神の子イエスを、人間としても初めから全てを知っておられて、何も学ぶ必要のなかった方と考えないように気をつけましょう。主は人間としては多くの苦しみによって神への従順を学び、最後まで内的に成長し続けられた方だと思います。神は私たちも同じ様に内的に成長し続け、人類救済の業に参与するよう望んでおられるのではないでしょうか。主において私たちにも与えられているこの使命を、私たちもできるだけ忠実に果たすことができるよう、主の実践に学びましょう。
⑥ ここで「完全な者」とある言葉を、社会道徳の観点から非の打ち所のない人格者、などと考えないように致しましょう。それは神の愛の働きが完全に行き届いている、という意味でしょうから。主がマタイ5章の終りに「天の御父が完全であられるように、あなた方も完全な者になりなさい」と命じられたお言葉も、その前にある文脈から考えますと、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる天の御父の愛が全ての人に行き渡っているように、隣人に対する私たちの愛も、自分を愛してくれる人たちだけにではなく、自分の敵にも、自分を迫害する人たちにも行き渡らせる人間になりなさい、という意味だと思います。そのような愛の人になるには、神の御言葉の種が根を深く張り易いように、自分の心の奥にある固い土を耕し砕く努力も必要であります。旧約聖書には「砕く」という言葉が数多く使われていますが、神は今も、私たちの心が肥沃な「砕かれた心」になることを、切に望んでおられると思います。
⑦ 主のご受難が間近に迫って来た頃の話である本日の福音には、「栄光」という言葉が4回、「今」という言葉が3回、「時」という言葉が4回登場しています。ヨハネ福音の7章と8章には、主の敵対者たちが神殿の境内で教えておられる主を捕らえようとしたが、「イエスの時がまだ来ていなかったので」できなかったと述べられています。しかし、本日のヨハネ福音には、主ご自身がいよいよその「時」が来たことを明言しておられます。その契機となったのは、ユダヤ人の過越祭の時に礼拝するため、エルサレムに上って来た数人のギリシャ人たちが、ギリシャ系の名前を持つフィリッポとアンドレアスを介して、主に御目にかかりたいと願い出たことでした。主が彼らにお会いになったかどうかについて、ヨハネは何も語っていませんが、彼らからの願い出を聞くと、主はすぐに「人の子が栄光を受ける時が来た。云々」と話し始められたのです。主は以前に「善い牧者」について語られた時、「私にはこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらをも導かなければならない。…. こうして一つの群れ、一人の牧者となる。…. 私は命を捨てることができ、また再びそれを得ることができる。私は、この命令を父から受けた」などと話されましたが、異邦人の到来は、何かこの話と関係しているのではないしょうか。主はこの出来事の中に何か御父からの徴を御覧になり、この時に異邦人たちの罪も背負われたのではないでしょうか。とにかく主は、異邦人たちの来訪を知らされると、ご自身の死についての話をなされて、「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名に栄光を現して下さい」と祈りましたが、その時天から「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が響き渡ったようです。側にいた群衆はそれを、雷が鳴っただの、天使が語ったなどと思ったようですが、その声が威厳に満ちていたからであったと思われます。
⑧ ところで、主が「栄光を受ける時」あるいは「御名に栄光を現す時」と表現しておられるその「時」は、主がその御命を捨てる時を指しています。主はその時について、「一粒の麦が地に落ちて、…. 死ねば多くの実を結ぶ」と説明し、更に弟子たちのためにも、「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所にいることになり、…. 父はその人を大切にして下さる」などと教えておられます。私たちも主と一致して神に敵対する人類の罪までも背負い、その罪に汚れた自分の命をいけにえとなして神に捧げるなら、そして地に葬られてその殻を破るなら、その時、私たちのこの世の命の殻の中に孕まれていた神の子の永遠の命も輝き出て、多くの人を救いに導き、豊かな実を結ぶに至るのではないでしょうか。私たち各人がこのようにしてそれぞれの死を神に捧げる時、本日の福音にあるように、神の栄光が私たち各人の上にも現れて、この世の支配者、悪霊たちを追放して下さるのではないでしょうか。それは、生身の人間になられた主ご自身も、「私の魂は騒いでいる。何と言おうか。父よ、私をこの時から救って下さい」と御父に祈られた程、恐ろしい苦しみの「時」でしょうが、しかし、その魂がこの世の殻を破って輝かしい栄光の命に生まれ出る時でもあります。ちょうど昆虫が羽化して成虫になる飛躍の時のように。
⑨ 主の受難死と復活を記念する聖週間の典礼を間近にして、本日の福音にある主のお言葉を心に銘記しながら、私たちも主と共に全てを全能の神に委ねつつ、大きな信頼のうちに自分の死を先取りし、主の死を追体験するよう心がけましょう。繰り返しになりますが、主は「私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所に私に仕える者もいることになる」「父はその人を大切にして下さる」と語っておられるのですから。恐れずに、主と共に勇気をもって死に向かって進んで行きましょう。多くの人の救いのため、自分の命も主のいけにえに合わせて天の御父にお献げするために。