2016年3月20日日曜日

説教集C2013年:2013受難の主日(三ケ日で)


第1朗読 イザヤ書 50章4~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節
福音朗読 ルカによる福音書 22章14~23章56節


本日の第一朗読は、第二イザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第三の歌の中から引用されています。この歌には「主なる神」という言葉が四回登場しますが、その内の三回が本日の第一朗読に読まれます。「主なる神は弟子としての舌を私に与える」「主なる神は私の耳を開かれた」「主なる神が助けて下さる」などと。そこには、「主の僕」即ちメシアが、自分で考え自分が主導権を取って神のために何かを為そうとする精神は全く見られず、自分の主であられる神の僕として、ひたすら主なる神の導き・働き・力に頼り、神の御声に聞き従おうとする精神一つに生きている姿が読み取られます。そうでなければ耐え切れない程の、恐ろしい苦難と辱めが弱い人間となられた神の僕メシアに、次々と襲いかかって来るからです。神の僕メシアは、このようにして己を無にし、全能の神の導き・働きに徹底的に聴き従うことよって、恐ろしい悪魔たちからの猛攻撃の嵐に耐え、死の闇を通り抜けて全人類の罪を償われたのです。弱い私たちも、神が苦しい試練によって私たちの魂を鍛えよう、磨き上げようとなされる時、本日の第一朗読に読まれる主の御模範に倣って己を全く無にし、ひたすら神の導き・働きに身をゆだねて、その苦しみを神に捧げるように努めましょう。その時、全能の神の力が私たちの魂の奥に働いて、無事に栄光の輝きへと導き入れて下さいます。
 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「キリストは神の身分でありながら」「自分 
を無にして僕の身分になり」「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と述べていますが、主が身をもってお示し下さったこの人間像が、現代の罪の世にあって私たちの目指すべき理想像なのではないでしょうか。戦後の自由主義教育・能力主義教育を受けたかなり多くの日本人は、無意識のうちに自分中心に親も社会も友人も巧みに利用しながら生きようとしているように見受けられます。それが、この世に生を享けた全ての人の当然の生き方と思っていることでしょう。しかし、創世記に啓示されている人祖の罪を参照しますと、それは神の掟に背いて禁断の木の実を食べ、内的仕合わせと平安から脱落した人間の生き方であって、神の命の息を吹き入れられた人間本来の生き方ではないと思います。神を無視し、神の御声に耳を傾けつつ従順に生きようとしないそんな生き方、自分の考え中心に判断し、周辺にある全てを自分の道具や財産であるかのように自由に利用しようとするそんな生き方では、神からの祝福やご保護を豊かに受けることができず、いつも不安と恐れに伴われてストレスの多い人生を営むことになります。洗礼の秘跡に浴している私たち各人の心の奥にも、この世に死ぬまでは、自分中心に自分の考えや望みのままに生きようとする「古いアダム」の精神が心の奥底に残っていて、時々頭をもたげようとします。四旬節の最後、御受難節を迎え、あらためて死と新しい生との秘跡である洗礼の泉に心を沈め、自分中心の生き方に死んでキリストの新しい命に深く一致し、主に生かされて生きる洗礼の誓いを新たに致しましょう。
 本日の福音の中で、ローマ総督ピラトは主イエスの無罪を3回も主張しています。 
最初にひと言尋問した後にすぐ、彼は祭司長たちと群集に向かって公然と、「私はこの男に何の罪も見出せない」と言い、その後も最後までその考えを変えていません。主の内には、ローマ法に違反するどんな犯罪も見られないからです。では、ピラトはなぜその主を公然と鞭打たせたりしたのでしょうか。思うにそれは、その場に集まっていた群衆が、サドカイ派やファリサイ派に扇動されたのかあまりにも激しい激昂を示していて、裁判を止めたり無罪放免にしたりしたら、大きな暴動になり兼ねない程の勢いを示していたからだと思います。社会平和を何よりも重視していた当時のローマ法では、もしも大きな社会的暴動に発展したなら、裁判しなかった総督ピラトがその責任の一端を担わされて重罰を受け、罷免されるかも知れません。「この男はガリラヤから始めてユダヤ全土で民衆を扇動していた」という彼らの訴えを聞いて、ピラトは過越祭でエルサレムに滞在していたガリラヤの支配者ヘロデ王に裁いてもらおうとしました。しかし、そのヘロデ王も裁かずにその男を送り返して来たので、ピラトは死刑に当たる罪を犯していないこの男の処置に困り、目前の民衆が暴動を起こさないことのみを願いつつ、彼らの気持ちに妥協して、この男がもう二度と民衆を教えたり扇動したりしないために、「鞭でこらしめて釈放しよう」と言ったのだと思います。しかし、罪がない者を鞭打たせるこの決定で、ピラトは既に道を誤り、大きな罪を犯してしまったのだと思います。彼は更に何とかこの男を釈放する道を求めて、民衆が求める罪人一人を特別に赦免する過越祭の慣例に基づき、大悪人とされて嫌われているバラバとイエスとを並べて、イエスを特赦しようとしましたが、この試みも、「その男ではなく、バラバを釈放しろ」「その男は十字架につけろ」と叫び続ける民衆の要求に負けてしまいました。これも、ピラトの失策であったと思います。
 この罪や失策の故に彼はその妻からも見放され、やがては不幸になって行ったようですが、私たちも変転する目前の社会の動きに迷わされずに、あくまでも神の導きに心の眼を向けながら、神への忠実に生きるよう心がけましょう。ヨハネ福音書1913節によりますと、ユダヤ人たちはイエスを釈放しようとするピラトに、「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆皇帝に背いています」と叫んでいますが、もしピラトが何とかしてイエスを救おうと冷静に道を模索していたなら、「そんなら、この裁判をローマ皇帝に委ねよう」と答えて、使徒パウロについての総督裁判の時のように、裁判をローマ皇帝の許に移す道もあったのですが、ピラトにはそのような判断をする精神的ゆとりがなかったようです。私たちも気をつけましょう。目前の荒れ狂う社会の動きにだけ眼を向けていますと、心がそれに囚われてそこから抜け出た判断はできません。社会の動きと同時に神にも心の眼を向けていましょう。その時、神がその信仰に応えて善い抜け道を教えて下さいます。私は内的に混沌としている現代文明の社会では、いつも父なる神と共に生きていた小さき聖テレジアの「幼児の道」や、福者マザー・テレサの生き方が非常に大切であると考えます。心の孤独や虚無感を克服するために、何かの鍛錬や精神修養によって強くなろうとするのではなく、むしろ自分をますます小さくしてひたすら神に頼ろう、孤独も失敗も損失も全てを神に委ねつつ、神の御旨のままに神と共に生きようと心掛けますと、不思議に神がこの小さな私の中で働いて下さり、私を道具のように使って下さるという喜ばしい体験を、私も小刻みに幾度も為しているからです。

2016年3月13日日曜日

説教集C2013年:2013四旬節第5主日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 43章16~21節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙三 5章8~14節
福音朗読 ヨハネによる福音書 8章1~11節

    本日の第一朗読の中に読まれる、「見よ、私は新しいことを行う」「私はこの民を私のために造った。彼らは、私の栄誉を語らねばならない」という言葉は、大切だと思います。太祖アブラハムの時以来、神の声に従って歩むよう召された神の民は、その歴史的歩みや体験を通して、他の諸国民に神による力強い救いの業を示すと共に、神に感謝と讃美を献げつつ、諸国民をも真の神信仰と神による祝福へと、招き入れる道を準備する使命を、神から与えられていたのではないでしょうか。神は、ご自身の救いの業を証しするために造られたそのイスラエルの民の中で新しい救いの御業を為そうとしておられるのです。ですから今は、遠い「昔のことを思いめぐらさず」に、これから訪れる出来事や目前の現実の中に神の愛の働きを識別して、それを語り伝えるようにと、預言者イザヤを介してお勧めになったのだと思います。その同じ神は現代に生きる私たち神の子らにも、同様に呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちも、ただ現代の文明世界に自分を適合させ、その流れのままに生活するのではなく、小さいながらも神の僕・神の婢として、自分の置かれている現実の中で積極的に神の招きの御声を聞き分けつつ、神の愛を世に証しするよう神から召されているのではないでしょうか。神は私たちをも使って、今の世の人々のため何か新しい救いの業を為そうとしておられると思います。
    戦後の自由主義・民主主義教育の中で育った人たちが社会の大半を占めているわが国では、いつも人間中心・自分中心に考えて生活している人が多いと思いますが、神が聖書を介して繰り返し強く求めておられる、弱い者・貧しい者に対する思いやりや奉仕の実践を軽視し、旧約の預言者時代のユダヤ社会のように神からの怒りを蓄積する生き方を続けている人も少なくないのではないでしょうか。しかし、阪神大震災や東日本大震災に心が目覚めて、被災者への奉仕に積極的に活躍している人たちが多く輩出したこと、そしてその人たちが一般社会から高く評価されていることを考慮しますと、私たちの日本社会はまだまだ神から注目され、期待されていると思います。人々の心に働いているこの清い隣人愛の精神を大切にし、それがもっと広く社会全体に広まるよう、神の導きと恵みを祈り求めましょう。15年前に三ケ日のこの修道院が横浜の浜尾司教によって献堂された時、来賓として出席していた三ケ日町長が、式後にこの聖堂でなした祝賀挨拶の中で、「三ケ日町の住民たちのためにも、この美しい聖堂でお祈り下さい」とお願いになりました。私たちはその依頼に基づいて、始めは三ケ日町の住民のため、その2, 3年後からは浜松から豊橋に至るこの地元住民全体のために、毎年三カ月に一度ミサを捧げて神の憐れみと恵みを祈っています。本日のこのミサはその意向で捧げていますが、こうして十数年間も地元民のために祈っていますと、時々慈しみ深い神は小さな私たちのグループのこの祈りを特別にお喜びになり、その願いを聞き届けて下さるように思われてなりません。と申しますのは、この十数年間わが国の北でも南でも地震が頻発していますが、浜名湖周辺のこの地方では不思議なほど地震を体験していないからです。私はこれを神の特別な愛の徴と受け止めて、感謝しています。これからも特に小さな事柄を心を込めて立派に為し、神にお捧げ致しましょう。私の個人的体験を振り返りますと、神は人目につかない小さな事柄に特別に御眼を注いでおられ、そこを心を込めてよく為す人には、特別に報いて下さるように思いますので。
    本日の第二朗読では、使徒パウロが「私はキリストの故に全てを失いましたが、それらを塵あくたと見做しています」と語っていますが、この言葉も大切だと思います。有名なラビ・ガマリエルの恐らく最も優秀で熱心な弟子であったと思われる彼は、主キリストの使徒に転向したためにユダヤ教の指導層から敵視され、ユダヤ人・ファリサイ派律法学者としてのその誇りの全てを失い、一部の過激なユダヤ人たちから命をつけ狙われる人生を営んでいました。しかし、彼はそのこの世的失敗と損失の全てを、主キリストと一致して多くの人の救いのために神に献げ、喜んでその不安と苦しみに耐えていたと思います。本日の朗読個所で「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかってその死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とも述べています。私たちもその模範に倣い、日々自分の受ける損失・生活の煩わしさ・病苦・誤解等々を、主キリストがこの世でお受けになった数々の苦難に合わせて、一人でも多くの人の救いのため喜んで耐え忍び、神にお献げするよう心掛けましょう。
    本日の福音に登場する律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通で捕えられた女を自分たちで裁こうとせずに、主の御前に連れて来て「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」と尋ねたのは、福音にもあるように、主を試して訴える口実を得るためであったと思います。以前にも話したかと思いますが、ローマ皇帝アウグストゥスが紀元14年に死ぬと、次の皇帝ティベリウスは極度に大きく多様化している皇帝政治に嫌気がさし、親衛隊長セヤーヌスに政治を委ねて、自分は10年余りナポリ郊外の静かな美しいカプリ島に引っ込み、悠々自適の生活を営んでいました。皇帝アウグストゥスの政策で当時のローマ帝国は平和と豊かさを満喫していましたので、それでも別に問題は生じませんでしたが、ただこのセヤーヌスはローマ人と価値観の全く違うユダヤ人が大嫌いで、紀元6年からユダヤを統治しているそれまでの総督の寛容な施政方針を改めさせ、紀元15年にValerius Gratusを、10年後の26年からはPontius Piratusをユダヤ総督に任命し、ユダヤ社会もユダヤ人もローマの考えに徹底的に従わせるため、わざと厳しい命令を発してユダヤ人の権限を大きく縮小させました。それで紀元5年から大祭司であったハンナスは、15年にその終身職から追放され、その五人の息子が次々と大祭司になりましたが、彼らも次々と追放され、遂に18年にハンナスの娘婿カイヤファスが大祭司に選ばれると、セヤーヌスが漸く何とか我慢してくれました。しかし、当時のユダヤ教では大祭司は終身職とされていましたから、表ではカイヤファスが、裏ではアンナスが大祭司という、大祭司が二人もいる異常事態になり、その間はローマ総督の裁判によるのでなければ、ユダヤ人の裁判で人を死刑にすることは禁止されていました。
    この状態は紀元30年以降にセヤーヌスが失脚し、ティベリウス皇帝が再びローマに戻るまで続きました。それで主キリストを死刑にするためにも、ユダヤ人たちは総督ピラトゥスに訴えなければならなかったのでした。しかし、主が30年の春に受難死を遂げ、ティベリウス皇帝がローマに戻ると、この状態は間もなく解消され、総督ピラトゥスはガリラヤのヘロデ王やユダヤ教の支配層とも仲良くするようになり、聖ステファノの殉教の時には、ユダヤ人の最高法院が死刑を宣告して処刑させることが出来ました。本日の福音にある事件は、セヤーヌスがまだ政治を担当していた時でしたので、ユダヤ人はいくらモーセの律法だからと言っても姦通の女を石殺しにすると、ローマの規定に反した罪で総督に訴えられることになります。しかし、姦通の女を勝手に赦すなら、モーセの掟を破る者としてユダヤ人の最高法院に訴える口実を与え兼ねません。律法学者たちはこういう両天秤にかけて、主を訴える口実を得ようとしたのだと思います。主は彼らのその企みを、黙々と指で地面に字を書き時間を稼ぐことによって、巧みに回避なさいました。彼らがしっこく問い続けると、「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と答え、また身をかがめて字を書き続けられました。これはモーセの律法に反していません。その内に訴えようとしていた人たちは、一人また一人と皆立ち去ってしまいました。最後に主は、「私もあなたを罪に定めない」と言って、女を帰しました。こうして主を訴える口実を得ようとしていた人たちの試みは、完全に失敗してしまいました。私たちも神と人への愛と忍耐をもって、時間をかけ賢明に対処するなら、悪の勢力からのどんな誘いにも打ち勝つことができると信じます。将来起こり得る事態に備えて、主のこのような模範も心に銘記して置きましょう。

2016年3月6日日曜日

説教集C2013年:2013四旬節第4主日(三ケ日)



第1朗読 ヨシュア記 5章9a、10~12節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章17~21節
福音朗読 ルカによる福音書 15章1~3、11~32節

    本日の第二朗読には、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」という、私たちの常日ごろの考えや自己認識を根底から崩壊させ、神中心の観点から新しく考え直させるような言葉が読まれます。その言葉には、洗礼によってキリストの新しい命を頂戴した人は、もう二度と創世記に描かれている人祖が悪霊に騙されて歩んだ生き方を選択してはならない、という真剣な願いと勧めも込められていると思います。悪霊が蛇の姿に身を変えて隠れている善悪の知識の木に近づき、自分が主導権を取る自分の考えで自由に善悪を判断したり、自分の望みのままに神の禁令に背いてその木の実を取って食べたりする、自分中心の自由主義に生きる生き方は棄てて、洗礼により新しく創造された私たちは、創世記に描かれている楽園の中心に立つもう一本の「命の木」に近づき、その木の提供している木の実に養われ、神よりの愛の命に内面から導かれ支えられて、新しい生き方をするようにという勧めが、「新しく創造された者」というその言葉に込められているように思います。二度と人祖の歩んだ轍を踏まないよう、決心を固めていましょう。
    使徒は続いて、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これら全ては神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。云々」と述べています。主キリストの来臨により、この世に全く新しいものが生じ、私たちは皆キリストを通して新しく創造された命を受け、「新しく創造された」存在となって神との和解の内にその命、即ち神が主導権を握っておられる神の御旨中心主義の愛の命を、僕・婢として従順に生きているのです。そして神は、神とのこの和解の命を生きている私たちに、この世をキリストによって御自分と和解させるため、和解のために奉仕する任務をお授けになりました。すなわち神は、世の人々のこれまでの無数の罪の責任を問うことなく、キリストの新しい御命を受けて神中心の従順に生きる、新しい存在になる生き方を世に広めるため、私たちにも奉仕を求めておられるのです。父なる神は、罪と何の関わりもない御独り子を罪と為して厳しい受難死を遂げさせられましたが、その方の功徳によって、私たちも世の人々も皆「神の義」を受け、「新しく創造された」存在として幸せに生き始めることができるようになったのです。この喜ばしい福音を日々実践的に証しすることにより、神との和解を世の人々の間に広めるよう、私たちも神のお望みに従って励みましょう。
    本日の福音のギリシャ語原文には、アポッリュ―ミという動詞が3回も登場しています。これは、本来あるべき所から離れて滅びへと転落して行くことを意味している動詞ですが、日本語の訳文では、「死にそうだ」だの、「いなくなっていた」などと言い替えてあります。同じルカ福音書15章の「見失った羊」と「なくした銀貨」の譬え話にもアポッリューミという動詞が5回使われており、そこでも日本語訳では、「見失った」とか「なくした」などと訳し替えてあります。しかし、ギリシャ語の原文ではもっと深い意味を持った動詞のようです。主はこれらの譬え話で、父なる神が弱さから転落して行くものに対する特別な憐れみの配慮を、またその救いと立ち直りを切に望んでおられることを示すため、この真に微妙な意味合いの言葉が繰り返し聖書原文に使用されることをお望みになったのではないでしょうか。
    2千年前のオリエント・地中海諸地方の社会は、多くの点で現代社会を先取りした雛形のような印象を与えます。アウグスト皇帝の政策で促進されたシルクロード貿易の隆盛で都市部の商工業者が急速に豊かになると、農村部の社会は貧困に苦しむようになり、貧富の格差は大きくなりました。すると、若者たちが仕事のある都市部に移る人口移動の流れが盛んになって、農村部の地域共同体の結束も伝統的価値観も通用しなくなり、各地から都市部に来た若者たちが自由気ままに生活し始めて、それまでの社会的伝統が拘束力を失って崩れ始め、特に心の教育が非常に難しくなっていたように思われます。これは数十年前から日本でも、また多くの現代諸国でも、実際に見られる社会現象であると思います。同じ家に一緒に住んでいても、親子で価値観が大きく違っていたり、兄弟姉妹の間でもそれぞれ違っていたりすることは、2千年前のオリエント諸地方でも、珍しくない現象になりつつあったのではないでしょうか。それが、本日の福音の譬え話にも反映していると思います。
    それ以前の時代には考えられなかったことですが、譬え話の中の次男は、父親がまだ生きているのに、死んだら自分が貰うことになる遺産を早く分けてくれるよう要求しています。全てを自分中心に理知的に考え、親も社会も意のままに利用しながら生活しようとする利己主義合理主義の塊のような人間は、現代社会にも少なくありませんが、自分の欲を統御する自制心の欠如が問題です。そのような人間をいくら言葉で説得しようとしても無駄です。言葉は、既に利己主義でいっぱいになっている人の心に入ることができず、その心が次々と生み出す理知的理屈を刺激し、反駁されるだけでしょうから。現実の全体像に対して盲目になっているその心を目覚めさせるには、嫌という程の苦い失敗体験が必要だと思います。そこで譬え話の中の父親は、次男の要求する財産を分けてやりました。彼はそれを金に換えて、遠国へと旅立ちました。しかし、欲を制御する力に欠けている人間が大金を持っていると、そこにはあの手この手と巧みに誘惑する者たちが連日のように寄って来ます。こうして次男は財産を全て浪費し、その上にひどい飢饉も体験して、漸く心がこの世の本当の現実に目覚め、生きるために父の家に戻って、これからは父の雇い人の一人にして頂こうと思って帰って来ます。父親は、息子のこの目覚めの時を切に待ちわびていました。帰って来る次男の姿を見つけると、走りよって首を抱き、接吻しました。「お父さん」と呼びかけて、これからは全面的に父に従い父に仕える心になっていた息子は、父親にとって以前よりも遥かに愛すべきものに思われたことでしょう。聖書の教える改心とは、このように神の愛の懐に立ちかえり、神の心を心として神中心に生き始めること、全身全霊を尽くして神に従い神に仕えようとすることを意味していると思います。
    譬え話の後半に登場する長男も、心に問題を持っていました。外的には一度も父親に反抗せずに働いていますが、心の中は利己主義でいっぱいになっていたようです。ですから、日々父親の傍で一緒に生活していても、父親の価値観や温かい思いやりの精神を自分のものにできず、恐らく心を割って親しく話し合うこともせずに、ただ父親の死ぬのを待っているような日々を過ごしていたのではないでしょうか。譬え話の中では、弟のように「お父さん」と親しみを持って呼びかけてはいません。本日の福音では、「私は何年もお父さんに仕えています」と邦訳されていますが、ギリシャ語の原文では「私は何年もあなたに仕えています」となっています。弟に対しても兄は冷淡に振る舞い、「弟」とは言わずに、「あなたのあの息子が」などと表現しています。父と一緒に住んでいても、心は父から遠く離れていた証拠でしょう。「私のものは全部お前のものだ」という父親の言葉から察すると、長男が願えば、父は長男が友達と宴会を開くためにも喜んで支出してあげようとしていたでしょうが、既に心を父に閉ざしていた長男は、父に頭を下げて願うようなことはしなかったのではないでしょうか。
    彼は、弟を罪人として見下げています。彼の理知的な心の中では、一度転んでしまった者は、後で改心しても認められない、いつまでも軽蔑されるべき罪人なのです。
これが、当時の律法学者・ファリサイ派の考えでもあったのではないでしょうか。彼らの間では、一度徴税人あるいは罪の女となった者は、たとえ改心しても、いつまでもその罪の穢れを背負っている軽蔑に値する存在に留まると考えられていたように思われます。しかし、父なる神は、冷たい掟中心に生活している九十九人のそのような義人よりも、温かい神の愛の御心に立ち返り、日々神の御旨中心に生きようと改心した、一人の罪人の方をお喜びになる方なのです。長男がその後どのようになったかについて主は黙しておられますが、それは私たち各人に、それぞれ自分なりに一層深く考えさせるためであると思います。単に外的に日々ミサ聖祭に与かり、神の近くで神の掟に背かないように努めながら生活しているというのではなく、内的にも神の温かい愛と憐れみの御心を自分の心とし、愛の内に神と親しく語り合いながら生きる温かい人間、神の愛の生きている道具になるよう努めましょう。