2009年5月17日日曜日

説教集B年: 2006年5月21日、復活節第6主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 10: 25~26, 34~35, 44~48. Ⅱ. ヨハネ第一 4: 7~10.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 15: 9~17.


① 本日の第一朗読の始めに登場するコルネリオという人は、この10章の始めに「彼はイタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長で、家族一同と共に神を畏れ、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈っていた」と紹介されていますが、以前にも話したように、私は、主の受難死の直後に「この方は真に正しい人であった」と言ったとルカが書いている百人隊長は、このコルネリオではなかったかと考えています。その百人隊長がある日の午後、幻の内に神の天使をはっきりと見て、「あなたの祈りと施しは神の御前に届き、覚えられている」と告げられ、ヨッパに人を遣わしてペトロを招くように命令されました。それで、側近の中の敬虔な兵卒一人を二人の家隷と共に派遣してペトロを招いたのでしたが、ペトロもヨッパでその三人の到着する少し前に、屋上での祈りの内に不思議な幻を3回も見て、「神が清めたものを、清くないと言ってはならない」という啓示を神から受けていました。
② 神からのこの啓示とコルネリオの受けた啓示とに基づいて、ペトロは数人のキリスト者を伴って、現在のテルアビブ空港の近くにあったヨッパから40キロも離れているカイザリアの、コルネリオの家にまで来たのでした。コルネリオがそのペトロを出迎えて伏し拝んだところから、本日の朗読が始まっていますが、話が長くなるので、途中に二度も省略されています。ペトロが、ユダヤ人には (律法によって) 異邦人と交際したり、異邦人の家に泊まったりすることが許されていませんが、自分は神の啓示を受けて招きに応じたことや、主イエスによる救いなどについて説明していると、その話を聞いていたコルネリオたち一同の上に聖霊が降り、異邦人の彼らが異言を話し、神を讃美し始めたので、ペトロと一緒にユダヤ人たちも皆、大いに驚きました。そこでペトロは、「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを誰が拒むことができようか」と言って、コルネリオたちに洗礼を授け、その求めに応じて、なお数日間その家に滞在したのです。
③ これは、ユダヤ教との対立を緩和してその迫害を回避するため、折角ユダヤ教の伝統である律法遵守に努め始めていたエルサレムの信徒団にとっては、衝撃的な律法違反であったと思います。その出来事を伝え聞いたエルサレムの信徒たちは、ペトロたちが戻って来ると、ペトロを非難しました。それでペトロは次の11章で、神の特別な介入に従った行為であったことを順序正しく説明し、ペトロと一緒にコルネリオの家を訪問した6人の信徒もその証人になったので、エルサレムの信徒たちも静かになり、神のなされた新しい導きや救いの業を受け入れて、神を讃美するに至りました。初代教会のこのような出来事は、現代の私たちの信仰生活にとっても示唆に富んでいると思います。キリスト者の中には、新約聖書に描かれている主キリストのお姿や、その主を囲む弟子たちの生き方についてだけ熱心に研究し、そこから飛躍して2千年後の今の信仰生活や教会のあり方などについて理知的に論ずる人たちもいますが、それは「今も働いておられる」(ヨハネ5:17) 神の導きや働きに謙虚に従おうとする人の生き方ではないと思います。「世の終りまで、いつもあなた方と共にいる」とおっしゃった主は、今も私たちと共にいて、導き働いておられるのですし、主が復活なされた日の朝にその墓を訪れた婦人たちに、天使も、「あなたたちはなぜ、生きておられるかたを死者たちの中に探すのか。そのかたはここにおられない。復活なされたのだ」と告げて、過去の主イエスだけをたずね求めるより、今も生きて人類と共にいて下さる復活の主の導きや介入に対する信仰のセンスを磨き、その主に従うよう諭しているように思いますが、いかがなものでしょうか。カトリック教会2千年の歴史は、内部の人間的弱さや悪癖などと戦いつつ、その復活の主の導きに従って、教会や信仰生活の中に次々と新しい要素を導入して来た苦闘の歴史であった、と言うこともできましょう。
④ 本日の第二朗読は、「私が愛したように互いに愛し合いなさい」という主の新しい掟の実践を力説する、使徒ヨハネの第一書簡の中心部分と称してもよいと思います。この書簡がしたためられた背景には、霊と肉とを峻別し、高貴な神の世界に属している私たちの霊を、誤謬と苦悩に満ちた世界に繋ぎ止めて置く牢獄のようなものとして、私たちの肉身を軽視するギリシャの哲学思想があり、その思想的立場から聖書の啓示を解釈しようとした、グノーシス派と言われた人たちの動きがあったと思われます。ヨハネはそれに対してこの4章の始めに、そういうこの世の思想的立場に立って主イエスの受肉を軽視する人々を「偽預言者」、「反キリスト」、「世から出た者たち」として退け、神から出たものでない「迷いの霊」を見分けることを説いてます。そして私たち「神から出た者たちは、既に彼らに打ち勝っている」のだという信仰に堅く立って、4章7節から「愛する者たちよ、互いに愛し合いましょう。云々」と、美しい愛の讃歌を綴っています。その讃歌が本日の第二朗読であります。神は愛であり、神の愛は、神がその御独り子を世に遣わして私たちを贖い、私たちが彼によって生きるようにして下さったことによって明らかにされたもので、その愛は私たちが神を愛したことに始まるものではないとするこの讃歌を、ゆっくりと味わってみましょう。私たちの存在が徹頭徹尾温かい神の愛に包まれ、抱かれているように感じられて来ることでしょう。
⑤ 本日の福音は最後の晩餐の席上での、主の遺言のような話ですが、主はその中で弟子たちに、「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛して来た。私の愛に留まりなさい。云々」と切願するかのように、ご自身の愛に留まるよう繰り返し願っておられます。それは、私たちが自分から産み出す人間的な愛ではなく、主が御自身から溢れ出す神の愛を受け入れ、自分に死んでその限りない神の愛に内面から生かされる実践を指しているように見えます。主はそのためにこそご自身のこの世の命に死んで、新しい神の命を私たちに提供する聖体の秘跡を制定なされたのですから。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という主のお言葉も、自分に死んで神の大きな愛に生きるように、という主からのお招きと結んで理解すべきだと思います。その大きな神の愛に生きてこそ、私たちは主の友となるのではないでしょうか。ヨハネ13章に述べられているように、主は裏切り者ユダが外の闇に出て行った後に、「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」という新しい掟をお与えになりましたが、この「私が愛したように」というお言葉を、外的に理解しないよう気をつけましょう。それは、自分に死んで主の愛に内的に一致し生かされて愛することを指していますから。15章からの引用である本日の朗読箇所でも、主は同じそのお言葉を二度も繰り返して、主が愛したように互いに愛し合うことを命じておられます。「私の命じることを行うならば」「私はもはや、あなた方を僕とは呼ばない。云々」などのお言葉に触れると、私は、主のご変容の栄光に包み込まれた弟子たちのように、主の大きな愛の中に抱き上げられ、その器や道具になったように覚えます。主は今も私たちに同じお言葉を繰り返して、私たちが主の大らかな愛の器・道具・友となって生きるよう、招いておられるのではないでしょうか。
⑥ 数日前に来日した国連のアナン事務総長が日中・日韓関係の改善のため、日本側が積極的に動いてくれるよう強く要請しましたが、この問題は極東諸国の共存共栄のため解決すべき重要な課題ですし、その一つの鍵は日本側が握っていますので、本日のミサ聖祭は、日本の政治家たちが問題解決の道を見出し、積極的に動いてくれるよう、またカトリック教会では「世界広報の日」としている日ですので、日本のマスコミ関係者も問題解決に貢献してくれるよう、神に照らしと導きの恵みを願い求めてお献げしたいと思います。この意向でご一緒に祈りましょう。ついでながら、カトリック者の中でも見解が大きく分かれている靖国神社問題についての私見も、何かのご参考までに申して置きましょう。私は、国家のために命を捧げた戦没者の霊魂たちの冥福を祈るのは、国民の義務だと思います。それで、すでに故人となられたドイツ人宣教師たちの模範に倣って、個人的に不特定多数のあの世の霊魂たち、特に苦しんでいる霊魂たちのために毎週2回ミサ聖祭の中で祈念する時、全ての戦争犠牲者たちの霊魂たちのためにも祈っています。祖国の犠牲者たちのための人間として当然のこういう祈りに対して、他国の人は干渉する権利がないという小泉首相の見解は、正論だと思います。主は山上の説教の中で、「もしあなた方が赦さないならば、あなた方の父もあなた方の過ちを赦して下さらないであろう」(マタイ6:15) とおっしゃいましたが、たといその人がどれ程憎い人であろうとも、すでに他界なされた人の罪は快く赦して、その冥福を祈るよう心がけましょう。
⑦ しかし、隣国の国民感情に配慮して、A級戦犯14人の靖国神社への合祀はなるべく早く取り止め、分祀すべきだと考えます。人間の考えた国際法の立場からすれば、東京軍事裁判には大いに異論がありますが、しかし、神の御前では、敵味方にあれ程多くの犠牲者を出した戦争の責任者たちは、無数の人たちの恨みを背負いつつ生きながらえるよりも、国家の新たな発展を祈念しつつ潔くその命を捧げ、処刑されることを望んでいたと思います。1948年12月23日に巣鴨で処刑され火葬場の穴に捨てられたA級戦犯7人の遺骨は、翌日はクリスマス・イブで監視が手薄だった上に、誰も火刑にされなかったので、弁護士と僧侶の二人によって密かに取り出され、暫くある所に保管された後、そのことを知った愛知県のある地主が遺族たちの了解を得て、蒲郡西方の三ヶ根山上の広い地所を墓地として提供し、地元の人たちによってそこに立派な墓碑が建てられました。すると元軍人で墓参に訪れる人が増え、その地所に自分の墓を建てる人も多くなったので、墓参団が来るようになって蒲郡温泉郷が栄えたばかりでなく、三ヶ根山上にも70年頃にホテルが建ちましたが、そのホテルのボイラーマンとして、私の知人のカトリック信者が勤務していたので、その人からの招きもあって、私は二度三ヶ根山を訪れ、A級戦犯者たちとその地に埋葬された将兵たちの冥福を祈りました。あの世で誰よりも多く国家と敵味方の戦争犠牲者たちとに謝りつつ、自分の苦しみと祈りを捧げているのは、その人たちの霊魂であると思うからでした。その頃に神社問題や靖国問題について学会で発表したり著作したりしていた、国学院大学の教授小野祖教氏とも、70年代中頃に宗教学会の懇親会でゆっくりと話し合ったことがあります。小野氏は他宗教の人たちにも開いた心の持ち主でしたが、78年10月にA級戦犯者たちは靖国神社に合祀されてしまいました。遠い三河の山への墓参の不便を、解消するためでもあったと思います。2千以上もあった将兵たちの墓も次々と他所に移され、今は幾つかの碑を残して、その墓地は美しい公園になっています。しかし、近年そのことで国際関係が悪化しているのなら、近隣諸国の国民感情を多少なりとも緩和するため、分祀の方向で新たに考え直すよう、神もお望みなのではないでしょうか。