2009年5月24日日曜日

説教集B年: 2006年5月28日、主の昇天(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 1: 1~11.      Ⅱ. エフェソ 4: 1~13.  
  Ⅲ. マルコ福音 16: 15~20.


① 本日の第一朗読の始めに、「私は先に最初の書を著して、云々」とある、この最初の書というのは、同じテオフィロ閣下への献本の辞で書き始めているルカ福音書のことを指しています。使徒言行録のこの最初の言葉を読む時に、私はいつもローマのグレゴリアナ大学で古代教会史の講義を受講した時のことを懐かしく思い出します。それは1959年秋のことでしたが、その頃のイエズス会の歴史家たちは皆、ルカ福音書は主イエスの死後20年ほど後の紀元60年頃に書かれたと考えていました。古代教会史の教授たちはその理由として、主として聖ペトロと聖パウロの言行について叙述している使徒言行録が、この両使徒の67年の殉教については何も書かず、60年頃に囚人としてローマに連れて来られたパウロが、同地のユダヤ人たちを招いて自分のことを弁明した話と、自費で借りた家に番兵付きで住むことを許され、まる2年間住んでいる話で終わっているのは、この書が60年代前半に執筆されて献本された証拠である、と話していました。したがって、それ以前に献本されたルカ福音書は、60年頃の作品であると考えていました。
② その後の聖書学の著作には、ルカ福音書は70年以降に執筆されたとするどなたかの福音編集史的仮説が踏襲されているだけで、教会史学者たちを納得させる論拠は一つもあげられていません。精々ルカ福音書21章にあるエルサレム滅亡の予言はその通り実現したのだから、これは70年のエルサレム滅亡後に書かれたと思われる、という理由一つだけであります。しかしこの理由は、主イエスに予言能力がないことが立証されない限り、学術的には通用しません。75年6月発行の『カトリック研究』27号に、私は「ブルトマンの新約聖書非神話化に対する史学的見地からの疑問点」という論文を発表したことがありますが、その中ではこのことは扱いませんでした。聖書の記述を神話論的伝承と見ることに対する批判に、論議を集中させていたからだと思います。でも、この70年代の中頃と後半に、私は大学での講義の中でも、幾つかの修道院や教会での説教の中でも、ルカ福音書がエルサレムの滅亡よりも10年ぐらい早い頃に書かれたと思われることを、理由をあげて話していましたので、その頃の私の話を覚えている人も少なくないと思います。
③ 主の昇天祭なのに、話が横道にそれてしまいましたが、第一朗読に戻しましょう。もはや死ぬことのない永遠の命に復活なされた主イエスは、40日間にわたって度々弟子たちに出現し、数多くの証拠を彼らに示して、実際に神出鬼没のあの世の命があること、そして主はその命に生きておられることを証ししました。それは、本日の朗読にもあるように、彼らが「地の果てに至るまで」主の証人となり、大きな確信と希望をもって神の国の命に生きて見せ、それを世界の人々に広めるためであったと思います。その40日間の最後頃、主は彼らと一緒に食事をしておられた時、エルサレムを離れないで、あなた方が私から聞いた父の約束を待っているように、とお命じになりました。「間もなく聖霊によって洗礼を授けられるであろうから」と。その後、ルカ福音書によると、彼らはベタニア近くの (おそらくオリーブ山の上に) 導かれて、そこに一緒に集まった時、「主よ、イスラエルのために王国を復興なさるのは、この時ですか」と、まだ古い現世的メシア像に囚われているような質問をしましたが、主は「父が御自らの権威をもってお定めになった時期は、あなた方の知るところではない」とその質問を退け、「しかし、聖霊があなた方に降る時、あなた方は力を受けるであろう。云々」と、彼らがこれからは主の証人としての使命に生きることを話し、話し終えると、かれらの見ている前で天に揚げられて行き、雲に隠れてしまいました。
④ 単なる私の想像ですが、その時の主のお姿はそれまでとは多少違って、天上の威光と喜びに輝いているように見えたのではないでしょうか。この全く思いがけなかった主の昇天を目撃して、弟子たちはいつまでもじっと天を見詰めていたと思います。するとそこに、白衣の人の姿で二位の天使が彼らの側に現れたようで、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなた方から離れて天にあげられたあのイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様で、また来るであろう」と告げました。この言葉は、問題多発の今の世に生きる私たちにとっても、忘れてならない言葉だと思います。すでに過ぎ去った過去の主のお姿だけを慕い求めるのではなく、激動する目前の人類社会の中にも密かに受肉し現存しておられる主の新しいお姿に対する心のセンスを練磨しつつ、また主の栄光の再臨を待望しつつ、大きな明るい希望の内に神の国の証し人として苦しい現実生活を生きるよう、神は私たちにも求めておられるのではないでしょうか。復活なされた主は、私たちの過去におられるよりも、むしろいつも私たちの前に未来におられて、その主の働きについての目撃証人になるよう、私たちを招いておられると思います。
⑤ 本日の第二朗読であるエフェソ書は、ローマの借家で誰とも自由に会うことはできても、まだ番兵に監視されていて自由に外出することができない、言わば裁判前の拘置所にいるような状態で生活していた使徒パウロの書簡だと思われますが、「主に結ばれて囚人となっている」と表現しているその拘束の多い不自由な生活の中で、彼は神の霊に生かされている新しい神の民全体を「キリストの体」として捉え、各人をいわばその肢体、現代風に表現するならその細胞として考える、新しい教会像を獲得し深めるに至ったのではないでしょうか。この教会像は、半分世捨て人のような生活を営む観想修道者たちにとっても大切だと思います。私たちは、今苦しんでいる人、今助けを必要としている人の側にあって奉仕活動に挺身する自由をもっていませんが、しかし、神においてその人たちと内的に結ばれ連帯して生きることはできます。日々の祈りと労苦を心を込めて神に捧げることにより、その人たちを助けることもできます。使徒パウロも同様に考えて、本日の朗読箇所では「主は一人、信仰は一つ」などと、神における内的生命的一致を強調しているのだと思います。私たちも、主と一致して全人類の救いのために生きるよう召されていることを心に銘記しつつ、今の世の人がどれ程堕落への道に堕ちて行こうとも、「愛をもって互いに忍耐し、平和の絆に結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」という、本日の朗読にある言葉を忘れずに、希望をもって励むよう心がけましょう。
⑥ 本日の福音であるマルコ福音書の16章9節から20節は、最も古い重要な写本には欠けていますので、マルコの書いたものではなく、後の時代に他の福音書や使徒言行録などを参照しながら、誰かによって補記されたものかも知れません。しかし、教会はその部分をも聖書としていますので、その補足・追記も神の導きによる聖書として受け止めましょう。「荒れ野で呼ばわる者の声」から始まるマルコ福音書には、この世の諸悪や諸勢力に対するライオンのように強い批判や睨みを感じさせる言葉が少なくありませんが、その中心である主イエスが、受難が始まるとほとんど何も話さずに死んでしまい、復活後にも、墓を訪れた婦人たちに天使が語っているだけで、その婦人たちも恐ろしさから「誰にも何も言わなかった」という所までで福音が終わっているのは、物足りないと思った人が、マルコ福音書の結びとして、9節以下を書き足したのだと思います。従ってそこには、復活なされた主が、それを信じない弟子たちの心の頑なさを厳しくなじるお言葉があったり、本日の朗読箇所に読まれるように、「全世界に行って全ての被造物に福音を宣べ伝えよ」という力強い命令があったり、「悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ」など、視覚的に力強く宣教効果を語る言葉があったりしていて、マルコらしい結びの言葉になっています。マルコ福音書最後のこの部分も、神よりの言葉として堅く信じましょう。謙虚に信じて揺るがなければ、その信仰のある所に、神は実際に働いて下さり、毒を飲んでも害を受けず、病人を癒すというような、神の働きも体験するに至ると思います。ご存じのように、最近の社会には悪魔の働きが活発になっているようで、今までに耳にしたことのないような新しい型の犯罪や詐欺行為が多発し、次々と純真な子供たちや罪のない人たちが犠牲にされています。私たちも揺るぎないマルコ福音書的信仰を体得して、悪魔の攻撃に対して慎重に備えていましょう。