2015年12月20日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第4主日(三ケ日)

第1朗読 ミカ書 5章1~4a節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章5~10節
福音朗読 ルカによる福音書 1章39~45節

   本日の第二朗読の前半に読まれる主キリストのお言葉は、詩編の40: 7~9を引用してヘブライ書の著者が記したものですが、神または復活なされた主がそれらの著者に特別に啓示して下さった、聖三位の第二のぺルソナがこの世に受肉された時の祈りであると思います。人間としてのご自身のお体は、神の民の罪を贖うために捧げられた旧約時代の焼き尽くされる幡祭(はんさい)のいけにえよりも遥かに優れたいけにえを神に捧げるためのもの、御父の御旨を行うためだけのものであるという、この徹底的献身と従順の決意は、主イエスが聖母マリアのお体に宿られた瞬間から受難死を成し遂げた時まで、救い主の人生を貫いている不屈の御精神であったと思います。聖母も単に主のお体だけではなく、そのお体に籠る主のこの御精神をもご自身の内に宿し、この御精神でご自身の人生を神に捧げ尽くすことによって、主と共に救いの恵みを人類の上に呼び下し、私たちの精神的母となられたのではないでしょうか。私たちも、救い主のこの御精神に参与して生きる度合いに応じて、クリスマスの恵みを豊かに受けると信じます。そのための照らしと力を願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

   以前にもここで話したことですが、聖マリアの「無原罪」という言葉を聞きますと、多くの人は、あらゆる罪の穢れを免れた心の完璧な清さや美しさだけを考え勝ちのようです。それは正しいのですが、しかし、罪に穢れた私たちの心の現実を高く凌駕している、そのような清さや美しさだけに注目するのは、片手落ちだと思います。もっと大切なことは、聖マリアが救い主に先立って、神からの特別の恵みであるそのような超自然的清さをもってこの罪の世に生れ、子供の時から生涯、私たちの想像を絶するほど多くお苦しみになったことに、注目することだと思います。お心のその超自然的清さ故に、聖マリアは原罪の穢れを持つ他の子供たちや社会の人たちの言うこと為すことに、人知れず苦しみ悩んでおられたのではないでしょうか。なぜそんなことをするのか、なぜそんな言い方をするのか、などと。生来罪の穢れに慣れている私たちの心とは、感じ方が大きく違っていてお苦しみになることが多かったのではないか、と思われます。

   聖マリアは、子供の時から頻繁に体験したその苦しみ故に、ひたすら神の助けを祈り求めつつ生活するようになり、ご自身のその苦しみをそっと神に捧げて、人々の救いや仕合わせのためにも祈っていたと察せられます。神は聖マリアに、子供の時から人類の救いのためこのようにして苦しみ祈る生き方をさせておられたのだと思います。そして聖マリアも、その苦しみ祈る生き方を介して、やがてご自身を「神の婢」と思うようにもなられたのではないでしょうか。天使から全く思いがけないお告げを受け、その説明をしてもらった後にすぐ、「私は主の婢です」というお言葉を口にされたのは、日頃その精神で生活しておられたからだと思います。そして救い主イエスも、生来の無原罪のため同様に子供の時から生涯お苦しみになられたのではないでしょうか。神の御子はその絶えざる御苦しみを、この罪の世に派遣された最初の瞬間から天の御父に捧げつつ、「ご覧下さい。私は御旨を行うために来ました」と申し上げたのだと思われます。

   本日の福音は、天使のお告げを受けた聖マリアが、ザカリアの妻エリザベトを訪問した時の話ですが、ナザレから徒歩で数日かかるザカリアの家までの旅は、以前にもここで説明したように、大胆な女の一人旅であったと思われます。当時のユダヤ社会の状況を考慮しますと、それは不安も危険も大きい旅であったと思います。しかし聖マリアは、神の御子を宿しているなら神ご自身が護って下さるという信頼の内に、ひたすら御胎内の神の御子に祈りつつ、この危険な旅をなさったのではないでしょうか。天使が最後に付言した、親戚のエリザベト、産まず女と呼ばれて軽視されていた老齢のエリザベトが、男の子を奇跡的に懐妊しているという知らせも、マリアの心を照らす一条の光となったいたと思われます。もし自分がそのエリザベトを訪問し、既に六ヶ月になっているという胎児を宿して、生活の世話を必要としているその老婦人が出産するまでの生活を手伝い、産み落としたその子が男の子であるのを確認すれば、それは天使のお告げが神よりのものであるという証拠になり、ヨゼフを説得する道がそこから開けて来ると思われるからです。天使は自分にそのことを確認させるために、エリザベトの懐妊を知らせてくれたのではないか、とお考えになったのだと思います。

   こうして無事ザカリアの家に辿り着いた時、聖マリアは安堵の喜びと神に対する感謝の内に、感動に満ちた挨拶の言葉を発したのだと思います。それは通常の儀礼的挨拶とは異なり、神の霊と力に満ちた挨拶になっていたのではないでしょうか。果たしてその声を聞いたエリザベトの内にも、既に六カ月を越えていた胎児が聖霊に満たされて大きく踊り、エリザベトも聖霊と喜びに満たされて戸口に現われ、女預言者のように声高らかに話し始めました。こんなことは、事細かに旧約時代の掟を遵守していた以前のエリザベトには、長年全く見られなかったことだったと思われます。彼女の内にも既に新約時代の新しい信仰生活、すなわち不動の文字で認められている掟や規則の順守中心の生活ではなく、何よりも自分の体内、自分の日常生活の中でお働きになる神の御旨に注目し、その御旨に従って生きようとする預言者的信仰生活が始まっていたのではないでしょうか。


   現代は世界的に大変動の時代を迎えていますが、一般社会だけではなくカトリック教会も司祭・修道者の激減という深刻な危機に直面しています。このような大変動の時代には、私たちも聖母マリアや聖エリザベトの模範に倣って、自分が今体験している日々の小さな出来事の中から、神の新しい働きや呼びかけを学び取りつつ、画一的規則的になり勝ちであったこれまでとは少し違う、もっと自由で流動的な新しい愛と従順の信仰生活を、神目指して営むべきなのではないでしょうか。そのための照らしや導きを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。