2009年4月5日日曜日

説教集B年: 2006年4月9日、受難の主日 (三ケ日)

朗読聖書: 入城の福音: マルコ 11: 1~10. Ⅰ. イザヤ 50: 4~7.
    Ⅱ. フィリピ 2: 6~11. Ⅲ. マルコ福音 15: 1~39.

① ミサ聖祭前の主のエルサレム入城を記念する行列入堂式の福音も、ミサ中の主の受難記も、昨年はマタイ福音書から、今年はマルコ福音書から引用されています。聖金曜日の福音は毎年ヨハネ受難記から読まれますが、「枝の主日」とも呼ばれる受難の主日には、A年はマタイ、B年はマルコ、C年はルカの受難記から福音が朗読されます。ただ今朗読されたマルコ受難記には、昨年のマタイ受難記と同様、主イエスはほんの二言しか話しておられません。それは、ピラトに答えた「それは、あなたが言っていることです」という言葉と、十字架上で神に向かい「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味の、大声で叫ばれたアラム語の言葉であります。そこで、この二つのお言葉と関連して少し考えてみましょう。
② 本日の受難記の中では、ピラトとローマの兵士たち、ならびに祭司長や律法学者らユダヤ人たちが多く話していますが、その人たちの話と罪状書きに、「ユダヤ人の王」という言葉が5回、別に十字架上の主を侮辱したユダヤ人たちの言葉の中に「メシア、イスラエルの王」という言葉が1回登場しています。いずれも主イエスの称号で、その称号自体は正しいですが、ピラトとローマ兵たちは政治的観点から、ユダヤ人たちは宗教的観点から、囚人の姿にされている主を王ではない、メシアではないと考えており、主のそれらの称号を、皮肉を込めた軽蔑的意味で使っていたと思われます。
③ 神よりの福音に謙虚に耳を傾けようとしない、そんな人々が多く群がっている前に、囚人のようにして連れ出された主が、裁判席に着いた総督ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問されても、相手は主の返答を正しく受け止める宗教心を持たず、また持とうともしていないのですから、主はあいまいな返事をし、それ以上には何もお答えになりませんでした。「それは、あなたが言っていることです」という言い方は、「その通りです」という肯定的意味の返事であることも、逆に否定的意味の返事である場合もあったようです。主は、わざとこのあいまいな言い方を利用なされたのだと思います。メシアは確かにユダヤ人の王ですが、その言葉で考えるようなこの世の王ではなく、もっと遥かに偉大で超越しておられる、神のようなあの世の王なのですから。主を処刑させようとして騒ぐその場のユダヤ人たちから何と言われても、それらの言葉を毅然として受け止め、少しもたじろがすに沈黙しておられる主の威厳に満ちたお姿も、主が偉大な王であられることを示していたと思われます。総督ピラトも少しはそのことを感じていたでしょうが、しかし、目前に騒ぎ立てているユダヤ教指導者たちや群衆の心をなだめることを優先し、結局彼らの要求通りに、主に十字架刑を言い渡してしまいました。
④ 主が十字架上で死ぬ少し前に大声で叫ばれた、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉は、絶望の叫びではありません。父なる神に希望をかけて、ひたすらに助けと救いを求める祈りの叫びだと思います。主が全人類の罪を背負って絶望的孤独に耐えておられたこと、そして絶望の淵に立たされている罪人たちの救いのためにも祈っておられたことを示す叫びであると思いますが、この言葉自体は詩篇22番の最初の言葉であり、この詩の後半には、私たちが度々教会の祈りの中で唱えているように、「神よ、私から遠く離れず、力強く急いで助けに来て下さい」、「神は弱り果てた人々を思いやり、顔をそむけることなく、その願いを聞き入れられた」、「遠く地の果てまで、すべての者が神に立ち帰り、諸国の民は神の前にひざをかがめる」等々の言葉が多く続いていて、神の救いに対する希望と感謝と讃美に溢れています。主は、無数の罪人たちに対する神の救いの業を強く促し、神の助けを早めるために、大声でこのように叫び、息絶えられたのではないでしょうか。
⑤ するとその時、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと、共観福音書は三つとも一致して伝えていますが、これはそれまでの古い神殿礼拝の時代が終わり、主がかつてサマリアの女に話された「霊と真理のうちに」捧げる新しい普遍的礼拝の時代が始まったことを示しているのだと思います。主の受難死の一部始終を間近で目撃していたローマ軍の百人隊長は、主のご死去直後に、「まことに、この人は神の子であった」と、おそらく深い感動の心で話したようですが、この時から世界各国の異教徒も続々と主イエスを神の子として信奉し、至る所で神を礼拝する新しい時代が始まった、と言うことができます。人類救済のためになされた主の祈りと受難死に感謝しながら、本日の集会祈願にもありますように、私たちも主と共に苦しみに耐えることによって、復活の喜びを共にすることができるよう、神の導きと恵みを願い求めましょう。
⑥ ご存じのように、本日はカトリック教会で「世界青年の日」とされています。この日のために、今年の2月22日に出された教皇メッセージには、次のような言葉が読まれます。通常「ことば」と訳されているヘブライ語の「ダーバール」には、「ことば」と「わざ」の両方の意味があり、神は行うことを語り、語ることを行います、というお言葉に続いて、人となられた神のことばや聖書に読まれる救いのことばなどについて教え、神のことばは霊的な戦いには不可欠の武器なので、神のことばを聞き分け、深く知ろうとする心の訓練を粘り強く続けて、いつも神のことばの内に留まるよう勧めています。そしてそのために、聖書に親しむlectio divina (霊的読書) のやり方を解説したり、聖霊の導きと助けを祈り求めるよう勧めたりしておられます。2年後の2008年7月にはシドニーで世界の若者の集いが予定されており、教皇は今日のこの日からその集いに向けて、内的巡礼の旅を始めるよう勧めてもおられます。本日のミサ聖祭は、現代世界の若者たちが教皇ベネディクト16世のこれらの呼びかけを正しく受け止めて、神の導きと助けにより、人類社会の内的向上のため実り豊かな生き方を始めることができるよう、全世界の教会と心を合わせて、神の祝福を願い求めるためにお献げしたいと思います。どうぞ、ご一緒にお祈り下さい。