2009年4月12日日曜日

説教集B年: 2006年4月16日、復活の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 10: 34a, 37~43.  Ⅱ. コリント前 5: 6b~8.
 Ⅱ. ヨハネ福音 20: 1~9.
① 本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいたローマ軍の百人隊長コルネリオとその家族・親戚・友人たちの前で話した説教からの引用ですが、その中で「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現して下さいました」という言葉があります。ここに「三日目」とある、私たちがこれまでしばしば聞き慣れている聖書の言葉には、実は神からの深い意味が込められているようです。今の教皇ベネディクト16世がまだ枢機卿であられた1999年に著された『典礼の精神』という著作の第五章「聖なる時」の中で、それに関連して様々な話や考察が論述されています。それで、本日はそのラッツィンガー枢機卿の考察の一端を私なりに少し自由な形に崩し、いろいろと言葉を補って紹介してみたいと思います。なお余談ですが、一昨日ここで朗読されたマルコ受難記の最後に、主イエスの受難死の一部始終を目撃していた百人隊長が、主の死後すぐに「まことにこの人は神の子であった」と言った、という話がありましたが、私はその人が、ペトロの説教を聞いて異教徒からの最初の受洗者となった百人隊長コルネリオではなかったか、と勝手に推察しています。
② ラッツィンガー枢機卿の話に戻りますが、古代の大都市や大河流域の豊かな土地では、一神教は成立できませんでした。人間の関心を引き、その生活を豊かにしてくれる地上の多くのものに取り囲まれて、住民が定住していたからだと思います。一神教は、大地からの恵みが乏しい乾燥した荒れ野や砂漠地帯で、遊牧民のような不定住の放浪生活を続けながら、一つの場所や事物を神格化することなく、太陽・月・星空など、秩序正しく動いている天空の事物を眺めつつ、不安な生活を耐え忍ぶことの多い人々の間で成立しました。オリエント諸国で、そのような「よそ人」としての生活を続けることの多かったアブラハムとその家族は、目前にある地上の事物よりも、日照や雨や風などを支配していると思われる天上の神に恵みと保護を祈り求めながら生活し、蓄えの少ない不安に絶えず伴われているその遊牧生活の中で体験した数多くの神の助けや護り・導きから、人類に対する唯一神のパーソナルな愛を確信するに到ったのではないでしょうか。
③ アブラハムの出身地であるメソポタミヤ地方や東洋の諸国では、定期的に満ち欠けする「月のリズム」で月日を数える太陰暦が普及していましたので、旧約の神の民はそのリズムに従って生活し、六日間働いて七日目を安息日とする「週単位のリズム」を大切にしていました。これに対して、エジプトやその他の地方では、もっと長い周期で夜と昼の長さを変化させ、冬と夏との気候を交代させる「太陽のリズム」で月日を数える太陽暦に従っていました。メシア誕生の数十年前に、ローマの支配者ユリウス・カエサルは、エジプトで最もよく整備されていた太陽暦をローマに導入しましたが、これがローマが支配していた地中海世界とその周辺に広まって定着した、「ユリウス暦」と言われた太陽暦であります。こうして、太陰暦と太陽暦で大きく二つに分かれていた世界を、新しく一つに結んで協力させる意味も込めて予言なされたのが、主イエスの「三日の後に」というお言葉だったようです。マルコ福音書によると、主は3回もはっきりとご自身の受難死を予言しておられますが、いずれの場合にも「殺されて、三日の後に復活する」と明言しておられます。ヨハネ福音書には主が「私の時」と呼んでおられる箇所、あるいは「イエスの時」、「ご自分の時」と書かれている箇所がたくさんありますが、いずれも受難死と復活のその三日間を指しています。それでラッツィンガー枢機卿は、この三日間を一連の「聖なる時」、一つの「祭」の時と考えています。
④ 週単位のリズムで信仰実践に努めていた旧約の神の民にとり、「週の初めの日」は神による創造を記念する日で、民はその日から働き始めて七日目の安息日めざして生きていました。安息日は同時に神の民がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを記念する日でもあり、その解放を感謝し記念する春の過越祭は、大安息日として盛大に祝われていました。その過越祭に屠られるため多くの小羊が神殿内に運び込まれた大安息日の前日に、「神の小羊」であられる主イエスは受難死を遂げ、大安息日が明けた週の初めの日に復活なさいました。そしてそれから50日後の週の初めの日には、主を信じる弟子たちの上に聖霊の火を劇的に注いで新しい神の民として歩ませ、力強く活躍させて下さいました。それで初代教会は週の初めの日を、「主の日」、神による新しい創造の日として特別に記念するようになり、ユダヤ教から週単位のリズムを受け継ぎながらも、週末の安息日よりも「主の日」を大切にするようになりました。復活節の典礼には「週の初めの日」という言葉が度々登場しますが、その時、それが主によって始められた新しい創造の日であることも、想起するよう心がけましょう。
⑤ このキリスト教信仰が、太陽暦が定着しており太陽信仰も広まっていたローマ帝国に広まると、週の初めの日は太陽の日と見做され、残り週日にはそれぞれ当時知られていた様々な惑星の名を配分して、月曜日・火曜日などと呼ぶようになりました。今考えてみますと、それらの惑星はいずれも太陽の周りを回っている星であり、太陽の光を受けて輝いているのですから、このようにしてユダヤ教の伝統的リズムを少し修正し、新約時代の神の民のため広く国際的に受け入れ易いものにしたのは、神の御旨だったのではないでしょうか。旧約時代の伝統が否定され捨てられたのではありません。主キリストの受難死と復活の聖なる三日間によって、太陽暦の世界の人々にも適合する、全人類の新しい伝統に広げられ高められたのです。週単位のリズムだけではありません。一年単位の太陽暦のリズムに合わせて、太陽のように見做されていた主キリストの誕生日を、4世紀からは不敗太陽神の誕生日とされていた12月25日に祝い、ユダヤ教の過越祭とは少し違う、春分後の最初の満月の後の日曜日に復活祭を祝うことにしたのも、太陰暦と太陽暦、月と太陽との両方を尊重する、国際的に受け入れ易い典礼暦を普及させようとした、古代キリスト教会の功績だと思います。例えば小アジアなどの教会では復活祭を、4世紀前半まではユダヤ教の祝祭暦にあわせて、ユダヤ教の過越祭の日に祝っていたそうですが、325年のニケア公会議の決定に従って、全教会と同じ日に祝うようになったのだそうです。
⑥ 詩篇の19番には「神は天に太陽の幕屋をすえられた。太陽は花婿のように住まいを出て、勇士のようにその道を喜び走る。云々」という言葉がありますが、太陽を主キリストに見立てて、太陽に向かって祈ることも古代から盛んになり、古代中世に建てられたほとんど全ての聖堂は、太陽の昇る東の方に向いてミサを捧げるように造られていることも、注目に値します。古代教父の中には主の日を、天地創造から数えて八日目と考え、八日目をこの世の闇を追い払う新しい時代の始まりとするシンボリズムもありました。それで古代から、洗礼盤あるいは洗礼聖堂を好んで八角形に造る伝統も続いています。私もヨーロッパでそのような古い洗礼盤や洗礼聖堂を幾つか見て来ました。私たちも古代教会のこのような慣習に敬意を表しながら、古い伝統と新しい必要性との両方を大切にする開いた心で、新しい世界宗教時代への門出であった主キリストの復活祭を、喜びのうちに記念致しましょう。