2015年12月13日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第3主日(三ケ日)


第1朗読 ゼファニヤ書 3章14~17節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 3章10~18節

   本日のミサは昔から「喜びのミサ」と呼ばれて来ました。入祭唱に「喜べ」という言葉が二回も重ねて登場し、第一朗読にも第二朗読にも「喜び叫べ」「喜び躍れ」「喜びなさい」などの言葉が何回も言われているからです。いったい神は、なぜ「喜べ」と言われるのでしょうか。またなぜ「恐れるな」と言われるのでしょうか。第一朗読はその理由を「イスラエルの王なる主がお前の中におられる」から、「主なる神がお前のただ中におられて、勝利を与えられる」からなどと説明し、第二朗読も「主が近くにおられる」からと説いています。しかし、主なる神は単に近くにおられる、あるいは私たちのただ中におられるだけではないのです。第一朗読の末尾には、「主はお前のゆえに喜び楽しみ」「お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」という言葉も読まれます。私たちに対する大きな愛ゆえに喜んでおられるその神と共に喜ぶよう、神が私たちを招いておられるのではないでしょうか。神が私たちの中におられて愛の眼差しを注いでおられる、私たちを救おう助けようと見つめておられるのだと、信じましょう。そのように信じ、その信仰に堅く立ってこそ初めて、私たちの恐れや思い煩いが全て消えて行くと思います。そして神と共に日々喜んで生きる時に、神の恵みも私たちの内に働き易くなると信じます。

   「愛する」とは、「見つめること」だと思います。神は隠れておられても、私たちをじーっと見つめておられるのです。私たちもそれに応えて、時々その神に信仰の眼を向けるよう心がけましょう。何も見ず何も言わなくてもよいのです。ただ静かに神に感謝と愛の心の眼を注いでいますと、神の霊が私たちの中に働いて、心の奥に深い喜びと安心感を与えて下さいます。日々の黙想の時など、目をつむって神の愛の視線を体の肌で感ずるように心がけましょう。乳飲み児のように素直な心で。そして目には見えないその神の御心に私たちの感謝と愛の心を向けながら、静かに神と共に留まるようにしてみましょう。日々このようなことを続けていますと、不思議に神が私に伴っておられて私を護り導いて下さるのを、小刻みながら幾度も体験するようになります。そしてその小さな体験が積み重なると、私たちの心の中に神に対する感謝と愛が深まってくるのを覚えるようになります。神の霊が私の心の内に、働いて下さるのだと思います。

   神言神学院の一番高い個室の一つに住んでいて、歳をとり毎晩夜中過ぎに、あるいは夜の2時頃にトイレに行くのが習慣になった私は、自室のすぐ横にあるベランダで星空を眺めて祈る習慣も身につけました。秋の後半にはその時間帯に、冬の夜空に輝くオリオン星座の大きな三角形や三つ星などが既に現れており、待降節の日の出前に東の空に輝く「明けの星」金星も、十月の夜の2時頃には既に東から昇って話しかけています。それでいつの頃からか、夜空を仰いで聖母マリアに祈る習慣も私の身についてしまいました。

   金星は夏には「宵の明星」となりますが、金星だけではなく、私はむしろ月を眺めて聖母に祈っています。そこで、本日は少し月について考えてみましょう。米国の天文学者カミンズ博士の『もしも月がなかったら』という著作によりますと、もし月の引力がないなら、地球の自転は非常に速くなり、一日は三分の一に短縮されて8時間程になるそうです。そして自転が速いと、地上には猛烈な風が吹き続け、台風ともなれば秒速80mの風になるそうです。地上の生き物たちの生活も騒々しくなり、花はのんびりと咲いておらず、鳥の囀りも猛々しくなるかも知れません。いやそれどころか、植物も動物も今とは全く違う進化を遂げて生きるために真剣になっており、みな美しさや落ち着きのない存在になり、人類もせっかちで、甲高い大声で話す人ばかりになっているかも知れません。それを思いますと、現実の私たちの生活環境が太陽と月の引力によって程良く美しく整えられ、保たれていることに大きな感謝を覚えます。太陽はよく主キリストのシンボル、月は聖母マリアのシンボルとされていますが、私たち人類の精神生活も、死ぬことのない復活体によみがえられて、あの世から人知れず黙々と全人類を見守り、静かに助け導いておられるこのお二人の方からの恵みに負うところが絶大なのではないでしょうか。全能の父なる神は、あの世から絶えずこの世の人類の生活を見守り、その救いのために尽力しておられるこのお二人に、私たちの想像を絶する大きな霊的引力をお与えになっておられるのではないでしょうか。私は主のご聖体や夜の月を眺める時などに、神がこのお二人に与えておられる霊的引力の大きさを、太陽と月の引力の大きさに譬えて想像したり、その霊的引力は日々神に感謝し、神を讃える心で喜んで生きている人たちの内に大きく働くのではないか、と考えたりしています。クリスマス・新年を迎えるに当たり、お二人の絶えざる支え・導きと御保護に対する感謝の念を新たにし、これからもこの信仰と感謝の内に生きる心を表明致しましょう。

   本日の福音は、民衆や徴税人・兵士たちの質問や思惑に対する洗礼者ヨハネの返答と申してよいと思います。ヨハネの力強い呼びかけや、悔い改めの洗礼を見聞きした群衆は、いよいよファリサイ派の宗教教育で教わったメシア到来の時が来た、と思ったことでしょう。そこである人たちは、社会改革やユダヤ独立のため自分たちは何をしたらよいか、と尋ねたのだと思います。ヨハネはそれに対して、貧しい者たち、困っている者たちに下着や食べ物を分けてやるように勧め、徴税人や兵士たちにも同様、規定以上のものを取り立てないように、自分の給料で満足するようになどと、今置かれている地位や職業の中で実践すべき、ごく平凡な兄弟愛の勧めを与えただけでした。群衆は少し拍子抜けしたかも知れません。主キリストも同様に、何かの新しい社会活動や政治活動などではなく、例えば金持ちの青年には、子供の時から教わっている掟の遵守や貧しい人々への施しを勧めるなど、既にユダヤ教で子供の時から教わっている、外的には少し平凡に見える掟の遵守と愛の実践を勧めておられます。主は一度「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返せ」とおっしゃいましたが、これはローマ皇帝に対抗するこの世的政治社会活動よりも、私たちの平凡な日常生活の中に隠れて現存し、全てを観ておられる神の導き・働きに従う生き方を優先したお言葉であると思います。新約のメシア時代には、自分の置かれている所で神に心の眼を向けながら、小さな愛の実践に生きること、日ごろの私的生活を厳しく律することに努めるなら、そこに主の愛の霊が働いて、その人をも周辺の社会をも変革し、神による救いへと導いて下さるというのが、聖書の教えなのではないでしょうか。私たちの心は神に眼を向け、神の霊をそのような小さな実践によって自分の内に迎え入れることにより清められるのです。それが、待降節に当たって神から私たちに求められている、改心・悔い改めだと思います。


   本日の福音の中で洗礼者ヨハネは皆に、「私よりも優れた方が来られる」と話していますが、ここで「優れた」と邦訳されているイスキューロスというギリシャ語原文の言葉は、「力強い」「激しい」という意味合いの言葉です。ヨハネはここで水で洗礼を授け、神の働きに従って生きるため各人の心の目覚めと人間的決心を促していますが、メシアが始められる新約時代の洗礼は、ヨハネの洗礼とは違って神の聖霊と火による洗礼であり、人間の望みや努力が主導権を取って神の恵みを利用し強くなるのではなく、そういう人間中心の主導権が消えることのない神の愛の火で焼き払われ、神の聖霊が主導権をとって私たちの心を神の神殿として下さるような洗礼なのです。洗礼者ヨハネはそのことをはっきりと認識し予告しているのです。私たちの魂は皆この洗礼を受けて神の神殿となっているのですが、まだそのことを十分に自覚していないのではないでしょうか。救い主から受けたこの大きな恵みに感謝しつつ、終末の日にその主を少しでも相応しくお迎えできるよう、神への愛と信仰の精神で日頃の平凡な生活を整え、自分の心を厳しく律する実践に努めましょう。そしてそういう信仰実践のための照らしと力とを、今の世に苦しんでいる多くの人々のためにも、本日のミサ聖祭の中で祈り求めましょう。