2009年4月9日木曜日

説教集B年: 2006年4月13日、聖木曜日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 12: 1~8, 11~14. Ⅱ. コリント前 11: 23~26. Ⅲ. ヨハネ福音 13: 1~15.

① 主イエスの最後の晩餐の記念である今宵のミサ聖祭では、三つの奥義が特別に記念されます。それは、主が晩餐の前に弟子たちの足を洗われたことと、ご聖体の秘跡の制定と、「私の記念としてこれを行え」というお言葉による、聖体祭儀ならびに司祭職の制定であります。福音のはじめ、1節から3節までは、ギリシャ語の原文では副詞句や分詞句の多い少し複雑な文章ですので、日本語では幾つもの文章に分けて訳していますが、原文では、定動詞は「愛した」の一つだけです。従って、この文章の中心は、「極みまで愛した」という主のその愛にあると思います。
② 出エジプトの記念行事である過越の食事を始めるにあたって、主はなぜ伝統的慣例に反して弟子たちの足を洗うという行為、奴隷たちの中でも一番下の奴隷がなしていた行為をなさったのでしょうか。出エジプトの歴史的出来事は、神の民イスラエルに対する神の全く特別な愛の行為、その民がそれまでに犯した一切の忘恩・不忠実の罪を赦し、神の愛の許に新しく自由独立の国民として発足させようとなさった、神の愛の働きでありました。神はシナイ山で、「私はあなたを奴隷の家エジプトから導き出した主なる神である。私の他に何者をも神としてはならない」とおっしゃって、改めて神の民イスラエルと愛の契約を結びましたが、主イエスは、出エジプトの時のこの救う神の愛、無償で全ての罪を赦し、新しく神の民として歩ませようとしておられた神の愛を体現し、その愛に弟子たちを参与させるために、彼らを極みまで愛し、彼らの足を洗うことによって、その愛を目に見える形で具体的にお示しになったのではないでしょうか。
③ 皆に仕える一番下の奴隷のようなお姿で弟子たちの足を洗われた後、主は彼らに、あなた方も互いに足を洗わなければならないとお命じになりました。自分を人々や社会の上に置いて、全てを何か不動の法規や理屈で割り切って考えたり裁いたりする、ファリサイ派のパン種に警戒しましょう。主キリストの模範に従って生きようとする私たち新しい神の民にとって、最高のものは神とその働き、無償で全ての罪を赦して下さる神の愛とその実践であります。私たちが主イエスのその愛に参与し、それを日々体現する時に、神も私たちの中で、私たちを通して特別に働いて下さり、神による救いの恵みが私たちの間に豊かに溢れ、私たちを通して社会にも広がるのです。
④ ところで、主が弟子たちの足を洗われたのは、単に己を無にして下から仕えるという模範をお示しになっただけではありません。もしそれだけのことであったら、主がペトロに話された「私が洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」、「既に体 (即ち足) を洗った者は全身清い」などのお言葉は、不可解になります。主が弟子たちの足を洗われたという行為には、もっと深い象徴的意味が隠されているのではないでしょうか。それは、主がその人の罪を全て受け取り、ご自身の受難死によって償おう、こうしてその人の霊魂の汚れをちょうど洗礼のようにして洗い流し、その人を神の所有物、神の子にするという、主の贖いの死の恵みに参与させようとすることも意味していたのではないでしょうか。洗礼の時には頭に水が流れただけでも、その人の魂は神によって浄化され神の子とされますが、同様に主がその人の足を洗っただけでも、その人の魂の罪は救い主に引き取られ、清くされたのだと思われます。主は弟子たちにも、このようにして互いに相手の負い目を赦し、その罪を自分で背負って清めよう、己を犠牲にして相手に神の子の命を伝えようと奉仕し合うよう、お命じになったのではないでしょうか。主のお考えでは、人を赦す、人を愛するとは、このようにして赦し、愛することを意味していたのだと思われます。
⑤ 私たちが、主のこの無償の献身的愛に参与して生きることができるように、主はご聖体の秘跡を制定し、そこに奉仕的、自己犠牲的な神の愛を込め、私たちの魂を養い力づけるための食物・飲み物となさいました。それは真に不思議な生きている食物・飲み物で、それを相応しい愛の心で拝領する人の中では、その魂と主との内的一致を深め、その心を守り助け力づけて下さいますが、他人も社会も神も、すべてを自分のために利用しようとしている利己的人間の中では、主のお体を汚すその不信仰の罪故に、その心を裏切り者ユダの心のように暗くし、自分の身に悪魔を招き入れることにもなり兼ねません。ヨハネ福音書13: 30によると、彼は主から渡されたパンを食べてから外の闇に出て行き、主を裏切ったのです。その一切れのパンが聖別された主のご聖体であったかどうかは明記されていませんが、マタイとマルコの福音では、弟子一人の裏切りの予告とペトロの否認の予告との間にご聖体制定の記事があり、ルカ福音では、ご聖体制定の記事の直後に裏切りの予告とペトロの否認の予告が置かれていて、ヨハネ福音でも、裏切りの予告の直後に主が一切れのパンをユダに与え、「ユダはそのパンを食べるとすぐに出て行った。夜であった」とあり、その少し後でペトロの否認が予告されています。これらの話を考え合わせますと、ユダは主のご聖体を拝領してから、ヨハネが書いているように悪魔の促しもあって、裏切りを実行したのではないでしょうか。ですから、使徒パウロもコリント前書11: 21に警告しているように、拝領する前に自分の心をよく吟味し、自分中心の利己的精神に死んで、主の献身的愛の命に生かされて生きる決意を新たにしながら、拝領するように心がけましょう。
⑥ こうして主キリストと一致する全てのキリスト者は、同時に主の普遍的司祭職にも参与し、主と一致して人々のため、また社会のために神にとりなし、神から恵みを呼び下すこともできるようになります。いや、そういう働きを為す使命を身に帯びるに至るのです。今宵、私たち一人一人が、主において参与しているこの普遍的司祭職の使命を改めて自覚し、司教・司祭たちの働きを下から支え助けて、主キリストの司祭職が現代においても多くの人に神による救いの恵みをもたらし、その人たちが豊かな実を結ぶことができるよう、特に祈りと忍苦をもって協力する決意を新たにしながら、この聖なる感謝の祭儀を献げましょう。