2016年3月6日日曜日

説教集C2013年:2013四旬節第4主日(三ケ日)



第1朗読 ヨシュア記 5章9a、10~12節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章17~21節
福音朗読 ルカによる福音書 15章1~3、11~32節

    本日の第二朗読には、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」という、私たちの常日ごろの考えや自己認識を根底から崩壊させ、神中心の観点から新しく考え直させるような言葉が読まれます。その言葉には、洗礼によってキリストの新しい命を頂戴した人は、もう二度と創世記に描かれている人祖が悪霊に騙されて歩んだ生き方を選択してはならない、という真剣な願いと勧めも込められていると思います。悪霊が蛇の姿に身を変えて隠れている善悪の知識の木に近づき、自分が主導権を取る自分の考えで自由に善悪を判断したり、自分の望みのままに神の禁令に背いてその木の実を取って食べたりする、自分中心の自由主義に生きる生き方は棄てて、洗礼により新しく創造された私たちは、創世記に描かれている楽園の中心に立つもう一本の「命の木」に近づき、その木の提供している木の実に養われ、神よりの愛の命に内面から導かれ支えられて、新しい生き方をするようにという勧めが、「新しく創造された者」というその言葉に込められているように思います。二度と人祖の歩んだ轍を踏まないよう、決心を固めていましょう。
    使徒は続いて、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これら全ては神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。云々」と述べています。主キリストの来臨により、この世に全く新しいものが生じ、私たちは皆キリストを通して新しく創造された命を受け、「新しく創造された」存在となって神との和解の内にその命、即ち神が主導権を握っておられる神の御旨中心主義の愛の命を、僕・婢として従順に生きているのです。そして神は、神とのこの和解の命を生きている私たちに、この世をキリストによって御自分と和解させるため、和解のために奉仕する任務をお授けになりました。すなわち神は、世の人々のこれまでの無数の罪の責任を問うことなく、キリストの新しい御命を受けて神中心の従順に生きる、新しい存在になる生き方を世に広めるため、私たちにも奉仕を求めておられるのです。父なる神は、罪と何の関わりもない御独り子を罪と為して厳しい受難死を遂げさせられましたが、その方の功徳によって、私たちも世の人々も皆「神の義」を受け、「新しく創造された」存在として幸せに生き始めることができるようになったのです。この喜ばしい福音を日々実践的に証しすることにより、神との和解を世の人々の間に広めるよう、私たちも神のお望みに従って励みましょう。
    本日の福音のギリシャ語原文には、アポッリュ―ミという動詞が3回も登場しています。これは、本来あるべき所から離れて滅びへと転落して行くことを意味している動詞ですが、日本語の訳文では、「死にそうだ」だの、「いなくなっていた」などと言い替えてあります。同じルカ福音書15章の「見失った羊」と「なくした銀貨」の譬え話にもアポッリューミという動詞が5回使われており、そこでも日本語訳では、「見失った」とか「なくした」などと訳し替えてあります。しかし、ギリシャ語の原文ではもっと深い意味を持った動詞のようです。主はこれらの譬え話で、父なる神が弱さから転落して行くものに対する特別な憐れみの配慮を、またその救いと立ち直りを切に望んでおられることを示すため、この真に微妙な意味合いの言葉が繰り返し聖書原文に使用されることをお望みになったのではないでしょうか。
    2千年前のオリエント・地中海諸地方の社会は、多くの点で現代社会を先取りした雛形のような印象を与えます。アウグスト皇帝の政策で促進されたシルクロード貿易の隆盛で都市部の商工業者が急速に豊かになると、農村部の社会は貧困に苦しむようになり、貧富の格差は大きくなりました。すると、若者たちが仕事のある都市部に移る人口移動の流れが盛んになって、農村部の地域共同体の結束も伝統的価値観も通用しなくなり、各地から都市部に来た若者たちが自由気ままに生活し始めて、それまでの社会的伝統が拘束力を失って崩れ始め、特に心の教育が非常に難しくなっていたように思われます。これは数十年前から日本でも、また多くの現代諸国でも、実際に見られる社会現象であると思います。同じ家に一緒に住んでいても、親子で価値観が大きく違っていたり、兄弟姉妹の間でもそれぞれ違っていたりすることは、2千年前のオリエント諸地方でも、珍しくない現象になりつつあったのではないでしょうか。それが、本日の福音の譬え話にも反映していると思います。
    それ以前の時代には考えられなかったことですが、譬え話の中の次男は、父親がまだ生きているのに、死んだら自分が貰うことになる遺産を早く分けてくれるよう要求しています。全てを自分中心に理知的に考え、親も社会も意のままに利用しながら生活しようとする利己主義合理主義の塊のような人間は、現代社会にも少なくありませんが、自分の欲を統御する自制心の欠如が問題です。そのような人間をいくら言葉で説得しようとしても無駄です。言葉は、既に利己主義でいっぱいになっている人の心に入ることができず、その心が次々と生み出す理知的理屈を刺激し、反駁されるだけでしょうから。現実の全体像に対して盲目になっているその心を目覚めさせるには、嫌という程の苦い失敗体験が必要だと思います。そこで譬え話の中の父親は、次男の要求する財産を分けてやりました。彼はそれを金に換えて、遠国へと旅立ちました。しかし、欲を制御する力に欠けている人間が大金を持っていると、そこにはあの手この手と巧みに誘惑する者たちが連日のように寄って来ます。こうして次男は財産を全て浪費し、その上にひどい飢饉も体験して、漸く心がこの世の本当の現実に目覚め、生きるために父の家に戻って、これからは父の雇い人の一人にして頂こうと思って帰って来ます。父親は、息子のこの目覚めの時を切に待ちわびていました。帰って来る次男の姿を見つけると、走りよって首を抱き、接吻しました。「お父さん」と呼びかけて、これからは全面的に父に従い父に仕える心になっていた息子は、父親にとって以前よりも遥かに愛すべきものに思われたことでしょう。聖書の教える改心とは、このように神の愛の懐に立ちかえり、神の心を心として神中心に生き始めること、全身全霊を尽くして神に従い神に仕えようとすることを意味していると思います。
    譬え話の後半に登場する長男も、心に問題を持っていました。外的には一度も父親に反抗せずに働いていますが、心の中は利己主義でいっぱいになっていたようです。ですから、日々父親の傍で一緒に生活していても、父親の価値観や温かい思いやりの精神を自分のものにできず、恐らく心を割って親しく話し合うこともせずに、ただ父親の死ぬのを待っているような日々を過ごしていたのではないでしょうか。譬え話の中では、弟のように「お父さん」と親しみを持って呼びかけてはいません。本日の福音では、「私は何年もお父さんに仕えています」と邦訳されていますが、ギリシャ語の原文では「私は何年もあなたに仕えています」となっています。弟に対しても兄は冷淡に振る舞い、「弟」とは言わずに、「あなたのあの息子が」などと表現しています。父と一緒に住んでいても、心は父から遠く離れていた証拠でしょう。「私のものは全部お前のものだ」という父親の言葉から察すると、長男が願えば、父は長男が友達と宴会を開くためにも喜んで支出してあげようとしていたでしょうが、既に心を父に閉ざしていた長男は、父に頭を下げて願うようなことはしなかったのではないでしょうか。
    彼は、弟を罪人として見下げています。彼の理知的な心の中では、一度転んでしまった者は、後で改心しても認められない、いつまでも軽蔑されるべき罪人なのです。
これが、当時の律法学者・ファリサイ派の考えでもあったのではないでしょうか。彼らの間では、一度徴税人あるいは罪の女となった者は、たとえ改心しても、いつまでもその罪の穢れを背負っている軽蔑に値する存在に留まると考えられていたように思われます。しかし、父なる神は、冷たい掟中心に生活している九十九人のそのような義人よりも、温かい神の愛の御心に立ち返り、日々神の御旨中心に生きようと改心した、一人の罪人の方をお喜びになる方なのです。長男がその後どのようになったかについて主は黙しておられますが、それは私たち各人に、それぞれ自分なりに一層深く考えさせるためであると思います。単に外的に日々ミサ聖祭に与かり、神の近くで神の掟に背かないように努めながら生活しているというのではなく、内的にも神の温かい愛と憐れみの御心を自分の心とし、愛の内に神と親しく語り合いながら生きる温かい人間、神の愛の生きている道具になるよう努めましょう。