2015年12月27日日曜日

説教集C2013年:2012聖家族の祝日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節
福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節

    本日の福音には、過越祭の巡礼団に参加して両親と共に聖都エルサレムに滞在した、12歳の少年イエスの言葉が読まれます。福音書にはそれ以前のイエスの言葉が全く載っていませんから、この言葉が私たちに残された主イエスの最初の言葉になります。過越祭の祭りが終わって、ヨゼフとマリアは、ナザレからの巡礼団の男組と女組とに分かれてエリコ辺りにまで行ってから、一緒に野宿しようとしましたら、巡礼団の中に少年イエスがいないことに初めて気づきました。それまでは毎年、まだ小さな子供であったイエスは、母マリアと一緒に女組に属して巡礼していたと思います。それが当時の男の子の慣例でしたから。しかし、男の子は12歳頃から男組に移行する慣例になっていましたから、ちょうどその境目の時でしたので、マリアはイエスがヨゼフと共にいると考え、ヨゼフはまだマリアと共にいると考えて、帰路最初の一日分の道のりを巡礼団と共に歩いたのだと思います。
    ところが巡礼団の中にはいなかったので、野宿の後二人は巡礼団から分かれて、心配しながらエルサレムに戻り、夕刻になっても知人の家々を訪ね歩いて、少年イエスを捜しまわったのだと思います。そして三日目の朝に漸く神殿の境内にいるイエスを見つけ、母が「なぜ (無断で) こんなことをしたのですか。ご覧なさい。お父さんも私も、心配して捜していたんです」と、詰問したのだと思われます。それに対する少年イエスのお答えは、日本語の邦訳では、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」となっていますが、これは聖書の原文とは違っています。主はそのように話されたのではなく、もっと神秘的な言い方をしたのです。ギリシャ語の原文を直訳しますと、「なぜ私を捜されたのですか。自分の父のにいる筈だ、ということを知らなかったのですか」となります。「自分の父のにいる」では読者に解り難いという理由で、欧米の近代語でも、それに倣う日本語でも「自分の父の家にいる」と言葉を補って翻訳したのだと思われますが、それでは主イエスの真意が歪められたことになり、逆に「なぜ父の家に?」という疑問も生じて来ます。殊に本日ここで読まれた日本語訳のように、「私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを」などと訳しますと、母のマリアもそのまま黙って引っ込みはしなかったと思われます。そんな事は「当たり前」ではないのですから。
    実際にはしかし、主イエスは12歳ながらよく考えた神秘的表現で、「自分の父のにいる」とお答えになったのだと思います。事によると、主はその時父母に大変なご心配をかけたことで、目に涙を浮かべておられたかも知れません。それで両親は、イエスの言葉の意味が分からないながらそのままに受け止めて、その言葉について尋ねることはしなかったのだと思われます。イエスはすぐ両親と一緒にナザレに帰り、それまで通り両親に仕えながら生活なされたようですが、聖母マリアは自分の産んだイエスが天の神を「自分の父」と初めて表現したことから、この時からイエスに対する態度を幾分変更し、これらのことを全て心に納め、改めて考え合わせるようになったのではないでしょうか。
    3年前にもここでお話した私の推察ですが、12歳になった少年イエスは、この巡礼の時にエルサレム神殿で生まれて初めて神からの呼びかけの声を聞き、神を「自分の父」と表現し始めたのではないでしょうか。そしてその父なる神の声に従って神殿に留まり続け、巡礼団と一緒に行動しなかったのだと思います。その行為が両親に大きな心配と迷惑をかけることは、後でお気づきになったと思います。しかし、人間社会の論理や通念で両親に迷惑をかけたことを謝ろうとはしませんでした。天の父なる神の御旨に従うことは、この世の人間社会の道徳や論理よりも大切な絶対の倫理で、神は時として敬虔な信仰者たちからも、多くの人の救いのためにこのような苦しみや犠牲をお求めになることを示すために、あのような解り難い神秘的返事をなさったのだと思います。私たちもこの世の社会的通念だけで善悪を判断したり行動したりしないよう気をつけましょう。天の父なる神は時々私たちの平凡な日常生活にも介入し、この世の人たちの誤解を招き兼ねない言行をさせて、思わぬ苦しみや犠牲を捧げることをお求めになります。神からのそのような突然のお求めにも適切に対応できるよう、何事にも神の御旨を第一に尋ね求める信仰と愛に生き抜く恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

    幾度も繰り返し話していますが、私たちの住んでいる今の世界は、次第に終末的様相を濃くしています。創世記1章の28節には、人祖をご自身に似せて創造なされた神は、彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ」と言われましたが、現代では人類が70億人を超えて全世界に広まり、水や食物やその他の資源やエネルギーにも不足し始めています。創世記に読まれる神のお言葉は、そのまま実現していると考えてよいのではないでしょうか。私たちの人間の生活を極度に便利にし豊かにして来た現代文明の進歩も、飽和状態に近付いていると考えてよいと思います。ヨハネの第一書簡には、「終りの時」に反キリスト、即ち悪霊たちが多く現れて活動するかのように記されていますが、これからの時代にはこれまでになかったような新しい形の犯罪や災害が多くなるかも知れません。日々祈りによって神と聖母マリアにしっかりと繋がれていましょう。聖母が、悪霊のわなから私たちを護り導いて下さると信じます。ルカ福音21章に主は、キリスト再臨の徴として「民は民に、国は国に逆らって立ちあがり、また大地震があり、方々に疫病や飢饉が発生するであろう」「日と月と星にしるしが現れ、地上では海が逆巻き荒れ狂うので」「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさと不安のあまり気を失うであろう。云々」「これらの事が起こり始めたら、恐れずに頭を上げなさい。あなた達の贖いの時が近づいているからである」と話しておられます。主のこのお言葉を忘れずに、身近に何かの災害や危険が発生したような時には、恐れずにすぐ神に心を向けて祈る習慣を今から身につけていましょう。主の予言なされた出来事は既に世界の各地に起こり始めている、と考えてよいかも知れません。悪のいや増すところには、神からの恵みもいや増すと思います。恐れずに神との心の繋がり、羊飼いの声に聴き従う生き方を、日々の生活の中に根付かせるよう、実践的に努めていましょう。主または聖母は、そのように生きる信仰の人を必ず護り導いて下さいます。聖家族を記念し崇める本日のミサ聖祭の中で、現代に生きる多くの家族のために、その御保護を願い求めましょう

2015年12月25日金曜日

説教集C2013年:2012降誕祭日中ミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

    本日の日中ミサ聖祭は、私の所属する神言会の慣例に従い、ローマ教皇のご意向に従って全教会・全人類の上に、人となってこの世にお生まれになった救い主の祝福を願い求めて献げられます。世界中のキリスト者たちと心を合わせ、この意向でお祈り致しましょう。本日の第一朗読には、「主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、全ての人が私たちの神の救いを仰ぐ」という大きな希望の言葉が読まれます。これは、エルサレムの滅亡とバビロン捕囚という悲惨な現実を体験し、落胆していた神の民に第二イザヤ預言者が語った言葉ですが、預言者はこの言葉の少し前に、「シオンよ、目覚めよ。目覚めよ」と、信仰の眼を見開いて神の働き、神が為しておられる新しい救いの御業をしっかりと見据えるよう勧めています。
    私たちこの世の人間は、とかく肉の目に見える目前の現実に支配され易いですが、聖書によりますと、刻々と過ぎ行くこの仮の世の現実は皆夢のようなもので、本当の現実は、その外的現実の陰で神がなさっておられる働き、救いの御業にあるようです。信仰の眼を見開いてこの現実を見定め、神の囁きに心の耳を傾けるよう、預言者は勧めているのだと思います。私たちの住んでいるこの現代世界は、次第に終末的様相を呈し始めているようにも見えますが、終末は神による被造物世界の徹底的浄化刷新への生まれ変わりを意味しており、それは、人となられた神の子と、その神の子の命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、長い年月をかけてゆっくりと準備された後に、突然に世界の表に現われ短時日で実現するもののようです。ちょうど最後の晩餐から受難死・復活までの短時間のうちに成就したメシアによる贖いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い年月の生命的準備期を基盤としているように。本日の第二朗読の中で、神の子メシアの来臨により「終りの時代」、終末時代が始まったかのように述べられていることも、注目に値します。人類の人口が70億を超え、人間の文明も極限に近い程に発達した現代世界は、そろそろ突然に訪れるという世の終りに近い時点にいるのではないでしょうか。祈りによって神と内的にしっかりと結ばれていましょう。
    本日の福音は、ヨハネ福音の序文(プロローグ)からの引用ですが、この世に来臨なされた神の子メシアの本質が何であるかを教えていると思います。それによりますと、かわいい幼子の姿で赤貧の中にお生まれになったメシアは、実は永遠に存在しておられる神で、万物を創造した全能の神のロゴス、すなわち神の言葉であり、全ての人を生かす神の命、全ての人を照らす神の光なのです。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」という、ただ今朗読された聖句に注目しましょう。ここに「言葉」と記されているものは、私たち人間の言葉とは全く違う、愛の命と光とに溢れている全能の神の言葉なのです。この生きている言葉、すなわちロゴスは、三位一体の共同体的愛の交わりの中では永遠に明るく燃え輝いている光ですが、神に背を向け目をつむる暗闇には理解されず、その暗闇の勢力下に置かれて、神に背を向けて生きる暗い罪の世に呻吟し、道を求めている人たちを訪ね求めて救うため、己を無にして本来の光と力をそっと隠し、赤貧の内にか弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中に、深く身を隠して現存しておられる全能の神のロゴスを、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのだと思います。恐るべき終末の審判は、今すでに始まっていると言ってもよいでしょう。
    本日の福音の後半には、人となってこの世に来臨した神のロゴスについて語られています。ご自分の民の所へ来たのに、その民は受け入れなかった、という悲しい叙述がありますが、しかし、受け入れた者には神の子となる資格を与えた、という喜ばしい言葉もあります。罪に穢れたこの世の暗い内的闇の勢力に囲まれて生きている私たちには、自分の力、自分の努力によって神の子の資格を得たり、その恩恵に浴したりすることは全く不可能ですが、己を無にしてこの世にお生まれになった神のロゴスが、ご自身を信じ、ご自身により頼む全ての人にその恵みを無償で与えて下さいます。社会の伝統的秩序や価値観が悪を統御する力を失って、闇の勢力が世界中に跋扈する様相を呈し始めている今日、私たちを神の子とし、全能の神の働きによって罪の闇から救い出して下さるため、この世にお生まれになった神の御子にひたすら縋り、私たち自身も神の御子に倣って己を無にし、貧しさ・小ささを愛することを喜ぶことにより、内的に深く神のロゴスに結ばれるよう努めましょう。

    私は昨夜の説教に、私たちの心の奥にはいつも素直で純真な子供心と言われるものが住んでおり、幼児の姿でこの世にお出でになった救い主は、夢を愛するその奥底に子供心の中にお出で下さるのです、というような話をしましたが、このクリスマス・お正月の時には、特に各人のその子供心に立ち帰って、幼児姿の救い主をそっと眺めて祈ることにも心がけましょう。ローマ教皇は今年のクリスマスを前にして、珍しくイタリアの企業主や経済学者たちの集会に出席なさり、この世の金銭問題にばかり目を向けていても、現代の経済不況は解決されないので、せめてクリスマスには子供のように素直な心で、神と神の御子キリストに心の目を向けて、その助けと導きを願い求めるようお勧めになりました。クリスマスに当たり、絶望的不安のうちに真の道を捜し求めている多くの人々の上にも、そのための導きの光と恵みの力とを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2015年12月24日木曜日

説教集C2013年:2012降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

    ベト・レヘムはヘブライ語で「パンの家」という意味ですが、二千年前にそのベトレヘムでお生まれになった救い主は、今宵はパンの形で私たち各人の内に、神からのご保護と救いの恵みを豊かにもたらすためにお生まれになるのだと信じます。理知的な人たちは、その信仰を子供じみた夢として軽蔑するかも知れません。しかし、冷たい合理主義や能力主義、あるいは自分の権利主張などが横行して潤いを失っている社会に、温かい思いやりや赦しあう献身的奉仕の精神をもたらすには、心が若返って美しい夢に生きる必要があります。私たちの体や頭がどれほど逞しく成長しても、心の奥底にはいつも素直で純真な子供心というものが残っていて、それが同じことの繰り返しでマンネリ化し勝ちな私たちの日常生活に、いつも新たに夢や憧れ、感動や喜びなどを産み出してくれます。そして数々の困苦に耐えて生き抜く意欲も力も与えてくれます。私たち各人の命の本源は、その奥底の心にあるのです。救い主も、夢を愛するその奥底の心の中にお出で下さるのです。二千年前の救い主の誕生前後に、ヨゼフも東方の博士たちも、夢によって教え導かれましたが、神は今も度々夢を介して私たちを教え導かれます。心が外的心配事や仕事にばかりこき使われていますと、夢を見なくなります。私たちの心はまだ時々夢を見ているでしょうか。夢を見る柔軟さを保持しているでしょうか。夢を愛する子供心を大切にしましょう。今宵の聖体拝領の時、二千年前の聖母のご心情を偲びつつ、神のため社会のために私たちの授かる恵みの御子、かわいい乳飲み子のような救い主を心の内に内的に育てよう、そして神による救いの恵みがこの御子によって、周囲の社会に行き渡るよう奉仕しよう、との決心を新たに堅めましょう。夢を愛する子供心を持って神に近付く人は、クリスマスの恵みを豊かに受けると思います。
    今から790年ほど前のことですが、アシジの聖フランシスコは子供のように単純な信仰心と夢を愛する心で、弟子たちとクリスマスのお祝いをしようとしたのでしょうか、1223年の12月に、ローマから60キロほど、アシジからは120キロほど離れたリエーティ(Rieti)という古い田舎町の郊外にある小さな山村グレッチオ(Greccio)の洞窟に、牛とロバを二匹ほど連れて来て、クリスマスのお祝いをしました。私はローマに留学していた時、神言会本部修道院の会員たちの遠足で、一度その洞窟を訪れたことがあります。洞窟の中は詰めれば人が十数人か二十人位も入る程の広さになっていて、その中程に高さ30cm程の上部が平らになっている腰かけにちょうど良いような小さな岩がありました。聖フランシスコはこの岩の上に、この世にお生まれになった幼児イエスがお出で下さると想定して、この岩を中心にして人々を集め、その千二百年ほど前にこの世にお生まれになった幼児救い主に感謝し、その幼児を讃えて礼拝する夢のようなクリスマスの祈りと説教をなさったそうです。するとそのお祝いの最中に、実際に生きている幼児がその岩の上に現れたのだそうで、聖フランシスコの腕に抱かれ愛撫されたそうです。私の聞き違いが混じっているかも知れませんが、何かこのような夢のような小さなクリスマスのお祝いが実際にその洞窟で行われたことが発端となって、クリスマスに聖堂内に幼児の像を迎える小さな厩(うまや)を作ったり、その厩の前で神に祈ったり歌ったりする信心深い慣習が世界中の教会に広まり始め、17世紀からは信徒の家庭でも、そのような小さな飾りを設けることが広まったと言われています。夢を愛する子供のような素直で単純な信仰心で、私たちも今宵あの世の救い主に祈りましょう。主は実際にそのような祈りを好み、あの世から求めておられると信じます。

    今宵主の降誕祭の記念ミサを捧げている私たちの目の前に、救い主は目に見える幼子の姿でお出で下さることはありませんが、しかし、内的には私たち各人の心の内に密かにそっとか弱い幼子の姿でお出で下さり、もし私たち各人が心を開いてその主をお迎えするならば、私たちの心の願いをしっかりと受け止め、その達成のために尽力して下さると信じます。子供騙しの夢のような話と思われるかも知れませんが、信じましょう。私は63年前に公教要理を学んでいた時、素直な子供心に立ち返って、神が私たちに提供しておられる数々の夢をまともに信じ、全てを神に委ね、神のお望み通りに生きようとし始めました。そうしましたら、今振り返っても驚くほど沢山の不思議な出逢いや恵みの出来事を体験させて戴きました。神は実際に存在し、私たち各人の人生に伴っておられると思います。既に復活してあの世に生きておられる主キリストの、私たち各人の心の中での隠れた誕生、隠れた来臨に対する信仰を新たにしながら、今宵のミサ聖祭を献げましょう。

2015年12月20日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第4主日(三ケ日)

第1朗読 ミカ書 5章1~4a節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章5~10節
福音朗読 ルカによる福音書 1章39~45節

   本日の第二朗読の前半に読まれる主キリストのお言葉は、詩編の40: 7~9を引用してヘブライ書の著者が記したものですが、神または復活なされた主がそれらの著者に特別に啓示して下さった、聖三位の第二のぺルソナがこの世に受肉された時の祈りであると思います。人間としてのご自身のお体は、神の民の罪を贖うために捧げられた旧約時代の焼き尽くされる幡祭(はんさい)のいけにえよりも遥かに優れたいけにえを神に捧げるためのもの、御父の御旨を行うためだけのものであるという、この徹底的献身と従順の決意は、主イエスが聖母マリアのお体に宿られた瞬間から受難死を成し遂げた時まで、救い主の人生を貫いている不屈の御精神であったと思います。聖母も単に主のお体だけではなく、そのお体に籠る主のこの御精神をもご自身の内に宿し、この御精神でご自身の人生を神に捧げ尽くすことによって、主と共に救いの恵みを人類の上に呼び下し、私たちの精神的母となられたのではないでしょうか。私たちも、救い主のこの御精神に参与して生きる度合いに応じて、クリスマスの恵みを豊かに受けると信じます。そのための照らしと力を願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

   以前にもここで話したことですが、聖マリアの「無原罪」という言葉を聞きますと、多くの人は、あらゆる罪の穢れを免れた心の完璧な清さや美しさだけを考え勝ちのようです。それは正しいのですが、しかし、罪に穢れた私たちの心の現実を高く凌駕している、そのような清さや美しさだけに注目するのは、片手落ちだと思います。もっと大切なことは、聖マリアが救い主に先立って、神からの特別の恵みであるそのような超自然的清さをもってこの罪の世に生れ、子供の時から生涯、私たちの想像を絶するほど多くお苦しみになったことに、注目することだと思います。お心のその超自然的清さ故に、聖マリアは原罪の穢れを持つ他の子供たちや社会の人たちの言うこと為すことに、人知れず苦しみ悩んでおられたのではないでしょうか。なぜそんなことをするのか、なぜそんな言い方をするのか、などと。生来罪の穢れに慣れている私たちの心とは、感じ方が大きく違っていてお苦しみになることが多かったのではないか、と思われます。

   聖マリアは、子供の時から頻繁に体験したその苦しみ故に、ひたすら神の助けを祈り求めつつ生活するようになり、ご自身のその苦しみをそっと神に捧げて、人々の救いや仕合わせのためにも祈っていたと察せられます。神は聖マリアに、子供の時から人類の救いのためこのようにして苦しみ祈る生き方をさせておられたのだと思います。そして聖マリアも、その苦しみ祈る生き方を介して、やがてご自身を「神の婢」と思うようにもなられたのではないでしょうか。天使から全く思いがけないお告げを受け、その説明をしてもらった後にすぐ、「私は主の婢です」というお言葉を口にされたのは、日頃その精神で生活しておられたからだと思います。そして救い主イエスも、生来の無原罪のため同様に子供の時から生涯お苦しみになられたのではないでしょうか。神の御子はその絶えざる御苦しみを、この罪の世に派遣された最初の瞬間から天の御父に捧げつつ、「ご覧下さい。私は御旨を行うために来ました」と申し上げたのだと思われます。

   本日の福音は、天使のお告げを受けた聖マリアが、ザカリアの妻エリザベトを訪問した時の話ですが、ナザレから徒歩で数日かかるザカリアの家までの旅は、以前にもここで説明したように、大胆な女の一人旅であったと思われます。当時のユダヤ社会の状況を考慮しますと、それは不安も危険も大きい旅であったと思います。しかし聖マリアは、神の御子を宿しているなら神ご自身が護って下さるという信頼の内に、ひたすら御胎内の神の御子に祈りつつ、この危険な旅をなさったのではないでしょうか。天使が最後に付言した、親戚のエリザベト、産まず女と呼ばれて軽視されていた老齢のエリザベトが、男の子を奇跡的に懐妊しているという知らせも、マリアの心を照らす一条の光となったいたと思われます。もし自分がそのエリザベトを訪問し、既に六ヶ月になっているという胎児を宿して、生活の世話を必要としているその老婦人が出産するまでの生活を手伝い、産み落としたその子が男の子であるのを確認すれば、それは天使のお告げが神よりのものであるという証拠になり、ヨゼフを説得する道がそこから開けて来ると思われるからです。天使は自分にそのことを確認させるために、エリザベトの懐妊を知らせてくれたのではないか、とお考えになったのだと思います。

   こうして無事ザカリアの家に辿り着いた時、聖マリアは安堵の喜びと神に対する感謝の内に、感動に満ちた挨拶の言葉を発したのだと思います。それは通常の儀礼的挨拶とは異なり、神の霊と力に満ちた挨拶になっていたのではないでしょうか。果たしてその声を聞いたエリザベトの内にも、既に六カ月を越えていた胎児が聖霊に満たされて大きく踊り、エリザベトも聖霊と喜びに満たされて戸口に現われ、女預言者のように声高らかに話し始めました。こんなことは、事細かに旧約時代の掟を遵守していた以前のエリザベトには、長年全く見られなかったことだったと思われます。彼女の内にも既に新約時代の新しい信仰生活、すなわち不動の文字で認められている掟や規則の順守中心の生活ではなく、何よりも自分の体内、自分の日常生活の中でお働きになる神の御旨に注目し、その御旨に従って生きようとする預言者的信仰生活が始まっていたのではないでしょうか。


   現代は世界的に大変動の時代を迎えていますが、一般社会だけではなくカトリック教会も司祭・修道者の激減という深刻な危機に直面しています。このような大変動の時代には、私たちも聖母マリアや聖エリザベトの模範に倣って、自分が今体験している日々の小さな出来事の中から、神の新しい働きや呼びかけを学び取りつつ、画一的規則的になり勝ちであったこれまでとは少し違う、もっと自由で流動的な新しい愛と従順の信仰生活を、神目指して営むべきなのではないでしょうか。そのための照らしや導きを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。

2015年12月13日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第3主日(三ケ日)


第1朗読 ゼファニヤ書 3章14~17節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 3章10~18節

   本日のミサは昔から「喜びのミサ」と呼ばれて来ました。入祭唱に「喜べ」という言葉が二回も重ねて登場し、第一朗読にも第二朗読にも「喜び叫べ」「喜び躍れ」「喜びなさい」などの言葉が何回も言われているからです。いったい神は、なぜ「喜べ」と言われるのでしょうか。またなぜ「恐れるな」と言われるのでしょうか。第一朗読はその理由を「イスラエルの王なる主がお前の中におられる」から、「主なる神がお前のただ中におられて、勝利を与えられる」からなどと説明し、第二朗読も「主が近くにおられる」からと説いています。しかし、主なる神は単に近くにおられる、あるいは私たちのただ中におられるだけではないのです。第一朗読の末尾には、「主はお前のゆえに喜び楽しみ」「お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」という言葉も読まれます。私たちに対する大きな愛ゆえに喜んでおられるその神と共に喜ぶよう、神が私たちを招いておられるのではないでしょうか。神が私たちの中におられて愛の眼差しを注いでおられる、私たちを救おう助けようと見つめておられるのだと、信じましょう。そのように信じ、その信仰に堅く立ってこそ初めて、私たちの恐れや思い煩いが全て消えて行くと思います。そして神と共に日々喜んで生きる時に、神の恵みも私たちの内に働き易くなると信じます。

   「愛する」とは、「見つめること」だと思います。神は隠れておられても、私たちをじーっと見つめておられるのです。私たちもそれに応えて、時々その神に信仰の眼を向けるよう心がけましょう。何も見ず何も言わなくてもよいのです。ただ静かに神に感謝と愛の心の眼を注いでいますと、神の霊が私たちの中に働いて、心の奥に深い喜びと安心感を与えて下さいます。日々の黙想の時など、目をつむって神の愛の視線を体の肌で感ずるように心がけましょう。乳飲み児のように素直な心で。そして目には見えないその神の御心に私たちの感謝と愛の心を向けながら、静かに神と共に留まるようにしてみましょう。日々このようなことを続けていますと、不思議に神が私に伴っておられて私を護り導いて下さるのを、小刻みながら幾度も体験するようになります。そしてその小さな体験が積み重なると、私たちの心の中に神に対する感謝と愛が深まってくるのを覚えるようになります。神の霊が私の心の内に、働いて下さるのだと思います。

   神言神学院の一番高い個室の一つに住んでいて、歳をとり毎晩夜中過ぎに、あるいは夜の2時頃にトイレに行くのが習慣になった私は、自室のすぐ横にあるベランダで星空を眺めて祈る習慣も身につけました。秋の後半にはその時間帯に、冬の夜空に輝くオリオン星座の大きな三角形や三つ星などが既に現れており、待降節の日の出前に東の空に輝く「明けの星」金星も、十月の夜の2時頃には既に東から昇って話しかけています。それでいつの頃からか、夜空を仰いで聖母マリアに祈る習慣も私の身についてしまいました。

   金星は夏には「宵の明星」となりますが、金星だけではなく、私はむしろ月を眺めて聖母に祈っています。そこで、本日は少し月について考えてみましょう。米国の天文学者カミンズ博士の『もしも月がなかったら』という著作によりますと、もし月の引力がないなら、地球の自転は非常に速くなり、一日は三分の一に短縮されて8時間程になるそうです。そして自転が速いと、地上には猛烈な風が吹き続け、台風ともなれば秒速80mの風になるそうです。地上の生き物たちの生活も騒々しくなり、花はのんびりと咲いておらず、鳥の囀りも猛々しくなるかも知れません。いやそれどころか、植物も動物も今とは全く違う進化を遂げて生きるために真剣になっており、みな美しさや落ち着きのない存在になり、人類もせっかちで、甲高い大声で話す人ばかりになっているかも知れません。それを思いますと、現実の私たちの生活環境が太陽と月の引力によって程良く美しく整えられ、保たれていることに大きな感謝を覚えます。太陽はよく主キリストのシンボル、月は聖母マリアのシンボルとされていますが、私たち人類の精神生活も、死ぬことのない復活体によみがえられて、あの世から人知れず黙々と全人類を見守り、静かに助け導いておられるこのお二人の方からの恵みに負うところが絶大なのではないでしょうか。全能の父なる神は、あの世から絶えずこの世の人類の生活を見守り、その救いのために尽力しておられるこのお二人に、私たちの想像を絶する大きな霊的引力をお与えになっておられるのではないでしょうか。私は主のご聖体や夜の月を眺める時などに、神がこのお二人に与えておられる霊的引力の大きさを、太陽と月の引力の大きさに譬えて想像したり、その霊的引力は日々神に感謝し、神を讃える心で喜んで生きている人たちの内に大きく働くのではないか、と考えたりしています。クリスマス・新年を迎えるに当たり、お二人の絶えざる支え・導きと御保護に対する感謝の念を新たにし、これからもこの信仰と感謝の内に生きる心を表明致しましょう。

   本日の福音は、民衆や徴税人・兵士たちの質問や思惑に対する洗礼者ヨハネの返答と申してよいと思います。ヨハネの力強い呼びかけや、悔い改めの洗礼を見聞きした群衆は、いよいよファリサイ派の宗教教育で教わったメシア到来の時が来た、と思ったことでしょう。そこである人たちは、社会改革やユダヤ独立のため自分たちは何をしたらよいか、と尋ねたのだと思います。ヨハネはそれに対して、貧しい者たち、困っている者たちに下着や食べ物を分けてやるように勧め、徴税人や兵士たちにも同様、規定以上のものを取り立てないように、自分の給料で満足するようになどと、今置かれている地位や職業の中で実践すべき、ごく平凡な兄弟愛の勧めを与えただけでした。群衆は少し拍子抜けしたかも知れません。主キリストも同様に、何かの新しい社会活動や政治活動などではなく、例えば金持ちの青年には、子供の時から教わっている掟の遵守や貧しい人々への施しを勧めるなど、既にユダヤ教で子供の時から教わっている、外的には少し平凡に見える掟の遵守と愛の実践を勧めておられます。主は一度「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返せ」とおっしゃいましたが、これはローマ皇帝に対抗するこの世的政治社会活動よりも、私たちの平凡な日常生活の中に隠れて現存し、全てを観ておられる神の導き・働きに従う生き方を優先したお言葉であると思います。新約のメシア時代には、自分の置かれている所で神に心の眼を向けながら、小さな愛の実践に生きること、日ごろの私的生活を厳しく律することに努めるなら、そこに主の愛の霊が働いて、その人をも周辺の社会をも変革し、神による救いへと導いて下さるというのが、聖書の教えなのではないでしょうか。私たちの心は神に眼を向け、神の霊をそのような小さな実践によって自分の内に迎え入れることにより清められるのです。それが、待降節に当たって神から私たちに求められている、改心・悔い改めだと思います。


   本日の福音の中で洗礼者ヨハネは皆に、「私よりも優れた方が来られる」と話していますが、ここで「優れた」と邦訳されているイスキューロスというギリシャ語原文の言葉は、「力強い」「激しい」という意味合いの言葉です。ヨハネはここで水で洗礼を授け、神の働きに従って生きるため各人の心の目覚めと人間的決心を促していますが、メシアが始められる新約時代の洗礼は、ヨハネの洗礼とは違って神の聖霊と火による洗礼であり、人間の望みや努力が主導権を取って神の恵みを利用し強くなるのではなく、そういう人間中心の主導権が消えることのない神の愛の火で焼き払われ、神の聖霊が主導権をとって私たちの心を神の神殿として下さるような洗礼なのです。洗礼者ヨハネはそのことをはっきりと認識し予告しているのです。私たちの魂は皆この洗礼を受けて神の神殿となっているのですが、まだそのことを十分に自覚していないのではないでしょうか。救い主から受けたこの大きな恵みに感謝しつつ、終末の日にその主を少しでも相応しくお迎えできるよう、神への愛と信仰の精神で日頃の平凡な生活を整え、自分の心を厳しく律する実践に努めましょう。そしてそういう信仰実践のための照らしと力とを、今の世に苦しんでいる多くの人々のためにも、本日のミサ聖祭の中で祈り求めましょう。

2015年12月6日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第2主日(三ケ日)

第1朗読 バルク書 5章1~9節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章4~6、8~11節
福音朗読 ルカによる福音書 3章1~6節

   本日の第一朗読は、長年エレミヤ預言者の書記として働き、エレミヤ書の殆どを書き残したバルクが、バビロン捕囚が始まって5年目のBC593年にその捕囚の地で書いた書簡のからの引用であります。ユダ王国が北の大国バビロニアに反抗しないようにと説き続けて来たエレミヤは、バビロニア軍によってエルサレムが包囲攻略された後、ネブカドネツァル王の招きを断ってエルサレムに留まり、この王によって属国とされたユダ国のゼデキヤ王の下で、エルサレムの信仰生活がどのように変わるかを見届けようとしたのか、バビロンには行きませんでした。エルサレムに留まって何をしたかは不明ですが、エルサレムのその後の状況を捕囚の民に知らせるようなパイプ役をしていたのかも知れません。エゼキエル書などからも知られるように、以前にエルサレムの支配層に属していた人たちと、その協力者たちの殆どが捕囚の民となった後に、ゼデキヤ王の下で新しく支配層となった人たちの生活は、以前よりもっと酷く神の怒りを招くものとなり、最後にエジプト王に頼ってバビロニアから自由に成ろうとしたエルサレムは、遂にネブカドネツァル王によって徹底的に破壊され、廃虚とされてしまいました。捕囚の地にいたエゼキエル預言者は、そのエルサレムの人たちに真の神信仰に立ち帰るよう強く呼びかけていますが、バルク書も、同じくエルサレムの人たちに悔い改めを勧めたり、神の知恵を讃美したりした長文の書簡であります。その最後の部分が、本日の第一朗読であります。「エルサレムよ、立ち上がれ。高い山に立って東の方に目を向けよ」などと、真の神の声に従う明るい希望と信仰の内に生きるよう呼びかけていますが、残念ながらこの呼びかけはエルサレムの新しい支配層によって無視され、エルサレムの都はBC587年にバビロニア軍の激しい攻撃で破壊され、瓦礫の廃虚とされてしまいました。
   福音の始めに登場するローマ皇帝ティベリウスは、紀元12年に高齢のアウグストゥスと共同支配の皇帝とされたので、この年がティベリウス治世の第1年とされています。従って、その治世の第15年は紀元26年になりますが、紀元14年夏にアウグストゥスが没すると、いろいろな勢力の言い分が複雑に絡み合って混迷の度を深めつつあった、当時の多様化した政治に嫌気がさし、自分の親衛隊長であったセヤーヌスに政治を任せて、自分はナポリに近いカプリ島に退き、何年間も静養を続けていました。このセヤーヌスはユダヤ人が大嫌いで、紀元6年から14年まではユダヤ人の気を害さないようにしながら統治していたローマのユダヤ総督3人の伝統を変えさせ、15年からはユダヤ人指導層に強い弾圧を加えさせました。それで紀元5年から終身の大祭司になっていたアンナスは15年に辞めさせられて、アンナスの5人の息子が次々と大祭司になりましたが、彼らも次々と辞めさせられ、18年にはアンナスの娘婿カイアファが大祭司になって、何とか第四代ローマ総督Valerius Gratusの了承を取り付けました。しかしユダヤ人たちは、律法の規定によりアンナスを終身の大司祭と信じていましたから、表向きの大祭司カイアファの下で、アンナスも大祭司としてその権限を行使していました。これは、それまでには一度もなかった異常事態でしたが、ヘロデ大王の時には一つに纏まっていたユダヤの政治権力も分裂して、本日の福音に読まれるように、複雑な様相を呈していました。第五代ローマ総督Pontius Piratusが紀元26年に就任した時は、そういうユダヤの政治的分裂と衰退の色が静かに深まりつつあった時代の大きな変わり目の時だったのです。
   私たちの生きている現代世界も、ある意味では似ているような異常事態を呈しているのではないでしょうか。価値観の多様化と複雑さの中で、家庭でも社会でも共同体が内部から崩壊し始め、各人ばらばらに生活する個人主義が広まっていますし、貧富の格差も拡大しつつあります。日本の厚生労働省の発表によりますと、わが国で貧窮のため生活保護を受給している人は、2000年には107万人でしたが、今年の1月には209万人に増え、過去最多を更新しています。生活保護の申請理由も、失業や倒産など長引く経済の低迷に起因しており、目立つのは、20歳から50歳までの働き盛りの年齢層が生活保護を受給していることです。この世代の人たちの受給は、12年前には18万人でしたが、今は30数万人になっています。生活保護の支給総額も3兆円を大きく超えているそうです。生活保護を申請しても待たされている人や、十分に受けられずに苦しんでいる人たちも多いのではないでしょうか。一人暮らしのお年寄りが自宅で死んでいたという例は、これまでにも多くありましたが、今年になってからは、家族と一緒に病死したり餓死したりする事例が増えているそうです。高齢の親を支える働き盛りの子供が困窮し、親と共倒れになるのだと思います。世界有数の経済大国と言われる日本ですが、政治も何も様々な小グループに分裂して、莫大な借金を年々増やしながら将来を模索している状態や、社会的犯罪の激増など考慮しますと、多くの人はまだこれまでの豊かさと便利さの中で暮らしてはいますが、これからの日本の政治や社会に明るい夢や希望を抱くことが出来ずにいると思われます。
   救い主が世に出て活躍なさる直前頃の豊かになっていたユダヤ社会も、ローマ帝国との精神的対立や、政治権力の分裂、社会道徳の乱れなどで、自然的人間的には、将来の世界やユダヤ社会にはもう明るい夢や希望を抱くことができないような、不安な社会状態に置かれていたと思われます。神の言葉が荒れ野のエッセネ派の所で成長し修行を積んでいた洗礼者ヨハネの心に降ったのは、ユダヤ社会がそのような不安な雰囲気に覆われていた時なのです。ルカは、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」とイザヤ書にある預言を引用して、洗礼者ヨハネの活動を描写していますが、この預言の続きは、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。云々」と、その神の声がもたらす結果が受動形で述べられています。これは聖書によく見られる「神的受動形」と言われるもので、神を口にするのが畏れ多いので、神の働きやその結果を受動形で表現しているのだと思います。従って、谷を埋め、山を低くし、道をまっすぐにするのは、皆神ご自身のなさる救いの業であると思われます。ヨハネは、全ての人が神の新しい働きによる救いを仰ぎ見る時代の到来したことを、告げたのだと思います。

   メシアの出現を待望していた民衆の多くは、そのヨハネの所にやって来てその説教を聞き、神の新しい導きや働きに従って生きるために、悔い改めの洗礼を受けたようですが、ユダヤ人社会の宗教的政治的な実権を握っていた支配層の人たちとそれに従う人たちは、自分たちの人間的な願望や見解を中心にして、洗礼者ヨハネの呼びかけと民衆の動きを監視するだけで、積極的に神の新しい呼びかけをたずね求めよう、それに従って生きようとはしませんでした。神の権利や働きを後回しにするその人たちのわが党主義的態度は、ヨハネの後でメシアが現れ、活躍し始めても変わりませんでした。そして遂には、自分たちの支配するユダヤ社会を危険に曝す人物として、メシアに死刑を宣告する程にまで落ち込んで行きました。今の世界の指導者たちや日本の指導者たちも、ある意味で神から一つの選択を求められているのではないでしょうか。現代の私たちは、ますます低迷し続けるこの世の政治経済的問題にだけ没頭するのではなく、それを乗り越えて神にまで視野を広げ、神の愛による国民の精神的刷新・若返りを目指すところにまでも真剣に取り組むべきなのではないでしょうか。今の時代の深刻な問題の解決は、神からの新しい導き・助けに真剣に従うことなしに、人間の力だけでは実現し難いと思います。今の日本と世界の指導者たちのため、神からの照らしと導きとを願い求めて、本日のミサ聖祭を捧げましょう。

2015年11月22日日曜日

説教集B2012年:2012年の王であるキリスト(三ケ日)

第1朗読 ダニエル書 7章13~14節
第2朗読 ヨハネの黙示録 1章5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節


   いよいよ秋の暮、人生の終りやこの世の終末の時などを偲びつつ、覚悟を固めるに相応しい季節になりました。平安前期の紀貫之の従兄弟で歌人の紀友則には、この世の悲哀感を慎ましやかに詠っているものが幾つもありますが、その歌の一つに「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」と、晩秋の風のもの寂しさを「色なきもの」と表現しているのは、注目に値します。この罪の世の事物は全て、その根底において無色で冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風は、そのことを私たちの心に思い知らせるために吹くのかも知れません。私たちの心の奥底にも、そのような無色透明で孤独な「無」あるいは「空」と呼んでもよいような、小さな虚無の世界が潜んでいるのではないでしょうか。私たちが時として感ずる侘びや寂びの美しい心情は、心の底のその「無」の世界から産まれ出るのかも知れません。

   この世の仕事が思い通りに運ばずに失敗したような時や、自分の愛情が相手によく理解されずに人に捨てられたように覚える時、あるいは病気が進んで死が間近に迫って来たような時、人は心の底のその虚無を、挫折感や喪失感あるいは悲痛や恐れとして痛感させられますが、しかしそれは、私たちの心が神に生かされて生きるという人間本来の生き方を見失って自分中心に生きる時に、その心の眼に空しいものとして映る虚無であって、人間の心をそのようなものとしてお創りになった神の側に立って観れば、その「無」あるいは「空」の場こそ、愛の神が私たちの心を神の力によって浄化し、神の御旨中心の新しい生き方をさせるために働いて下さる場なのではないでしょうか。心がこの世の儚さ・侘びしさや、自分の働きや人生の空しさを痛感する時、すぐに神に心の眼を向けるように努めましょう。神はその時、私たちの心の奥底にそっと伴っておられ、私たちが心からひたすらに神に縋り、神の愛に生かされようとするのを、静かに待っておられるのですから。

   預言者ダニエルが夜に見た夢・幻の啓示である本日の第一朗読では、天の雲に乗って現われた「人の子」のようなもの (すなわち主キリスト) が、「日の老いたる者」(すなわち永遠の昔から存在しておられる神) の御前に進み出て、「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と宣言されており、第二朗読では、「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」という、黙示録1章の始めを飾る挨拶の言葉が読まれます。ここで「地上の王たち」とあるのは、この世の社会の為政者たちのことではなく、主キリストを王と崇める人たち皆を指していると思います。この言葉にすぐ続いて、「私たちを愛し、ご自分の血によって罪から解放して下さった方に、私たちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司として下さった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」という祈りがあるからです。主キリストは、神からご自身のお受けになった永遠の王権と祭司職に、罪から清められ救われた私たちをも参与させ、被造物の浄化救済に協力させて下さるのだと思います。私たちは外的この世的には真に弱く儚い存在ですが、洗礼を受けて主キリストの御命に参与し、主キリストの御体の細胞の一つとなって生きるよう召されているのですから、その意味では既に主の永遠の王権にも参与し、日々出遭うこの世の全てのものを、神の力によって神に従わせ、神へと導く王である主キリストの使命にも参与していると思います。

   しかし、主キリストの王権は、過ぎ行くこの世の社会の支配権とは次元の異なる心の世界のもの、永遠に続くあの世の超自然世界のものであります。私たちが生来持っている自然理性は、この世の自然界や人間社会での限られた体験や経験に基づいて、自然法則や何か不動の恒久的原理などを作り上げ、それを基盤にして全ての事物現象を理解したり批判したりしますが、人間理性が主導権を握っているそういう考えや原則などは、宇宙万物の創造主であられる全知全能の不可思議な神が主導権を握っておられる、永遠に続くあの世の真実の世界、いわゆる「超自然の世界」には通用しないもの、刻々と過ぎ行くこの儚い仮の世での非常に限られた狭い経験に基づいて、視野の狭い人間たちの作り上げた仮のものでしかありません。あの世の超自然界では、何よりも神の御旨に従う徹底的従順と、神の霊に照らされ導かれて、聖書も日々出逢う事物現象も正しく深く洞察する、霊魂の知性との二つが重視されていると思います。2千年前に神の御子主イエスは、その生き方を私たち人類の歴史の中で身を持ってはっきりとお示しになっています。

   87年前の19251211日に回勅”Quas primas”を発布して、「王たるキリスト」の祝日を制定なさった教皇ピオ11世は、主キリストを各人の心の王と崇めつつ、その御模範に倣って生活するのが、第一次世界大戦によってそれまで皇帝家あるいは王家として君臨していた伝統的権威が全て次々と失われ、民衆の数の力に根ざす強い者勝ちの民主主義や共産主義が世界的に広まり始め、社会的権威の下での団結心や従順心が失われつつある時代に、神から豊かな恵みを受ける道、人類社会を正しく発展させる道であると確信して、この祝日を制定なさったのだと思います。本日の福音には、裁判席のローマ総督ピラトの「お前はユダヤ人の王なのか」という質問に、主は厳かに、「私の王国は、この世のものではない。云々」と宣言なさいます。そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と尋ねますと、主は「私が王だとは、あなたが言っています」という、以前にもここで説明したことのあるあいまいな返事をなさいます。それは、ご自身が王であることを否定せずに、ただあなたが言う意味での王ではないことを示すような時に使う、特殊な言い方だったようです。その上で主は、「私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」と話されて、ご自身が真理を証しするために、あの世からこの世に来た王であることを宣言なさいます。

   ピラトにはこの言葉の意味を理解できませんでしたが、それまでの伝統的社会道徳が急速な国際貿易発展の煽りを受けて拘束力を失いかけていたキリスト時代に似て、それまでの伝統的価値観が権威も力も失ない、地震の時の液状化のようにして、労働階級から共産主義の水が湧き出した87年前頃のヨーロッパでは、権威をもって心の真理を証しするあの世の王を基盤とする新しい明るい信仰に生きることは、多くの人の心に新たな希望と生きがいを与えるものであったと思われます。事実、王であるキリストの祝日が祝われ始めた1920年代、30年代には、民間の非常に多くの欧米人が主キリストを自分の心の王として崇めつつ、各種の信仰運動を盛んにし、無宗教の共産主義に対抗する新たな社会の建設を推し進めたばかりでなく、カトリック界では、統計的に最も多くの修道者や宣教師を輩出させています。主キリストの神秘体に組み込まれ、その普遍的祭司職や王権に参与している現代の私たちキリスト者も、今の世の個人主義や自由主義の流れの中で、主のようにもっと雄々しく神の権威に従う威厳を示しながら、大胆に生き抜きましょう。


   21世紀の現代には、極度の豊かさと便利さの中で自分の心の欲情統制もできないひ弱な人間や、外から注がれるマスコミ情報に操られ、枯葉や浮き草のように、風のまにまに右へ左へと踊らされたり吹き寄せられたりしている人間が増え、いじめや家庭内不和などに悩まされ、自暴自棄になったり自殺に走ったりする人も多いようです。真に悲しいことですが、その根本原因は、心に自分の従うべき超越的権威者、あの世の王キリストを捧持していないことにあると思われます。聖母マリアは「私は主の婢です」と申して、ご自分の内に宿られた神の御子を心の主と仰ぎ、日々その主と堅く結ばれて生きるように心がけておられたと思います。ここに、救われる人類のモデル、神の恵みに生かされ導かれて、不安の渦巻く時代潮流に打ち克ち、逞しく仕合せに生き抜く秘訣があると思います。一人でも多くの人がその秘訣を体得するに至るよう、特に心の光と力の欠如に悩んでいる人々のため、王である主キリストの導きと助けの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2015年11月15日日曜日

説教集B2012年:2012年間第33主日(三ケ日)

第1朗読 ダニエル書 12章1~3節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章11~14、18節
福音朗読 マルコによる福音書 13章24~32節


   本日の第一朗読の出典であるダニエル書の最後10章から12章までは、ユダヤ人たちをバビロン捕囚から解放したペルシア王キュロスの治世第3年、即ちBC 557年に、ダニエル預言者が受けた終りの時についての長い恐ろしい幻示を伝えています。第一朗読は、その12章の始めに語られている、神の民に慰めと希望を与えるような美しい韻文であります。「その時、大天使長ミカエルが立つ」「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、云々」とある言葉から察しますと、これはこの世の終りの時の事を述べている啓示だと思います。マタイ、マルコ、ルカのどの福音書でも、主イエスは紀元70年に起こったエルサレムの滅亡について予告なされた時に、すぐ続けてこの世の終りについても予告しておられます。もしエルサレムの滅亡がこの世の終りを小型の規模で示しているモデルであるとするならば、現代世界はそろそろ世の終りの時を目前にしていると思われます。

   エルサレムの滅亡を数十年後にしていた主キリストの時代に、神の御摂理はエルサレムの都をソロモン時代の時のように、いや恐らくはそれ以上に経済的に豊かにし発展させました。ヘロデ大王がギリシャ人の天才的建設師ニカノールを招致して、BC20年からエルサレム神殿とソロモン回廊を、美しいギリシャ大理石をふんだんに使ってそれまでのどこの国にもない程に美しく建設させると、当時の世界各国から、中国・インドに出入りする国際商人たちもシルクロードを通ってエルサレムに来るようになり、エルサレムの町はその人たちの神殿献金や滞在費などで、一時的にはかつてない程に豊かになっていたと思われます。しかし同時に、民衆の宗教教育を担当していたファリサイ派の人たちは、貧しさ故に彼らの宗教教育に出席せず神殿礼拝にも参加できない貧者や羊飼いたちを、神から忌み嫌われている人々として社会的に退け、救いを必要としている病人・罪人を救おうとしておられた救い主をも、発展しつつあるユダヤ社会の将来に不幸を齎す人物として断罪していました。

   現代科学の発達で人類史上未だかつてなかった程の豊かさ・便利さの中で生活しながら、全てをこの世の人間中心の判断基準で実証主義的に評価し、全世界の創造主・所有主であられる神の御旨には少しも従おうとしていない現代人たちも、2千年前のファリサイ派の人々と同様の価値観で貧しさを軽視し、外的豊かさだけを追い求めて生活しているのではないでしょうか。その生活態度の陰には毎年非常に多くの罪が犯されて、無数の胎児が殺害されたり、盗みや詐欺事件が横行したりしています。察するに、家族や社会の共同体構成員が相互に助け合って生活していた、これまでの時代に比べると、比較にならない程数多くの犯罪が、世界的規模に広がっている現代の自由主義文明社会の中で犯されているのではないでしょうか。メシアを十字架刑にした後のユダヤ社会もエルサレム滅亡の少し前頃には、悪霊たちによると思われる新しい犯罪の多発に悩まされたようですが、世の終わり前の人類社会ではそれとは比較できない程多く、これまでの社会にないような犯罪が多発するのではないでしょうか。日々あの世の助けを願い求めつつ、神の僕・婢として苦難に堪えて正しく生き抜きましょう。そうすれば悪霊たちから護られ、第一朗読にあるように「大空の光のように輝き、多くの人の救いとなる」ことができます。

   本日の福音の中で主は、「いちじくの木から教えを学びなさい。云々」「あなた方は、これらの事が起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と命じておられます。マタイ16章の始めには、「天からの徴を見せてもらいたい」と願ったファリサイ派とサドカイ派の人々に対して、主が「あなた方は空模様を見分けることを知っているのに、どうして時の徴を見分けることができないのか」と詰問なされた話が記されています。そしてその後で弟子たちには、「ファリサイ派やサドカイ派の人々のパン種に警戒しなさい」と命じておられます。これらのことも一緒に心に銘記して、今の時の徴を正しく見分けるように心がけましょう。これは、主のご命令です。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、旧約聖書あるいはモーセ五書の教えは細かい所までよく知っていました。しかし、人間の言葉で書かれているその教えや掟だけに心を向けて生活し、それらを書かせた神を遠い昔にお働き下さった存在、今は遠く離れた天上からこの世を見下ろし、主の掟を忠実に守る人には恵みを、守らない人には罰をお与えになる全知全能の存在と考えていたようです。その神から派遣された神の子メシアが、父なる神と共にすぐ目の前におられるのに、神のこの現存は少しも感知していませんでした。私たちにとって一番大切な信仰の能力は、眠らせたままにしていたのでした。これが、彼らに道を誤らせてメシアを十字架刑に処し、エルサレム滅亡という恐ろしい不幸に陥れたのだと思います。


   今の私たちは、神の身近な現存に対する能力を日々磨いているでしょうか。主は、終末現象が多発し始めている現代社会に生きる私たちには特別に、「これらの事が起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちが毎日目撃している自然界や隣人の内に、特に日々何らかの形で見聞きする貧しい人、助けを必要としている人の内に、主キリストの現存を信仰をもって感知し、祈りや態度でその主に奉仕する実践に努めましょう。日ごろこのような信仰実践に心がけていますと、次第に今の時を正しく見分ける魂の能力も、聖霊の働きによって磨かれて来ます。私は個人的に、悪霊の接近や働きに対する魂の予感能力も鋭くなって、神の助けを祈り求めることにより受ける災いを回避したり、削減したりすることができるのではないか、と信じています。いずれにしろ、これからの時代には小さな信仰実践を数多く繰り返すことによって、あの世の神との魂の絆を太くし強めることが、何よりも大切だと思います。

2015年11月8日日曜日

説教集B2012年:2012年間第32主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 17章10~16節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節
福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節

   本日の第一朗読の出典である列王記は、ダビデ王の晩年からバビロニアに滅ぼされたユダ王国の最後の王までの出来事を扱っていますが、そこには預言者ナタンをはじめ、エリヤ、エリシャなどの優れた預言者たちの活躍も多く扱われていますので、聖書の中では前期預言書の部類に入れられています。本日の朗読箇所である列王記上の17章は、シドン人の王女イゼベルを妻に迎えた北イスラエルのアハブ王が、サマリアにバアルの神殿を建設して異国の神々に仕えるようになったので、お怒りになった主なる神がエリヤを介して、アハブ王に「数年の間、露も降りず雨も降らないであろう」と天罰を告げるところから始まっています。そして主はエリヤに、「ここを去って東に向かい、ヨルダンの東にあるケリト川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私は烏たちに命じて、そこであなたを養わせる」とお命じになりました。そのケリト川がどこにあったのか、今日では分からないそうですが、察するに、人里から遠く離れた山奥の小さな谷川であったかも知れません。

   国王や世間の人々の目を逃れて身を隠すには絶好の隠れ場でしょうが、しかしこれから干ばつが始まり、農作物も木々も実を結ばなくなるというのに、食物の蓄えが全くないそんな所で生きて行けるのでしょうか。エリヤの心は不安を覚えたと思います。しかし、全能の主に対する信仰と従順の故に、その不安を主に委ねてそこに身を隠しました。すると不思議な事に、その隠れ家に数羽の烏が朝晩パンと肉を運んで来ました。エリヤはそれを食べ、その川の水を飲んで生活していました。しかし、しばらくするとその川の水も涸れてしまいました。雨がヨルダンの東の地方にも全然降らなくなったからでした。すると主の御言葉がエリヤに臨み、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」と命じました。そのお言葉の続きが、本日の第一朗読であります。エリヤは立ってサレプタに行きました。アハブ王の罪故に下された天罰、大干ばつは、アハブ王の支配下でない隣国のフェニキア地方にまで及んでいたようで、そこでも人々は干ばつによる食糧不足に苦しんでいました。

   やもめは、聖書の中では孤児や寄留者と共に貧しい人、弱い人の代表のようにされています。聖書の時代には、女性の社会的権利が低く抑えられていましたので、男性の保護を欠くやもめたちは、一般に財産の蓄えもなく、貧困と戦いながら生活を営むことが多かったと思われます。社会全体が飢饉に苦しむような時には、その苦しみは極度に達したと思います。そのようなやもめの一人に預言者エリヤは派遣されました。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません」という返事から察しますと、聖書の教えやおきてのことは何も知らなくても、彼女は世界万物の創り主であられる神の存在や働きに対する信仰は持っていたと思います。その彼女が全てをエリヤの言葉通りに為しますと、「彼女もエリヤも、彼女の家の者も」食物に事欠くことがなくなりました。主の御言葉に完全に従いつつ生きる預言者を通して、全能の神が貧しい人たちの所でこのような大きな奇跡をなさったからだと思います。現代においても同じ神は、信仰と博愛の内に敬虔に生きる貧しい人、弱い人たちを特別にお心にかけて、助け導いて下さると信じます。その神の愛と憐れみに感謝しながら、私たちも現代の貧しい人、弱い人たちのため、希望をもって神に助けと導きを願い求めるよう心がけましょう。

   ご存じのように、今年は107日から28日までバチカンで、「新しい福音宣教」をテーマに第13回通常シノドス(世界代表司教会議)が開催され、26日に「神の民へのメッセージ」を採択し、28日に閉会ミサを挙行しました。3週間にわたるこのシノドスには、260人以上の司教や修道会・宣教会総長らが出席し、公式オブザーバーや学識経験者たちも数十人参加したと聞いています。カトリック教会が世俗化の進む現代社会に信仰を広めるため、また教会の再活性化のために、深刻な危機感を抱えながら討議したシノドスであったと思います。26日に採択された「神の民へのメッセージ」は、イタリア語をはじめ五カ国語で読み上げられ、参加司教たちの拍手で迎えられたそうですが、その要旨はバチカン放送によって全世界に伝えられています。その中で、神の民がヨハネ福音書に登場する「サマリアの女」に譬えられ、「イエスに出遭う者は救いと希望の知らせの証し人とならざるを得ない。しかしながら、福音を告げるには、自分自身が福音化され、回心していることが大切である。云々」と述べられていることは、私の注目を引きました。教皇は今年1021日「世界宣教の日」のメッセージの後半でも、ヤコブの井戸で主キリストに遭い、話し合ったサマリアの女についてかなり詳しく考察しておられるからです。

   本日の朗読に登場する異邦人の町サレプタに住む貧しいやもめも、ヨハネ福音書に登場するこのサマリアの女も、キリスト教信仰の教理については殆ど何も知らない無学な女であったと思われます。しかし、ユダヤ人の信ずる全世界の創り主であられる神については多少なりとも聞き知っていて、その存在と力を信じていたのではないでしょうか。その神が預言者を介してお語りになり、苦しむ人々を助け導かれることも聞き知っていたと思われます。彼女たちはこの信仰を心の奥底に保持し、神の導きや働きに対する心の感覚を失わずにいたために、預言者エリアに、あるいは主キリストに出遭った時、この人は「神よりの人」と受け止め、その命令に従おう、あるいはその人の所に町の人々を呼び集めようと動いたのではないでしょうか。身近な現実世界の中で働かれる神に対する、このような信仰と従順のセンスが、全てを人間理性で合理的に説明しよう、その理性中心に世界を発展させようとしている現代世界の人々に、一番欠けている大切な心がけなのではないでしょうか。この世の知識人たちは、人間理性による聖書解釈や実証主義的現実理解などを何よりも重視していて、長年のその生き方を通して各人の心に形成された、一種の合理主義的原則に基づき全てを判断し勝ちですが、この世の社会で幸せに生活するためにはそれで良いとしても、今の教皇は、一年前にドイツの国賓として招かれてドイツの国会議事堂で話をなさった時、現代人が日々の生活を通して身につけているその実証主義的理性は、宗教とは全く関係ないものと言明しておられます。あの世の神秘な神からの呼びかけや招きを受け止めて、永遠に続くあの世の人生に通用する実を結ぶには、各人の魂の奥に神から与えられているもう一つの知性的能力を、目覚めさせる必要があるのだと思います。神の導きや働きを感知してそれに従おうとする魂の愛の能力を磨き、道を求めて悩む現代人の間にその生き方を広めるのが、今私たちの祝っている「信仰年」の、一つの大切な目的なのではないでしょうか。頭の知識や生活のノーハウだけを重視する、人間中心のこの世的価値観や生き方に、信仰生活や修道生活まで汚染されないよう気をつけましょう。神の御旨中心主義の己を無にした神の僕・神の婢としての信仰感覚と生き方が、「信仰年」に当たって私たちが体得するよう神から求められている心の能力であり、生き方であると信じます。


   長年の現代文明生活の中で全てを人間中心に巧みに利用することに慣れた私たちにとり、己を無にして神の御旨に徹底的に従うことがいかに難しいかは理解できますが、その難しさを復活の主キリストの現存信仰と、聖母マリアの取次によって謙虚に乗り切るように努めましょう。あの世の命に復活し、神のような存在になられた主と聖母は、いつも私たちの身近に現存し、神と共に全てを観ておられます。日々信仰の内に、その主と聖母マリアと共に生活するよう心がけましょう。主は本日の福音の中で「律法学者に気をつけなさい」「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と警告しておられます。神の神秘な導きや働きに対する魂の感覚を眠らせたままにしている、ファリサイ派のパン種には警戒しましょう。それは、私たちの心の中にもたくさん蒔かれています。主は本日の福音の後半に、神殿のさい銭箱にレプトン銅貨2枚を入れた貧しいやもめを、「この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れた」と言って賞賛なさいました。私たちも隠れた所から観ておられるこの主の現存を信じつつ、主に喜ばれるように日々の生活を営むよう、決心を新たにして本日のミサを捧げましょう。

2015年11月1日日曜日

説教集B2012年:2012年間第31主日(三ケ日)

第1朗読 ヨハネの黙示録 7章2~4、9~14節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~3節
福音朗読 マタイによる福音書 5章1~12a節

   本日の第一朗読は、モーセがヨルダン川の東で「乳と蜜の流れる土地」と言われた、神からの約束の地、豊かな国土を目の前にして、イスラエルの民に語った言葉であります。モーセは自分がその土地に入ることができず、モアブの国で遠くからその土地を眺めながら、間もなく死ぬ事を知っていましたので、この言葉を遺言のようにして語ったのだと思います。「イスラエルよ、あなたの神、主を畏れ、私の命じる全ての掟と戒めを守るなら」、「よく聞いて忠実に行う」なら、「あなたは幸いを得て」「長く生きる」、「神・主が約束なされた通り、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」というのが、モーセの話の要旨だと思います。モーセがまず神・主を畏れること、次いで神からの掟と戒めを守ること、そしてよく聞いて忠実に行うことの三つを強調していることは、現代に生きる私たちにとっても大切だと思います。物資や知識や技術が豊かに揃ろっている文明社会に生きる現代人の多くは、子供の時から、何でも自分の望みのままに利用しながら生きようとする生活様式に慣らされていますので、大人になっても、全てを自分中心に考え、自分の望みのまま、好みのままに生きようとし勝ちですが、イスラエルの民を率いて砂漠で40年間も神による心の目覚めと修練を体験させられて来たモーセが、ここで教えている「長く幸せに生きる」ための三つの心がけは、換言すれば、神の御旨中心に神の僕・婢として生きること、と申してもよいと思います。数々の対立抗争や行き詰まりに悩む現代社会の中で幸せに生活する秘訣も、神の御旨中心に神の僕・婢として生きることにある、と言ってよいのではないでしょうか。そのような生き方をなす人の中では、全能の神が主となり、主導権をとって自由にお働き下さるからです。神ご自身が私たちを道具としてお使いになり、各種の対立を解消したり、行き詰まりを打開したりして下さるからです。

   モーセは最後に、これまでに命じた全ての掟と戒めを一言に要約して、「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」と命じています。神に対する全身全霊をあげての愛は、今の私たちには実際上まだ不可能に近いくらい難しいと思われますが、これから世界の終末的様相が深刻化して、日々生きるのがやっとと思われる程の窮乏を体験するようになりましたら、私たち各人の奥底の心が生きるため真剣になりますから、その時にこの命令を想起するよう今から心に銘記していましょう。使徒ヨハネの第一書簡には、「反キリスト」という言葉が4回、「悪魔」という言葉がそれより少し多く登場していますが、「終りの時」にはキリストに反対する「反キリスト」が大勢現れるように記されています。近年マスコミを賑わせている事件の中には、悪霊に執りつかれて衝動的に犯してしまったと思われるものや、悪魔が教えたと思われるような全く新しいやり方や手段が少なくないように見えますが、如何なものでしょうか。これからの社会には、エルサレム滅亡直前頃のユダヤ社会のように、人々の想定を超える思わぬ殺人行為や不詳事件が多発するかも知れません。悪霊が市民の心に執りついて暴れるのなら、人力ではいくら警戒し気をつけていても、災害は避け得ません。人の力に頼ってではなく、何よりも祈りつつあの世の力に助け導かれて生活するように心掛けましょう。

   前教皇福者ヨハネ・パウロ2世は来日した二カ月半ほど後の1981513日に、ヴァチカン広場で狙撃されて危ふくお命を取り留めた直後に、開封させてご自身でお読みになり、2000626日に公開させた「ファティマの第三の秘密」という文書をご存じでしょうか。子供の時、19177月にポルトガルのファティマで聖母から明かされた幻示の第三部を、シスター・ルチアが聖母と司教を通して伝えられた神の命令に従って記した、短い将来予告ですが、それによりますと、天使が右手で地を指しながら、大声で「悔い改め、悔い改め、悔い改め」と叫んだ後、教皇・司教・司祭・修道士・修道女たち、そして大勢の信徒たちが、頂上に大きな十字架が立っている山に登り始め、次々と殉教するという場面の幻示が、ファティマの牧童たちに与えられたようです。将来に対する大きな不安を人々に与えないためでしょうか、教皇庁はこの公開と同時に、ここに示されている事柄は全てこの20世紀に世界各地で発生した過去の出来事の啓示である、と解説しました。しかし私は、ますます多くの悪霊たちが働き始めるこれからの時代にも、信仰に生きる人たちの内的戦いと殉教は、世界的な規模で発生するであろう、と受け止めています。今私たちの祝っている「信仰年」は、そのために各人の信仰心を実践的に堅めるようにと、神がその御摂理によってお与えになった信仰の鍛錬期間なのではないでしょうか。

   少なくとも私はそのように受け止め、この信仰年においては特に小さな清貧の実践に心がけています。現代文明の世界に生まれ育った日本人たちは、水や食料や電力やその他のエネルギーを贅沢に浪費しています。現代の日本にはそれらが川の流れのように、有り余る程豊かに提供されていて、細かく気を使って節約してみても、大きく存分に利用してみても、金銭的にはあまり違いません。しかし、地球上の他の国々では日本の総人口の十数倍も多くの人たちが、国土が砂漠化したり、難民生活をさせられたり、経済事情が深刻化したりしていて、水不足・食料不足・電力不足などに苦しんいます。私たちは福者マザー・テレサや国際的慈善活動者たちのように、その人たちの生活を助けることができませんが、せめてその人たちとの内的連帯精神の内に、自分の全く個人的な水や電力の使用を節約することはできます。共同生活を営んでいる私は、廊下やその他共同の生活領域では皆の生き方に合わせていますが、個室では数十年前から小さな節水・節電に心がけ、その実践を全て神に祈りとして貧窮者たちのために捧げています。神に清貧の誓願を宣立した修道者なのですから。神はこのような小さな実践に特別に関心をお持ちのようで、私のこれ迄の人生を回顧しますと、私は神に特別に愛され守られ導かれているように実感しています。これからの終末時代に日本社会がどれ程不安なものに変わるか知りませんが、私はこれ迄の人生で神から数多くの体験を通して教わった通り、小さな愛と清貧と従順に心がけつつ、神の僕として生きたいと願っています。


   本日の福音では、主が一人の律法学者の質問に答え、神に対する愛を第一の掟、隣人愛を第二の掟として、「この二つにまさる掟はない」と話しておられますが、その律法学者がそのお言葉に賛意を表すると、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。しかしこの二つの掟は、既に申命記やレビ記に述べられている旧約時代からの古い掟であって、主が最後の晩餐の席でお与えになった「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ14: 34)という、新約時代のための新しい掟ではありません。でも、この古い掟を誠実に守る人は、主キリストが身を持ってお示しになった新しい掟を守る人に近い生き方を為すと思います。それで主は、「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃったのだと思います。ところで主は別の所で弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種に警戒しなさい」(ルカ12: 1)と警告しておられます。ファリサイ派は掟の言葉だけを重視し、その掟の人間理性による理解を中心にして掟を順守しようとしているからだと思います。これでは欠点の多い人間の聖書解釈を中心に据え、それに従っているだけで、神の御旨に従うのとは違うことが少なくないと思われます。そこで、人間理性では知り得ない、その時その時の神秘な神の御旨に従うことのみを第一にしておられた主は、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と、新しい愛の掟を弟子たちにお与えになったのではないでしょうか。「信仰年」に当たりこの違いもしっかりと心に刻んで、主や聖母のように神の僕・神の婢として何事にも神に心の眼を向け、その時その時の神のお望み・神の御旨に従って生きるよう心がけましょう。それが、私たちの受け継いだ信仰を心の奥底にしっかりと根付かせ、悪霊の働きが激しくなると思われるこれからの終末時代に、あの世からの導き・助けを豊かに受けて、幸せにまた逞しく生き抜く生き方だと信じます。使徒ヤコブは行いのない信仰を「死んでいる信仰」と称していますが、多くの小さな行いによって心の奥底に信仰を根付かせないと、ただ信仰を持っている、信仰の真理を正しく理解し信じているというだけの信仰では、道端に落ちた神の命の種のようなもので、いつまでも実を結べないだけではなく、これからの終末時代にはそれを狙っている空の鳥、悪魔をおびき寄せ、大きな不幸を招くことになるかも知れません。「信仰年」にはそのことも考慮して、恐れの内に受け継いだ信仰を心の奥にしっかりと根付かせることに励みましょう。

2015年10月25日日曜日

説教集B2012年:2012年間第30主日(三ケ日)

第1朗読 エレミヤ書 31章7~9節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章1~6節
福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節

   第一朗読は、旧約の神の民の数々の罪を嘆き、警告を語ることの多かったエレミヤ預言者の言葉からの引用ですが、本日朗読されたこの預言書の31章は神との新しい契約について予告していて、エレミヤ書の中でも、将来に対する明るい希望を与えている最も喜ばしい箇所だと思います。紀元前10世紀に南北二つの王国に分裂した神の民のうち、北イスラエル王国は紀元前720年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまい、そこに住んでいた太祖ヤコブの子孫の多くはアッシリアに所属する他の国々に連行され、各地に分散させられてしまいました。アッシリア人によるこの征服と連行の過程で、命を失った者や信仰を失って異教徒になってしまった人たちは多かったと思われます。しかし、そのイスラエル人たちが皆信仰を失ってしまったのではないようです。外的にはもはや真の神を礼拝・讃美する宗教儀式に参列できなくても、それを自分たちが犯した罪の罰、神よりの試練と受け止め、個人的に悔い改めと罪の償いに励んでいた信徒たちが、少なからずいたのだと思われます。神は、異国に移住させられて謙虚に悔い改めと新しい信仰生活に励むその人たちの熱心を嘉し、救い出そうとしておられたのではないでしょうか。

   彼らの住んでいたサマリアの町を中心とする北イスラエルの国々には、アッシリア人によって北方の国々から送り込まれた異邦人たちが住みつき、そこに残されていたイスラエルの下層民との結婚により、聖書に「サマリア人」と呼ばれている新しい混血民族になりました。サマリア人は、ユダヤ人の律法も祈りも知りませんが、しかし、そこで発生したある災害から学んで、それまでその地で崇められていた太祖アブラハムの神を、自分たちなりに礼拝し、その神に祈っていました。

   アッシリア帝国の侵略から100年余りを経て神の言葉を受けたエレミヤは、本日の朗読箇所の中で、数は少なくとも異国にあって信仰を失わずにいるイスラエル人たちのことを「イスラエルの残りの者たち」と呼び、その人たちを救ってくれるように祈ることを、神から命じられています。そして神は、「見よ、私は彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める」という、嬉しい約束の言葉も話しておられます。「北の国」とあるのは、アッシリアの支配下にある国々だと思います。神は更に、「私はイスラエルの父となり、エフライムは私の長子となる」とも話しておられますが、ここで「エフライム」とあるのは、エジプトで宰相となったヨゼフの息子の名前で、その子孫である北王国の中心的部族の名でもあり、総じてアッシリアに連行されたイスラエル人たちを指していると思います。彼らが新たに神の子らとされて、メシアによる救いの恵みに浴することを、神が予告なされたのではないでしょうか。アッシリア帝国の侵略によってイスラエル12部族のうち10部族は滅び去り、残ったのは南のユダ王国に住むユダ族とレビ族だけであった、と考えてはなりません。北イスラエルの10部族の内の「残りの者たち」は、エレミヤ預言者の時代にユダ王国に移住することができ、数は少なくてもその子孫たちは、後年立派にメシア時代を迎えるに到ったのだ、と思われます。

   ここで「イスラエルの残りの者たち」とある言葉を、現代の私たちの信仰生活に関連させて考えてみましょう。私たちは今はまだこれまで通り平穏に暮らしていますが、しかし、この幸せな状態がいつまで続くかは誰も予測できません。既に地球温暖化によって、世界各地の自然環境は元に戻し得ない程に悪化しつつあるようですし、この温暖化現象には、私たち現代人たちの贅沢な浪費生活が深く関与しているそうです。全世界の急激な人口増加で、遠からず水不足や食料不足の問題も深刻化することでしょう。自然界の豊かな恩恵に浴している私たち日本人は、それらの問題をまだ深刻には痛感していませんが、これからの時代には、既に地球上の他の多くの地方で発生している深刻な窮乏問題が、私たちの食糧や生活を著しく苦しめることになると思います。今の日本は自給自足ではなく、食料の大半を外国からの輸入に依存しているのですから。世界銀行が先日、各国の労働実態をまとめた報告書によりますと、70億の人類の内、失業して職探しをしている人は2億人、社会も生活も絶望的になって職探しを諦めている人が20億人だそうで、老人と子供を除く労働人口の内、30%にまともな仕事がないため、1億人以上の子供たちが学校にも行けずに、危険な環境の中で働かされているそうです。また食料不足のため、70億人類の20%、約14億人が栄養不足の状態にあり、内7千万人は飢え死に目前の状態に置かれているそうです。これは、世界的経済不況に悩む今の人類の力ではどうしようもない程の深刻な事態であり、全能の神の憐れみに縋る以外に救いの道はないように思います。神が現代の人類にエレミヤのような預言者を派遣して下さるかどうかは知りませんが、現代世界に広まっている神に対する不信仰や人間中心主義の不従順精神を考慮しますと、遠からず恐ろしい天罰が現代の文明諸国に到来するように思われて成りません。まだ目前の豊かさだけを追い求めている人たちの多い今こそ、「目覚めて用意していなさい。人の子は思いがけない時に来る」という主の警告を心に銘記して、神現存の信仰の内に日々の生活を営み、神に対する信仰と愛を深めることに励みましょう。教皇がこの十月から来年十一月の「王であるキリスト」の祝日までを「信仰年」とお決めになったのも、将来の不測の事態に私たちの心を備えるための、神の計らいなのではないでしょうか。

   神の特別な愛の被造物であるこの美しい水の惑星「地球」を穢して止まない利己的人間たちの怠りの罪や貪欲の罪に対して、これまで深く黙しておられた神は、愈々この終末時代に恐ろしい天罰を下して、被造物世界のすべてを全く新たにしようとなさるかも知れません。その時には先程の聖書朗読にある「イスラエルの残りの者たち」のように、たとえミサ聖祭に与かれなくなっても、個人的に日々悔い改めの業に励み、主キリストの聖心と一致して人類の罪の償いに心がけましょう。神は、貧しさの中で謙虚に信仰と愛に生きるそのような「残りの者たち」に特別に御眼を留め、その祈りと必要に応えて新しい救いの道を示し、必要な力も助けも与えて下さると信じます。神はイザヤ書の最後66章の始めに、「私が目を留める者は誰か。それは貧しく、心砕かれた者、私の言葉をおそれる者」と諭しておられますから。この前の日曜日の福音には、「異邦人の間では支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間ではそうではない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。云々」という主のお言葉が読まれました。「信仰年」に当たっては、何よりも「仕えられるためではなく仕えるために来た」とおっしゃる主のご精神を、日々の生活の中で体現するよう心がけましょう。私たちは福者マザー・テレサのように、今飢えている人、今助けを必要としている人たちに奉仕することはできませんが、せめてその人たちとの連帯精神の内に、小さな清貧の実践という「行動の祈り」を神に捧げることはできます。そのような祈りを神に捧げましょう。神が小さな清貧の実践を祈りと共にお捧げする人の願いは、不思議な程よく聞き届けて下さることを、私はこれまでの数多くの体験から確信しているからです。


   私は37年前の1975年秋に、江戸時代に中国から伝来したと聞く、京都の黄檗宗本山万福寺で三日間厳しい禅僧の生き方を体験させて頂きましたが、そこの禅僧たちは、水をなるべく無駄にしないように生活していました。例えば食事の時に各人の使ったお椀などの食器は、最後に御湯と漬物の香香で綺麗にしてその湯を飲み、各人に与えられている布巾で拭いて包み、その包んだ食器を各人に定められている食器棚に片付けていました。研修に参加していた私たちも、皆そのようにして水を大切にする生き方を実践的に学びましたが、後で考えますと、これは水を谷川から汲んでいた古い山寺の生活様式に起因する清貧生活なのかも知れません。中国でも韓国でも、仏教の寺院は全て山に建っていますから。北陸の禅寺永平寺でも、同様の厳しい清貧生活を続けているそうですが、そこの禅僧たちはその清貧の実践を介して、全能の神と主キリストから祝福と救いの恵みを豊かに受けているのではないでしょうか。私たちカトリックの修道者は神に清貧の誓願を宣立していますが、日常生活における清貧の実践は、万福寺や永平寺の禅僧たちに劣っているように思われます。そこで私は、30数年前から個人的には人目につかない小さな節水・節電に心がけています。すると不思議な程屡々神からの小さな計らいや導きを体験させて頂いています。私たちの神は信仰を持って為すこのような小さな清貧の実践を特別の関心をもって見ておられ、それらに豊かに報いて下さる愛の神であられるようです。「信仰年」に当たり、このような神現存の信仰体験を積み重ねることによって、弱い私たちの信仰を逞しくく鍛え上げ、やがて到来すると思われる終末期の試練に備えるよう努めましょう。