2016年2月28日日曜日

説教集C2013年:2013四旬節第3主日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 3章1~8a、13~15節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章1~6、10~12節
福音朗読 ルカによる福音書 13章1~9節

    本日の第一朗読には、主なる神がモーセの質問に答えて、「私はある」というご自身の御名を教えて下さったことが述べられています。ヘブライ語では多分一人称単数のehyeh(エイエ)だと思いますが、これをモーセが民に伝えるため三人称単数に言い換えますと、ヤーウェになると聞いています。古代人は、名は単なる呼び名ではなく、そのものの本性を表現すると考えていましたので、神はこの御名でご自身の本質を表現なさったのだと思われます。私たち人間は、「ある」とか「存在する」という言葉を、ただそこにあるだけで、動くことも成長することも働くこともしていないものと考え勝ちですが、実は聖トマス・アクィナスも強調しているように、存在は最も活発でダイナミックな働きなのです。この世の一切の事物現象は本来本質的に無なのですが、神の「存在」という働きによってその本性も存在も生命も活動も与えられているのであり、その存在も働きも絶えず神に支えられているのです。「存在」という神の働きから離れるなら、忽ち完全な無に帰してしまう儚い有でしかないのです。神は万物の大元であるその「存在」を本質としておられる方で、霊界と物質界の一切のものを、時間も空間も、その他の諸々の枠組みも全て創造なされ、絶えず支えておられる永遠の存在であり、現在も過去も未来も全ては神の御手に支えられ生かされてあるのですから、その全能の神から召されて派遣されるモーセは、何者をも恐れる必要がないのです。「存在」そのものであられる神がモーセと共にいて、救いの御業の全てを為そうしておられるのだという意味で、神はその御名を名乗られたのだと思います。私たちも皆、その全能の「存在神」を信奉しているのです。感謝と喜びの内に、日々を明るい希望と信頼の心で生活致しましょう。
    第二朗読は使徒パウロのコリントの教会への書簡からの引用ですが、東西二つの良港に恵まれて栄えていた港町コリントは、BC146年にローマ軍によって徹底的に破壊されると、百年程はギリシャ人も誰も住まない廃虚とされていましたが、BC44年から後の皇帝アウグストュスがこの港町を復興させ、属州アカイアの首府とすると、地中海沿岸やオリエント諸国から大勢の若者たちがこの新しい商業都市に集まり、自由で豊かな生活を営むようになりました。新しく導入された異教の祭儀に参加する人たちも多くいましたが、キリスト教信仰に転向する人たちも少なくなかったようです。自由主義教育を受けた現代人たちのように、人間中心の自由を重んじているそのようなコリント人信徒に対して、使徒パウロは出エジプト記にある神の民の体験について語ります。その民は、神臨在の徴である雲の下に護られ導かれて、一度は湖の下を通って対岸に渡り、彼らを追跡して来たエジプト軍から救い出されました。これらの出来事は、彼らが彼らなりに一種の洗礼を受けたことを示していると思います。彼らはその後も、神が大きな石灰岩から溢れ出させた大量の水を飲んだり、大量の渡り鳥を食べたりしましたが、しかし、彼らの多くはそれらが神よりの特別な愛の贈り物であることを心に刻んで、感謝の内に生活しようとはしていませんでした。それで神の御心に適わず、荒れ野で死んでしまいました。使徒は聖書のこの出来事に学んで、新約時代というこの世の終りの時代に直面している私たちも、神からの霊的食べ物と霊的飲み物、即ちご聖体のパンと葡萄者に養われていることを想起させながら、神に対する感謝から信仰・愛・従順に成長しなければ、荒れ野で滅ぼされた人々のようになると警告しているのです。
    本日の福音は、二つの部分から構成されています。前半では、エルサレムで実際に起こったと思われるローマ軍によるガリラヤ人殺害事件が伝えられたのをきっかけに、主がお語りになった教えが、後半には、三年間も実を結ばないイチジクについての譬え話が語られています。ガリラヤ人殺害の事件は、過越祭の時に起こったと思われます。毎年の過越祭にはガリラヤの巡礼者たちが大勢エルサレムに滞在し、通常は港町カイザリアに滞在している千人程のローマ軍の一部も、ローマ総督と共にエルサレムに滞在して、暴動が発生しないよう警備に当たっていたからです。度々反ローマ運動の拠点とされていたガリラヤからの巡礼者と首都警備のローマ軍との間で、何かの偶発的事件が発生して、ガリラヤ人の一部が殺害されたのかも知れません。「ピラトがガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜた」という言葉は、神殿で過ぎ越しのいけにえの動物たちが屠られた時刻と同じ頃に、ガリラヤ人たちが殺害されたことを強調する、文学的表現であると思われます。
    主はこの知らせを聞いて、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。それは、当時の律法学者・ファリサイ派たちが、勧善懲悪の合理的思想に基づいて、何か不慮の事件や災害などで犠牲者が出ると、その人には隠れた罪があったのではないか、などと考える思想を広めていたからだと思われます。現代でも時としてこのような推測を口にする人がいますが、主はこのようなこの世の不運や不幸を中心に判断する罪の概念や勧善懲悪思想をはっきりと退けられます。察するに主が考えておられる罪とは、神がこの世の不運や不幸によってその償いをお求めになる外的な掟違反や、先祖から受け継いだまだ償われていない罪の重荷のようなものではなく、どの人間の心の奥にも根強くはびこって働いている、神に背を向け神を無視する自分中心主義の根性、暗い闇の力であり、いわば私たちの生来の人間性である「古いアダム」の心、人間中心主義の精神なのではないでしょうか。それは、洗礼を受けた私たちの心の奥にもまだ実際に働いている罪の力であり、私たちが自分の受けた秘跡の恵みで、日々それに負けないよう戦うべき根強い現実的力であると思います。これ迄は一度も不運な事件や災害に出会うことなく仕合わせに生きているとしても、悔い改めてこの世に来られた神の御子の呼びかけと働きを受け入れ、それに従って神の僕、神の婢として神中心に生きようとしないなら、遠からず皆不運によって滅びてしまうのだ、と主はこの時、恐らく真剣なお顔で人々に警告なされたのではないでしょうか。

    そして続いて話された後半の譬え話も、その差し迫っている不幸の警告と関係して、悔い改めを勧める話であったと思われます。ぶどう園の主人は、実を結ぶ年になっているイチジクの木が、なお3年も忍耐して待ったのに実をつけないのだから、「切り倒してしまえ」と命じます。それに対して園丁が、「ご主人様、今年もどうぞこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい」と願っている所で話が終わっています。受難死を間近にしておられた主はこの話で、神の働きに結ばれ支えられて実を結ぶよう早く悔い改めなければ、切り倒されてしまう時はもう迫っているのだ、今はエルサレムにとって最後の憐れみの期間なのだ、と強く訴えておられるのではないでしょうか。四旬節に当たり、私たちも主のこの警告と悔い改めの勧めとを、私たちの時代に対してもなされている警告として真摯に受け止め、主が目に見えないながら今の私たちの所にも実際に現存し、神中心に生きるよう求めておられることにもっと心の眼を向け、日々信仰生活の改善と深化 に努める決心を、新たに主にお捧げ致しましょう。