2015年12月24日木曜日

説教集C2013年:2012降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

    ベト・レヘムはヘブライ語で「パンの家」という意味ですが、二千年前にそのベトレヘムでお生まれになった救い主は、今宵はパンの形で私たち各人の内に、神からのご保護と救いの恵みを豊かにもたらすためにお生まれになるのだと信じます。理知的な人たちは、その信仰を子供じみた夢として軽蔑するかも知れません。しかし、冷たい合理主義や能力主義、あるいは自分の権利主張などが横行して潤いを失っている社会に、温かい思いやりや赦しあう献身的奉仕の精神をもたらすには、心が若返って美しい夢に生きる必要があります。私たちの体や頭がどれほど逞しく成長しても、心の奥底にはいつも素直で純真な子供心というものが残っていて、それが同じことの繰り返しでマンネリ化し勝ちな私たちの日常生活に、いつも新たに夢や憧れ、感動や喜びなどを産み出してくれます。そして数々の困苦に耐えて生き抜く意欲も力も与えてくれます。私たち各人の命の本源は、その奥底の心にあるのです。救い主も、夢を愛するその奥底の心の中にお出で下さるのです。二千年前の救い主の誕生前後に、ヨゼフも東方の博士たちも、夢によって教え導かれましたが、神は今も度々夢を介して私たちを教え導かれます。心が外的心配事や仕事にばかりこき使われていますと、夢を見なくなります。私たちの心はまだ時々夢を見ているでしょうか。夢を見る柔軟さを保持しているでしょうか。夢を愛する子供心を大切にしましょう。今宵の聖体拝領の時、二千年前の聖母のご心情を偲びつつ、神のため社会のために私たちの授かる恵みの御子、かわいい乳飲み子のような救い主を心の内に内的に育てよう、そして神による救いの恵みがこの御子によって、周囲の社会に行き渡るよう奉仕しよう、との決心を新たに堅めましょう。夢を愛する子供心を持って神に近付く人は、クリスマスの恵みを豊かに受けると思います。
    今から790年ほど前のことですが、アシジの聖フランシスコは子供のように単純な信仰心と夢を愛する心で、弟子たちとクリスマスのお祝いをしようとしたのでしょうか、1223年の12月に、ローマから60キロほど、アシジからは120キロほど離れたリエーティ(Rieti)という古い田舎町の郊外にある小さな山村グレッチオ(Greccio)の洞窟に、牛とロバを二匹ほど連れて来て、クリスマスのお祝いをしました。私はローマに留学していた時、神言会本部修道院の会員たちの遠足で、一度その洞窟を訪れたことがあります。洞窟の中は詰めれば人が十数人か二十人位も入る程の広さになっていて、その中程に高さ30cm程の上部が平らになっている腰かけにちょうど良いような小さな岩がありました。聖フランシスコはこの岩の上に、この世にお生まれになった幼児イエスがお出で下さると想定して、この岩を中心にして人々を集め、その千二百年ほど前にこの世にお生まれになった幼児救い主に感謝し、その幼児を讃えて礼拝する夢のようなクリスマスの祈りと説教をなさったそうです。するとそのお祝いの最中に、実際に生きている幼児がその岩の上に現れたのだそうで、聖フランシスコの腕に抱かれ愛撫されたそうです。私の聞き違いが混じっているかも知れませんが、何かこのような夢のような小さなクリスマスのお祝いが実際にその洞窟で行われたことが発端となって、クリスマスに聖堂内に幼児の像を迎える小さな厩(うまや)を作ったり、その厩の前で神に祈ったり歌ったりする信心深い慣習が世界中の教会に広まり始め、17世紀からは信徒の家庭でも、そのような小さな飾りを設けることが広まったと言われています。夢を愛する子供のような素直で単純な信仰心で、私たちも今宵あの世の救い主に祈りましょう。主は実際にそのような祈りを好み、あの世から求めておられると信じます。

    今宵主の降誕祭の記念ミサを捧げている私たちの目の前に、救い主は目に見える幼子の姿でお出で下さることはありませんが、しかし、内的には私たち各人の心の内に密かにそっとか弱い幼子の姿でお出で下さり、もし私たち各人が心を開いてその主をお迎えするならば、私たちの心の願いをしっかりと受け止め、その達成のために尽力して下さると信じます。子供騙しの夢のような話と思われるかも知れませんが、信じましょう。私は63年前に公教要理を学んでいた時、素直な子供心に立ち返って、神が私たちに提供しておられる数々の夢をまともに信じ、全てを神に委ね、神のお望み通りに生きようとし始めました。そうしましたら、今振り返っても驚くほど沢山の不思議な出逢いや恵みの出来事を体験させて戴きました。神は実際に存在し、私たち各人の人生に伴っておられると思います。既に復活してあの世に生きておられる主キリストの、私たち各人の心の中での隠れた誕生、隠れた来臨に対する信仰を新たにしながら、今宵のミサ聖祭を献げましょう。