2009年5月3日日曜日

説教集B年: 2006年5月7日、復活節第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 4: 8~12.   Ⅱ. ヨハネ第一 3: 1~2.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 10: 11~18.


① 本日の第一朗読は、生来足の不自由な人を癒して民衆の注目を浴び、ソロモンの回廊で、人々に悔い改めて神に立ち帰るよう呼びかける説教をしていたペトロとヨハネが、神殿の守衛長たちに捕らえられて朝まで拘留され、翌日大法院に引き出されて、「お前たちは何の権威によって、あのようなことをしたのか」と尋問された時のペトロの話です。ガリラヤの無学な漁夫でしかなかった二人は、自然的にはこの世の権力やユダヤ教指導者たちの社会的権威に対抗できるものは何も持っていませんが、しかし、主キリストの弟子として召され、3年間主に伴っていて見聞したことから一つの大きな確信を持っていました。それは、十字架刑によって殺されたナザレのイエスが真のメシアで、もはや死ぬことのない霊の命に神によって復活し、今も人類の救いのために働いておられるという確信であります。それでペトロは、聖霊に満たされて恐れずにそのことを公言し、「他の誰によっても救いは得られません」と断言しました。この世の権力や社会的権威はなくても、その言葉には、彼ら二人の心に主と共なる生活体験を通して注がれた神の権威がこもっていたと思われます。彼らによって癒された人もその側に立っていたので、議員たちは皆驚き、「返す言葉もなかった」と記されています。あまりにも多くの情報や多様の見解が氾濫して迷っている人の多い現代にも、神よりの声をこのような確信をもって伝える伝道者の増加が、必要なのではないでしょうか。
② 本日の第二朗読の中で使徒ヨハネは、「世が私たちを知らないのは、御父を知っていないからです」と述べていますが、ではどうしたら、天の御父を知るようになるのでしょうか。福音に読まれる、「翻って幼子のようにならなければ天の国には入れない」(マタイ18:3) だの、「智者や賢者に隠して、幼子たちに現して下さいました」(マタイ11:25) などの主イエスのお言葉から察しますと、何でも自分中心・人間中心に理解し利用しようとする利己的計らいの心を捨てて、聖母マリアや聖ヨゼフのように神の僕・婢となって、我なしの心で神よりのものを謙虚に受け入れ、それに従おうと努めるなら、その実践を通して、次第に天の御父の導きや助けを知るようになるのではないでしょうか。私たちはとかく、自分の目で見、手で触れる経験的現実を基盤にして、政治も社会も神よりのものを考究し勝ちですが、神に対する真の信仰は、そのような心の中では生まれたり成長したりせず、神のお言葉や神のなされる救いの御業に赤ちゃんのように全く自分を委ね切って、そのお言葉やその御業を中心にする立場、すなわち神の立場から自分やこの世の現実を顧みる逆転の生き方の中で、信仰も神の恵みも根を張り実を結ぶのだと思われます。私が神学生時代に学んだラテン語の教材の一つに、3世紀の聖チプリアヌスによる「主の祈り」の解説がありましたが、聖人はその中で、この世の植物は土壌に根を下ろして上に伸びようとするが、神の国の実を結ぶ者はその逆で、天上に根を張ってこの地上世界に実を結ぶのだ、というようなことを述べていました。聖書の行間に読まれる「逆転の論理」に出会う時、私はいつも聖チプリアヌスのその解説を思い出します。
③ 使徒ヨハネは先ほど朗読された箇所で、「私たちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません」と述べていますが、自分は神の子にしてもらったのに、などと考えて現実生活をどれ程眺めてみても、神の子としての恵みも喜びも感じられません。しかしそうではなく、自分は神の子として生きるよう召されて、そのように生きることを約束し、その基礎的能力、すなわち神の子の命を戴いたのだと考えましょう。そして神の御独り子メシアの教えや模範に倣って、苦しみにも楽しみにも神の子として対処し、神の子として感謝の内に喜んで生きる実践に励みましょう。そうすれば、私たちが心に宿している神の子の命がゆっくりと育って来て、自分が実際に神の子として神から愛されていることを、次第に体験し確信するようになります。そしてメシアが栄光の内に再臨する終末の時の栄光化を、大きな希望のうちに待望するようになれます。それが、今の世における私たちの生き方ではないでしょうか。
④ 本日の福音は、主がユダヤ人たちに話された羊飼いの譬え話の後半部分からの引用ですが、その中には「命を捨てる」という表現が四回も繰り返されています。「命を捨てる」というのは日本語の訳で、原文を直訳すれば「命を置く」であり、これは「命を与える」あるいは「命を捧げる」、「命をかける」というような意味で受け止めてもよいと思います。神の民・神の羊として生きるよう招かれている人類の救いのため、命がけで全ての人を愛し、ご自身の命を与えようとしておられる主は、ご自身を「良い羊飼い」と称しておられますが、神の民・神の羊に対するそのような命がけの愛に生きていない宗教家たちのことは、「雇い人」と称しています。そして、雇い人は狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる、と皮肉っておられます。自分の命と自分の受けるこの世的報酬を第一にしている雇い人精神の人にとり、羊は他者からの単なる外的委託物であり、羊を心を込めて愛してはいないからだと思います。それに対して、「良い羊飼い」である主は「自分の羊を知っており、羊も私を知っている」と話しておられます。この話に「知る」という動詞が四回登場していることも、注目に値します。それは、頭で知るという一方通行の「知る」ではなく、心を通わせ愛し合っていることを意味する相互的な「知る」だと思います。使徒パウロはコリント前書8章に、「神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」と述べていますが、この場合の「知る」も、相互的な愛を意味していますから。
⑤ ところで、ご存じのように復活節第四主日は、カトリック教会において「世界召命祈願の日」とされていて、毎年全世界の教会で司祭や修道者として神に仕える人が多くなるよう、神に祈りを捧げています。皆様の聖ベルナルド女子修道会からの依頼で、私たちは毎月の第一月曜日に、司祭・修道者の召命のため特別にミサ聖祭を捧げて祈っていますが、それに加えて本日のミサ聖祭もその目的のために捧げていますので、全世界の人々と心を合わせて、相応しい心の司祭・修道者の増加のため、神に恵みと助けを願い求めましょう。「相応しい心の」と申しましたのは、主イエスが「雇い人」として退けておられるような、献身的愛に欠ける司祭・修道者では、いろいろと問題の多い現代の教会にとっては、益よりは躓きになるおそれが大きいと懸念されるからです。第一朗読に登場した使徒ペトロのように、日々主と共に生きることによって培われる確信と聖霊に満たされて、生き、働き、語る司祭・修道者が一人でも多くなるよう、神の特別の導きと助けを祈り求めましょう。