2009年4月10日金曜日

説教集B年: 2006年4月14日、聖金曜日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 52:13 ~ 53:12. Ⅱ. ヘブライ 4:14~16, 5:7~9. Ⅲ. ヨハネ福音 18: 1~19, 42.

① 最後の晩餐の席で弟子たちを極みまで愛し、「勇気を出しなさい。私は世に勝ったのだ」と断言なされた主が、その少し後にはゲッセマネの園で血の汗を流す程に悩み苦しまれたことを思うと、この時の主は、生身の人間の弱さをそのまま百パーセントに保持しつつ、悪魔からの激しい攻撃を少しも回避せずに、百パーセント徹底的にお受けになっておられた、と考えてよいのではないでしょうか。主は公生活の始めには、申命記から神の言葉を引用することにより、いわばその言葉に込められている神の力によって、悪魔の誘惑を毅然として撃退なさいましたが、ゲッセマネでは、全能の神の力をご自身の内に深く隠し、神から離れている罪人たちの孤独と不安とをとことん体験しつつ、絶望と諦めの淵に引きずり込もうとする悪魔の脅しと誘いに抵抗し続け、ヘブライ書の表現を借りるなら、「大きな叫びと涙をもって」神に助けを願い求めておられたように思われます。メシアがこのようにして、神から離れている人間の弱さと苦しみを味わい、悪魔の攻撃を受けて底知れぬ苦悩の淵に沈められることは天の御父の御旨で、罪によって齎されたあらゆる種類の艱難・窮乏に苦しむ人々の罪を償い、その人々を慰めることのできる救い主になるためであったと思われます。主はそのとき悪魔から、過去と未来の全人類の罪と、神の愛と恵みがどれほど簡単に多くの人から無視され無駄にされるかを見せつけられ、罪を知らぬ誠実純真な人間として、極度に苦悩なされたのではないでしょうか。
② 苦しみそのものには少しも価値がない、などと言う人もいますが、苦しみを単に受けるだけ我慢するだけで、外的社会的には何も産み出さないものとして理知的に考えるなら、そうかも知れません。しかし、少なくとも神の御独り子がこの世に来臨して多くの苦しみを進んで耐え忍び、それにより人間救済の業を成就なさった後には、苦しみは、主イエスと内的に一致して生きようとするキリスト者にとって人間救済の手段として祝別され、神の恵みの器としての価値を持つに至ったように思われます。苦しみは、固く凝り固まっている私たちの心の土を打ち砕いて掘り起こし、そこに神の恵みの種が深く根を張って、豊かに実を結ぶことができるようにしてくれるからです。
③ ですから、神がこの世の苦しみを浄化し祝福して、そこに付与されたこのような効力とその高い価値とを体験し発見した某聖人は、苦しみを「第八の秘跡」と呼んでいます。自分に与えられた思わぬ苦しみの中に、神からの大きな祝福と恵みが隠されていたという体験は、信仰に生きた数多くの聖人・賢者たちも述懐しています。私たちも、病苦や災害などの苦しみに直面する時、逃げ腰にならずに、自分に一層豊かな実を結ばせようとしておられる天の御父の愛に心の眼を向けながら、主イエスと共にその苦しみを耐え忍び捧げるように心がけましょう。主を「身代わり菩薩」のように考え、主がお捧げになったご受難の功徳にひたすら頼ることにより、自分の十字架、自分の苦しみを回避する恵みを願い求めようとしてはならないと思います。主は弟子たちだけにではなく、群衆に対してもはっきりと、「私の後に従いたい者は、己を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救おうとする者は、それを失う。云々」(ルカ 9:23、マルコ 8:24) と話しておられ、私たち各人が、主と同じ献身的愛の精神で生活し、主と一致して日々自分に与えられる苦しみを神に捧げることを強く求めておられるのですから。
④ 昨年の聖金曜日にも話したことですが、使徒ヨハネは主イエスのご受難を、新しい神の民を出産する産みの苦しみであるかのように観ていたようです。ヨハネ福音書には、「私の時はまだ来ていない」だの、「父よ、時が来ました」などの主イエスのお言葉が数回読まれますが、いずれもその産みの苦しみの時を指していると思われるからです。「第二のアダム」と言われる主イエスは、十字架の下で共に苦しみながら主の御臨終に伴っておられた聖母マリア(第二のエバ) と共に、ご自身のわき腹から流れ出た血と水によって、神の命に生きる新しい人類を産んだのではないでしょうか。そして聖母と共にその場にいて全てを目撃していた使徒ヨハネは、その新しい人類の象徴なのではないでしょうか。私たちカトリック者が、主と共にこの産みの苦しみを忍ばれた聖母を霊的母と仰いでいる一つの根拠は、ヨハネがその福音書に記しているこの証しにあると思います。その証しを素直に受容し、私たちも悲しみの聖母と共に、私たちの受ける全ての苦しみ・悲しみと涙を主のご受難と合わせて神にお捧げするなら、新しい神の民を産む主の御力が私たちの苦しみを通しても働き、小さいながらも神による救いの御業に参与することができると信じます。今宵、悲しみの聖母を崇敬し聖母に感謝しつつ、そのための照らしと恵みも聖母を介して祈り求めましょう。