2009年4月26日日曜日

説教集B年: 2006年4月30日、復活節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 3: 13~15, 17~19.   Ⅱ. ヨハネ第一 2: 1~5a.  
  Ⅲ. ルカ福音 24: 35~48.


① 新緑の美しい季節を迎えていますが、先日好天に恵まれて、三ケ日から名古屋への途中に刈谷駅で下車し、刈谷城の跡地を訪ねてみました。その城は家康の生母於大 (おだい) の方の父水野忠政が築いたもので、今は大きな二つの池と共に美しく整備され、訪れる人たちの心を和ませる緑豊かな亀城公園になっていました。そして新聞に「凱風」という言葉を見つけました。南から吹き寄せる心地よい春風のことで、凱風の「凱」という字は、勝利者の凱旋などに使われる「凱」という字です。ちょうどその日は夏日に近い程の暖かい日で、於大の方が暫く住んでいた椎の木屋敷跡の静かな休憩所で弁当を食べていた頃は、かすかに春風に吹かれていましたし、復活祭は主キリストの凱旋を記念する時でもありますので、心の中まで明るくなるのを覚えました。
② 神言神学院に帰り、共同で唱える復活祭の共同祈願の中に「神はキリストによってすべてを救い、一つに集められる」という祈りに出あいましたら、また心の思いが大きく広がり、主の勝利の喜びに導き入れられるように覚えました。私はここで言われている「すべて」を、生きとし生けるもの全て、いや神によって創られた宇宙万物を指していると考えます。復活なされた神の独り子は、それらの全てを改めて天の御父からしっかりと受け取り、目には見えなくても、天の栄光へと導き高めつつあるのではないでしょうか。その「全て」がどれ程多種多様であっても、いつかは主キリストの愛の命に生かされる「一つ共同体」となって輝くようになるのです。私たちが日々出会う小さな花や虫、あるいは物言わぬ道具類や飲食物に至るまで、そこに万物を愛しておられる主が現存しておられることを信じつつ、温かい心でそれらを眺めたり、生かして使ったり、あるいは感謝して飲食したりするように心がけ、主と万物に生かされて生きるように心がけましょう。以前にも話したことですが、「作品は作者を表す」という言葉通りに、命の本源であられる神に創られた全てのものは、太陽も月も宇宙も、ある意味では皆生きている存在であり、それぞれその存在によって神を讃え神に感謝しているのだと思います。それで私は十数年来、このようにして万物の内に神の現存と働きを感知しつつ、信仰と感謝の内に生きようとするのを、勝手ながら「私のカトリック的ネオ・アニミズム」と考え、日々出会う全てのものを温かい眼で眺めています。
③ 本日の第一朗読は、ペトロが神殿の美しい門の所で生来歩けなかった男を奇跡的に癒したことに驚いた民衆に話した説教ですが、彼はその中で、メシアを殺害したユダヤ人の罪を糾弾した後に、神がその殺されたメシアを死者の中から復活させたと宣言していますが、「私たちは、このことの証人です」と述べている言葉には、力がこもっていたのではないでしょうか。度々復活の主に出会った目撃体験と、旧約聖書の言葉に基づいての証言だからです。ペトロがその結びで、「ところで兄弟たちよ、あなた方があんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったことは、私には分かっています。云々」と、大きな罪を犯してしまったユダヤ人の無知と弱さに、温かい理解を示していることも、注目に値します。罪を厳しく糾弾したのは、無知から犯してしまった罪を自覚させ、何よりも神からその罪の赦しを受けさせるためであるからだと思います。
④ メシアの受難死は、数百年前から預言者たちによって予告されていた神の御旨でした。神のご計画では、メシアは人々の罪によって殺されても復活し、一層大きな自由の内に世の終りまで人類と共に留まり続け、悔い改めて信じる人を救うために派遣されたのです。ですから、たといメシア殺しの罪を犯してしまっても失望することなく、「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」と、ペトロは力説したのだと思います。今の人は「罪」と聞いても、それを何かの規則違反、例えば交通規則の違反のように軽く考え勝ちのようですが、聖書に言われている罪はそんなものではなく、神の呪いを招くこと、悪魔に加担することを意味しており、罪はそのままにして置くと、将来その人たちが思いもしなかった恐ろしい不幸を招来することになります。聖霊降臨後の使徒ペトロは、神の霊によってその不幸がエルサレムの人々に迫りつつあるのを痛感していたでしょうから、「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」というその言葉には、特別に力と熱意がこもっていたと思われます。
⑤ 本日の第二朗読も、今話したペトロの説教と同様の立場で語られていると思います。たといどんなに恐ろしい罪を犯してしまっても、天の御父の御許には全能の弁護者・救い主キリストがおられて、悔い改める全ての人を救って下さいます。この方が御父に献げた受難死といういけにえは、「全世界の罪を償ういけにえ」なのですから、余計な心配は捨てて、大胆に古い自分を捨て去り、悔い改めましょう。そして主キリストから与えられた新しい愛の掟、主が愛したように「互いに愛し合え」という掟を遵守するように努めましょう。頭では神を知っていても、キリストが愛したように愛するという実践の伴わない者を、使徒ヨハネは「偽り者」として厳しく断罪しています。
⑥ 私たちも気をつけましょう。神のお言葉を頭で理知的に受け止め解釈しているだけで、実生活の中での神の働きとの出会いに、感動し感謝する心のセンスを眠らせたままにしていますと、そのような「偽り者」になる危険が大きいと思います。仏教の禅僧たちは自分の心に沈潜し、心の内にあるものを静かに深く見極めることによって悟りに到達しようと努めており、それはそれで価値の高い宗教的生き方ですが、使徒たちをはじめ私たちキリスト者が召された道は違います。私たちは、人となられた神の子キリストの生き方・活動を、心の眼でしっかりと見極め感動して、それに従って行くように、またそれについて証しするように召されているのです。その主キリストは、目には見えなくても今も世の終りまで私たちの間に現存し、私たちに伴っておられるのです。従って、私たちにとって大切なのは、その主の現存と働きに対する心のセンスを鋭敏に磨いていること、そして小さいながらも実際に主の導きや助けを体験するようになることではないでしょうか。私たちは実体験を通して、主の現存と働きについて力強く証しすることができるようになるのでいから。その恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。
⑦ 本日の福音は、主が復活なされた日の夜、エマオから駆け戻った弟子二人が主について弟子たちに報告した後の、主のご出現についての話で、これについては一週間前に朗読されたヨハネ福音書にも簡単に述べられていますが、ルカはそれについて、もう少し具体的に詳しく叙述しています。主は、ご自身の復活体が肉も骨もない亡霊とは違って、実際に復活した人間の体であることを弟子たちに検証させていますが、医者であったルカはこの検証を重視して、それを少し詳しく書き残したのだと思われます。主が、ご自身の復活体を検証させただけではなく、千年以上前からの神のお言葉、聖書に基づいてメシアの復活を説明し、彼らの心の眼を開いて下さったことも大切です。そこでも最後に、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことと、主の弟子たちが「これらのことの証人となる」こととが説かれていますが、現代においてその弟子たちの使命を継承している教会に、そして教会のメンバーである私たちに、主は今もこの祭壇から、同じことをおっしゃっておられるのではないでしょうか。日々信仰のセンスを磨いて、小さいながらも私たちの中での主のお働きを鋭敏に感知し、自分の体験に基づいて主の愛を世に証しする人間になるよう努めましょう。