2015年12月6日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第2主日(三ケ日)

第1朗読 バルク書 5章1~9節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章4~6、8~11節
福音朗読 ルカによる福音書 3章1~6節

   本日の第一朗読は、長年エレミヤ預言者の書記として働き、エレミヤ書の殆どを書き残したバルクが、バビロン捕囚が始まって5年目のBC593年にその捕囚の地で書いた書簡のからの引用であります。ユダ王国が北の大国バビロニアに反抗しないようにと説き続けて来たエレミヤは、バビロニア軍によってエルサレムが包囲攻略された後、ネブカドネツァル王の招きを断ってエルサレムに留まり、この王によって属国とされたユダ国のゼデキヤ王の下で、エルサレムの信仰生活がどのように変わるかを見届けようとしたのか、バビロンには行きませんでした。エルサレムに留まって何をしたかは不明ですが、エルサレムのその後の状況を捕囚の民に知らせるようなパイプ役をしていたのかも知れません。エゼキエル書などからも知られるように、以前にエルサレムの支配層に属していた人たちと、その協力者たちの殆どが捕囚の民となった後に、ゼデキヤ王の下で新しく支配層となった人たちの生活は、以前よりもっと酷く神の怒りを招くものとなり、最後にエジプト王に頼ってバビロニアから自由に成ろうとしたエルサレムは、遂にネブカドネツァル王によって徹底的に破壊され、廃虚とされてしまいました。捕囚の地にいたエゼキエル預言者は、そのエルサレムの人たちに真の神信仰に立ち帰るよう強く呼びかけていますが、バルク書も、同じくエルサレムの人たちに悔い改めを勧めたり、神の知恵を讃美したりした長文の書簡であります。その最後の部分が、本日の第一朗読であります。「エルサレムよ、立ち上がれ。高い山に立って東の方に目を向けよ」などと、真の神の声に従う明るい希望と信仰の内に生きるよう呼びかけていますが、残念ながらこの呼びかけはエルサレムの新しい支配層によって無視され、エルサレムの都はBC587年にバビロニア軍の激しい攻撃で破壊され、瓦礫の廃虚とされてしまいました。
   福音の始めに登場するローマ皇帝ティベリウスは、紀元12年に高齢のアウグストゥスと共同支配の皇帝とされたので、この年がティベリウス治世の第1年とされています。従って、その治世の第15年は紀元26年になりますが、紀元14年夏にアウグストゥスが没すると、いろいろな勢力の言い分が複雑に絡み合って混迷の度を深めつつあった、当時の多様化した政治に嫌気がさし、自分の親衛隊長であったセヤーヌスに政治を任せて、自分はナポリに近いカプリ島に退き、何年間も静養を続けていました。このセヤーヌスはユダヤ人が大嫌いで、紀元6年から14年まではユダヤ人の気を害さないようにしながら統治していたローマのユダヤ総督3人の伝統を変えさせ、15年からはユダヤ人指導層に強い弾圧を加えさせました。それで紀元5年から終身の大祭司になっていたアンナスは15年に辞めさせられて、アンナスの5人の息子が次々と大祭司になりましたが、彼らも次々と辞めさせられ、18年にはアンナスの娘婿カイアファが大祭司になって、何とか第四代ローマ総督Valerius Gratusの了承を取り付けました。しかしユダヤ人たちは、律法の規定によりアンナスを終身の大司祭と信じていましたから、表向きの大祭司カイアファの下で、アンナスも大祭司としてその権限を行使していました。これは、それまでには一度もなかった異常事態でしたが、ヘロデ大王の時には一つに纏まっていたユダヤの政治権力も分裂して、本日の福音に読まれるように、複雑な様相を呈していました。第五代ローマ総督Pontius Piratusが紀元26年に就任した時は、そういうユダヤの政治的分裂と衰退の色が静かに深まりつつあった時代の大きな変わり目の時だったのです。
   私たちの生きている現代世界も、ある意味では似ているような異常事態を呈しているのではないでしょうか。価値観の多様化と複雑さの中で、家庭でも社会でも共同体が内部から崩壊し始め、各人ばらばらに生活する個人主義が広まっていますし、貧富の格差も拡大しつつあります。日本の厚生労働省の発表によりますと、わが国で貧窮のため生活保護を受給している人は、2000年には107万人でしたが、今年の1月には209万人に増え、過去最多を更新しています。生活保護の申請理由も、失業や倒産など長引く経済の低迷に起因しており、目立つのは、20歳から50歳までの働き盛りの年齢層が生活保護を受給していることです。この世代の人たちの受給は、12年前には18万人でしたが、今は30数万人になっています。生活保護の支給総額も3兆円を大きく超えているそうです。生活保護を申請しても待たされている人や、十分に受けられずに苦しんでいる人たちも多いのではないでしょうか。一人暮らしのお年寄りが自宅で死んでいたという例は、これまでにも多くありましたが、今年になってからは、家族と一緒に病死したり餓死したりする事例が増えているそうです。高齢の親を支える働き盛りの子供が困窮し、親と共倒れになるのだと思います。世界有数の経済大国と言われる日本ですが、政治も何も様々な小グループに分裂して、莫大な借金を年々増やしながら将来を模索している状態や、社会的犯罪の激増など考慮しますと、多くの人はまだこれまでの豊かさと便利さの中で暮らしてはいますが、これからの日本の政治や社会に明るい夢や希望を抱くことが出来ずにいると思われます。
   救い主が世に出て活躍なさる直前頃の豊かになっていたユダヤ社会も、ローマ帝国との精神的対立や、政治権力の分裂、社会道徳の乱れなどで、自然的人間的には、将来の世界やユダヤ社会にはもう明るい夢や希望を抱くことができないような、不安な社会状態に置かれていたと思われます。神の言葉が荒れ野のエッセネ派の所で成長し修行を積んでいた洗礼者ヨハネの心に降ったのは、ユダヤ社会がそのような不安な雰囲気に覆われていた時なのです。ルカは、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」とイザヤ書にある預言を引用して、洗礼者ヨハネの活動を描写していますが、この預言の続きは、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。云々」と、その神の声がもたらす結果が受動形で述べられています。これは聖書によく見られる「神的受動形」と言われるもので、神を口にするのが畏れ多いので、神の働きやその結果を受動形で表現しているのだと思います。従って、谷を埋め、山を低くし、道をまっすぐにするのは、皆神ご自身のなさる救いの業であると思われます。ヨハネは、全ての人が神の新しい働きによる救いを仰ぎ見る時代の到来したことを、告げたのだと思います。

   メシアの出現を待望していた民衆の多くは、そのヨハネの所にやって来てその説教を聞き、神の新しい導きや働きに従って生きるために、悔い改めの洗礼を受けたようですが、ユダヤ人社会の宗教的政治的な実権を握っていた支配層の人たちとそれに従う人たちは、自分たちの人間的な願望や見解を中心にして、洗礼者ヨハネの呼びかけと民衆の動きを監視するだけで、積極的に神の新しい呼びかけをたずね求めよう、それに従って生きようとはしませんでした。神の権利や働きを後回しにするその人たちのわが党主義的態度は、ヨハネの後でメシアが現れ、活躍し始めても変わりませんでした。そして遂には、自分たちの支配するユダヤ社会を危険に曝す人物として、メシアに死刑を宣告する程にまで落ち込んで行きました。今の世界の指導者たちや日本の指導者たちも、ある意味で神から一つの選択を求められているのではないでしょうか。現代の私たちは、ますます低迷し続けるこの世の政治経済的問題にだけ没頭するのではなく、それを乗り越えて神にまで視野を広げ、神の愛による国民の精神的刷新・若返りを目指すところにまでも真剣に取り組むべきなのではないでしょうか。今の時代の深刻な問題の解決は、神からの新しい導き・助けに真剣に従うことなしに、人間の力だけでは実現し難いと思います。今の日本と世界の指導者たちのため、神からの照らしと導きとを願い求めて、本日のミサ聖祭を捧げましょう。