2014年8月31日日曜日

説教集A2011年:第22主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願448 叙唱578~>
 第1朗読  エレミヤ書 20章7節~9節
 答唱詩編  10(1, 2, 3)(詩編 63・2, 3+4, 5+6)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 12章1節~2節
 アレルヤ唱 272(22A)(エフェソ1・17+18)
 福音朗読  マタイによる福音書 16章21節~27節

   本日の第一朗読は「エレミヤの告白」と呼ばれている個所の一つで、神が告げるようお命じになった御言葉を告げたために、ダビデ王になされた神の約束に基づいて、神の都エルサレムとその神殿は滅びることがないと信じていたユダヤ人たちから激しく非難され迫害されたエレミヤが、神にその苦しみを訴えた嘆きの言葉であります。もう「主の名を口にすまい、その名によって語るまい」と思っても、神の御言葉は預言者の心の中で火のように燃え上がり、エレミヤはそれを抑えることに疲れ果てて、どれ程人々から迫害されようとも、神よりの厳しい警告の言葉を語らざるを得なかったようです。

   この預言者の苦しみと似たような苦しみを感じている人たちは、現代のキリスト教会の中にもいるかも知れません。日本のカトリック新聞や一般のマスコミは殆ど伝えていない教会内部の微妙な霊的変化ですが、ドイツのカトリック教会もプロテスタントの諸教会も、私が第二ヴァチカン公会議の前後頃に毎年のように訪れて目撃して来た信仰の意欲も活気も失って、最近では教会を批判し避難するマスコミの前に、多くの司教たちも牧師たちも弱腰になっているようです。そして教会という組織から公然と離脱して教会維持費を納めなくなる信徒も年々激増しているそうです。一部ではそのような非キリスト教化に反発して、ヨーロッパを新たにキリスト教化しようとする、若者や中堅層の熱心な動きも見られるそうですが、人数の上ではまだまだ限られていて、その建設的な動きからは大きな期待が持てないようですし、その間にも司祭の高齢化や司祭不足などの理由で、止むなく閉鎖される教会は少なくないようです。このキリスト教衰微の傾向はドイツだけではなく、ヨーロッパの他の国々でも生じているようですが、こうして千数百年の伝統ある輝かしいキリスト教が、次第にヨーロッパ世界から消えて行くのを見るのは、今のドイツ人教皇にとって本当に苦しい負け戦かも知れません。

   昨年のカトリック教会の統計を見ますと、欧米での司祭修道者の召命は激減していますが、アジア・アフリカ人の司祭修道者数は増えていますので、まだ公会議前の数値には達していませんが、アジア・アフリカでの召命が増え続けるなら、何とか欧米人の司祭修道者の不足をカバーできるかも知れません。しかし、先週神言会の中国人神学生の一人が急に中国に帰国するというので、その送別会に出席し席上で尋ねてみましたら、急速に豊かになりつつある今の新しい中国では、国家から公認されていないカトリック神学校でも神学生数が最近激減しているのだそうです。それを聞いて、昨年司祭に叙階されて今日本で活躍し始めている中国人司祭たちも、その内にいつか中国に呼び戻される時が来るかも知れないと思いました。ヨーロッパでも歴史的にはカトリック者に対する迫害や圧力が消えて社会が豊かになると、司祭修道者の召命が激減していますので、これからはアジア・アフリカの諸国でも、現代文明の普及で社会全体が豊かになり始めると、司祭修道者の召命が激減するようになるかも知れません。

   2千年前にユダヤ教の伝統にこだわって、その伝統的人間的な価値観を無視し神の新しい価値観を広める主イエスを断罪したユダヤ教会が、神から退けられてエルサレム滅亡という天罰を受けたように、現代のカトリック教会もこれまでのように人間の産み出す企画を中心とした伝統の外的改革などに拘り続けると、現代世界のための神の新しい働きについて行けずに、天罰を受けることになるかも知れません。このような大きな過渡期には、既定の様々な規則よりもその時その時の神の導きを鋭敏に感知してそれに従おうとする、謙虚な心の精神が何よりも大切だと思います。これ迄の各種宗教の伝統が神によって大きく崩されると思われるこれからの時代には、神の新しい導きに積極的に従おうとする、謙虚な僕・婢の精神で生きるように心掛けましょう。

   本日の福音の後半に、「神のことを思わず、人間の事を思っている」とペトロを公然と叱責なされた主イエスは、「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。云々」と勧めておられます。私たちはこの世での限られた経験や学習から、どこにでも通用する普遍的真理や原理を学び取ろうとする「理性」という能力を神から戴いています。それは、何よりもこの世で幸せに生活するため知識や技術を取得するための能力ですが、神の存在や働きまでも推測できる程の真に優れた能力であります。しかし、経験や学習の不備不完全から、原罪によって暗く複雑な世界にされているこの世では誤りに陥ることも多く、特にあの世の真理やあの世からの招き・導きなどについては、感知するセンスに欠けています。でも神はもう一つ、私たちの心の奥底にあの世の神に対する憧れと愛という、もっと優れた知性的な信仰の能力も植え付けて下さいました。

   これは、私たちの心がこの世に生を受けた時から本能的に持っている能力で、親兄弟や友人・隣人を介して神から与えられる愛のこもった保護・導き・訓練などを素直に受け止めそれに従おうとしていると、神の恵みによって目覚め、芽を出し、逞しく成長し始める生き物のような能力です。ここで言う「信仰」は、聖書にpistis(信頼)と表現されている、神の導き・働きへの信頼とお任せと従順の心で、自分で自主的に真偽・正邪を決定したり行動したりする人間主導の能力ではありません。ですから主は、福音の中でそういう人間主導の「自分」というものを捨てて、ご自身に従って来るよう強調しておられるのです。各人の心の奥底に植え込まれている神へのこのpistis(信頼・信仰)が大きく成長しますと、そこに神の愛・神の霊が働いて多くのことを悟らせて下さるだけではなく、また豊かな実を結ばせて下さいます。神の霊に従って生きようとする心が、何よりも大切だと思います。主がぺトロを「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責なされたのは、この世の人間主導の「古いアダム」の生き方に死んで、神の御旨中心の新しい生き方へと目覚めさせ、強く引き入れるためだったのではないでしょうか。


   使徒パウロは本日の第二朗読の中で「この世に倣ってはなりません」と書いていますが、この世の知恵や人間中心の生き方を捨てて、神よりの声などには関心がなく、それに従おうとしていない現代のマスコミの価値観にも警戒しつつ、愛する主なる牧者の声に素直に聞き従う無学な羊たちのように生きようとするなら、主キリストがその人の知恵となり、神の祝福を天から豊かに呼び降して下さるのではないでしょうか。自分のこの世の人生を神へのいけにえとして献げながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2014年8月24日日曜日

説教集A2011年:第21主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願444 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 22章19節~23節
 答唱詩編  134(1, 2, 3)(詩編 138・1+2ab, 4+5+7d, 8)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 11章33節~36節
 アレルヤ唱 269(21A)(マタイ16・18)
 福音朗読  マタイによる福音書 16章13節~20節

   本日の三つの朗読聖書に共通しているのは、全能の神がその御摂理によって神の民の歴史を導いて下さる、という信仰だと思います。第一朗読は紀元前8世紀の中頃から長年ユダ国王ヒルキヤの宮廷を支配していた書記官シェブナという人物に対する、預言者イザヤを介して語られた神の言葉であります。このシェブナという人は、国王がまだ幼く若い時に国政を担当し、国王の父アハズ王が晩年大国アッシリアに隷属した、その苦しい従属関係から王国を脱出させるため、紀元前714年と705年に反アッシリア同盟に加入して失敗し、二度とも降伏して辛うじて王国の滅亡を免れましたが、しかし、国土の大半を失い、国内にはアッシリアからの異教勢力が強まってしまいました。
   書記官シェブナがアブラハムの神を信じ、前の国王アハズの政治を改めてユダ王国を異教勢力から完全に自由にしようと、敬虔なヒゼキヤ王の下で努力し始めたのはある程度評価できますが、しかし推察するに、彼はあまりにも神のための自分の人間的企画にだけ心を向け、その成功と実現のために神の助けを祈り求めていたのではないでしょうか。神の民のためではありますが、自分が立てた企画のために神の力も利用しようとしていた所に、神の御旨に沿わない本末転倒があったようです。そのため本日の朗読の始めにあるように、神は「私はお前をその地位から追う。お前はその職務から退けられる」とおっしゃって、ヒルキヤの子エルヤキムにその宮廷長としての権限を移されたのだと思います。
   ヒゼキヤ王は、ユダ王国の『歴代誌』の著者から敬虔な王として高く評価され、神によってその寿命が延ばされた奇跡も伝えられています。何事にもまず神の御旨をたずね求めそれに従おうとする生き方が、神の祝福をこの世にもたらすのだと思われます。しかし、そのヒゼキヤ王の下には書記官シェブナのような人たちが、他にも多くいたのではないでしょうか。そのため、ユダ王国はその次の世代に大国バビロニアの侵略を受けて滅ぼされ、神の民はバビロン捕囚の憂き目を見るに至ったのだと思います。神のため、神の国のために自分でできる何かをしようとする人間的熱心には、危険な落とし穴が隠れていると思います。日常茶飯事の中での神からの小さな呼びかけを心が聴き洩らし、神の民のためにと思う自分の考えや企画を中心にして働こうとする危険性であります。
   2千年前のキリスト時代のファリサイ派の教育者たちも、そのような熱心に生きていた宗教者たちでした。ユダヤ教やユダヤ社会のためを思うその人間的熱心が、何よりも神からの声を鋭敏に感知すべき心のセンスを鈍らせ、神より派遣された神の御子イエスを、自分たちの伝統や神信仰を乱し、国を危険にする国賊として死刑を宣告させる方向に、ファリサイ派の多くの人の心が次第に転落して行きました。神の御旨への従順を二の次にして、人間社会や人間社会の考え中心主義の熱心に生きていたためであると思います。主は「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」と警告なさいましたが、現代の大きな過渡期に生きる私たちも気を付けましょう。マスコミが広めているこの世の人間的価値観や評価などに対しても、神の御旨中心主義の立場から、絶えず警戒する必要があると思います。そこには、主がおっしゃった「ファリサイ派のパン種」が隠れているかも知れませんので。
   ここで、人間中心の合理主義的現代文明のグローバルな広がりの中で、私たち人類の直面している危機について、もう少し考えてみましょう。アジアの各地では近年「水の争い」が発生しています。人口増加による食糧需要の高まりや、経済発展に伴う工業用水急増のためだと思います。インドでは、借金をして井戸を深く掘ったのに水が出ず、自殺する農民が後を絶たないと聞いています。大企業による工業用の水汲み上げのためだと思います。タイの穀倉地帯でも、水不足が深刻になっているそうです。宇宙から見れば、地球は他のどこにも見られない程美しい青い星で、まさに美しい「水の惑星」であります。でもその水のほとんどは海水で、私たちの生活に役立つ淡水は、全体の2.5%に過ぎません。しかも、その淡水の多くは南極や北極の氷山で、高い山の氷河などをも差し引いた河川や地下水の量は、地球全体の水量の0.7%だけのようです。
   東大の沖教授らの試算によりますと、水を安定的に得るのが困難な人たちは、今の段階で既に25億人に上っており、今世紀の半ばには約40億人に増加すると予測されているそうです。40億人と言えば、全人類の半数を超える人数ですので、商工業の発展で支配層や中間層の人々が裕福になっても、各国政府はそれぞれ深刻な問題を国内に抱えることになると思います。それに、後進国が先進国並みに近代化するにつれて地球温暖化は刻々と進み、気候の不順・自然災害の巨大化・生態系の乱れによる害虫や疫病の異常発生などで苦しむ人たちが、予想を遥かに超えて急増するかも知れません。巨大な過渡期に伴う若者の心の教育や鍛錬の不足で、現代社会に生き甲斐を感じられない人たちによる無差別の悪魔的通り魔事件や自爆事件なども、文明社会の真っただ中に多発するかも知れません。悲観的な話をしてしまいましたが、これからの人類社会はこれまでのようには楽観できないように思います。人間中心の近代科学によって苦しめた自然界からの反逆も、まともに受けることになると思われるからです。人類の一部である私たちも、主キリストと一致してその苦しみをあの世での人類の永遠の救いのため喜んで甘受しましょう。神に対するパーソナルな愛と信頼を新たにしながら生活するなら、神の導きと助けによってどんな苦難にも耐えることができると信じます。
   「パーソナルな愛」というあまり聞き慣れない言葉を使いましたが、私の学んだ聖トマス・アクィヌスの教えによると、神の愛には特定の個人を対象にしたパーソナルな愛amorと、全ての被造物を対象にしている博愛caritasという我なしの献身的奉仕的な愛の側面があるようで、この二つは一つのものではありますが、聖書の『雅歌』や聖ベルナルドの説教などでは、神の個別的なパーソナルな愛amorの側面が強調されているように思われます。余談になりますが、大戦中に戦地の兵隊さんたちのために何かの不便や苦しみを喜んで献げる、「欲しがりません。勝つまでは」の、祖国のため我なしの節約教育を受けた私は、戦後カトリックに改宗して神言会の修道生活に召されると、神に対する心のパーソナルな繋がりと献げとを重視するようになり、ヨーロッパ留学を終えて帰国した1966年頃の日本の、「贅沢は美徳」などと言われていた高度発展期の消費ブームになじめず、神に清貧を誓った身なのだからと、一緒に生活している他の会員たちの自由な見解に配慮し、それに合わせるよう心がけながらも、自分個人としては愛する神の御旨に心の眼を向けつつ、できるだけ節電・節水などに心がけていました。
   私が過去40年間に見聞きしたことを回顧しますと、現代文明の豊かさ・便利さの中で生活するようになった多くの修道者は、どこまで許されており何が禁止されているかという規則にだけ心を向けて、大きな愛をもって私たちに期待し、私たちを助けようとしておられる神のパーソナルな愛や御旨には、ほとんど注目していないように見えます。これは、2千年前に主イエスが身をもってお示しになった生き方ではなく、主が厳しく批判なされた規則中心のファリサイ的生き方に近いと思われます。そこには、神に対する幼子のような純真な愛が生きていませんから。世間の常識のままに水や電気を存分に消費していた修道者たちが、次々と召し出しを失ったり病気になったりした実例があまりにも多いように思います。神からの召命に留まり続けて豊かな実を結ぶには、規則遵守だけではなく、何よりも神のその時その時のパーソナルな愛の呼びかけや導きに心の眼を向けつつ、日々神への修道的献げを心を込めて証しする実践が、大切なのではないでしょうか。修道生活への召し出しは、神からの愛の呼びかけなのですから。

   本日の第二朗読で使徒パウロは、人間の理知的な頭では理解し難い神の定め・神の道の神秘について感嘆していますが、危機的現代の状況を賢明に無事生き抜くのにも、日々その神の導きに注目し、徹底的に従おうとする心がけが、一番大切なのではないでしょうか。また福音には、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、私の天の父なのだ」という主の御言葉が読まれます。その天の御父は今も、時として私たちの心をご自身の道具のように使って下さいます。全てを自分で考え、神のためにも自分の好きなように全てをしようとするのではなく、自分の心を神の御手にある粘土や道具のように考えて、神の霊にご自由に使ってもらいながら生きようとするのが、現代の複雑多難な危機を無事に生き抜く一番賢明な生き方なのではないでしょうか。私たちが人間の企画中心主義にならないよう警戒し、神の御旨中心の「委ねと従順の精神で」現代の危機を無事生き抜くことができますよう、照らしと恵みを願い求めながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2014年8月17日日曜日

説教集A2011年:第20主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願444 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 56章1節,6節~7節
 答唱詩編  55(1, 2, 3)(詩編 67・2+3, 4+5, 7+8)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 11章13節~15節,29節~32節
 アレルヤ唱 272(20A)(マタイ4・23)
 福音朗読  マタイによる福音書 15章21節~28節
 *晩の祈り 白 聖母の被昇天前晩の祈り

   本日の三つの朗読聖書に共通しているのは、「イスラエル人とは宗教の違う異教徒に対する開いた心」と称してよいと思います。イザヤ書の第三部56章から66章までは、バビロン捕囚から帰国した直後頃に第三イザヤが伝えた主の預言とされていますが、既に70年あまりも異教国で生活し、神が異教国でも自分たちの祈りに応えて助けて下さることを体験し、また多くの異教徒を友人・知人として持つに至った神の民は、もうかつてのように、異教徒を神の敵とは思わなくなっていたことでしょう。そこで主は本日の第一朗読に読まれるような話をなさったのです。「私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。主のもとに集まって来た異邦人が主に仕え」「私の契約を堅く守るなら、云々」と、異邦人も神による救いの恵みに参与する時代の来たことを告げ、最後に、「私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれる」とおっしゃったのです。神はかつてアブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と預言され、その後にも例えばソドムの滅亡の前には、「アブラハムは大きな強い国民になり、世界の全ての国民は彼によって祝福に入る」などと話しておられますが、いよいよ神のそのお言葉が実現する時が来た、と考えてよいのかも知れません。

   第二朗読であるローマ書11章は、ユダヤ人たちが救い主に躓いて罪を犯すことにより、救いの恵みが異邦人に齎される結果になったが、それはユダヤ人たちに妬みを起こさせるためであることを説いています。従って、本日の第二朗読の後半に読まれることですが、かつて神に不従順であった異邦人たちが、今はユダヤ人たちの不従順によって神の憐れみを受けるに至ったように、誇り高い「神の民」中心主義のこの世的精神で神よりの救い主を排斥し、今は不従順の状態に落ち込んでいるユダヤ人たちも、やがては神の憐れみを受けて、神から受けた自分たちの本来の使命に目覚め、救い主を全面的に受け入れる時が来ることを予告しています。神はこうして全ての民族を、彼らが祖先から受け継いでいる文化や宗教の違いを超えて、神の深い憐れみによって罪と死から救って下さるのです。

   アブラハムを太祖とするユダヤ人たちは、紀元前千九百年以上も前から度々神からの啓示や援助を受けて来た民族ですので、他の諸民族よりは遥かに多くの宗教的真理を保持していました。しかし、神が問題にしておられるのは、この世の人間の頭で理解した宗教的真理が多いか少ないか、正しいか間違っているかではなく、その人の心が万物の創り主であられる神の呼びかけや導きに従おうとしているか否かだと思います。正しい宗教的真理を豊かに受け継ぎ、それを誇りとしている民族は、自分の理解しているその古い真理や自分の産み出した思想に基づいて、しばしば神よりの新しい呼びかけや導きを謙虚に正しく受け入れず、それに従おうとする従順心に欠ける怖れがあります。2千年前にファリサイ派の宗教教育を受けた理知的ユダヤ人の中には、神からの新しい呼びかけや導きを正しく識別し、それに従って生きようとする従順心に不足していた人たちが少なくなかったために、エルサレムの滅亡を招き、流浪の民となる天罰を受けたのではないでしょうか。神から多く与えられた者は、それだけ多くまた厳しく神から求められると思います。旧約のユダヤ人たちとは比較にならない程多くの恵みを受けて来た私たちキリスト者たちも、現代のこの大きな過渡期に天罰を受けることのないよう気を付けましょう。神からの宗教的真理は、あの世の命に復活した後に初めて全面的に解るようになりますが、この世での人間理性の理解はまだまだ外的断片的で不十分なのです。神の無学な僕・婢として、徹底的従順に心掛けましょう。

   ご存じでしょうか。仏教には非常に多くの経典があり、それらは殆どが釈尊の説いた教えとされています。しかし、近代の学問的研究によりそれらの多く、特に大乗仏教系の経典は皆後世の作であることが明らかになっています。釈迦族の小さな王国の王子と生まれた釈迦は、16歳で結婚して男子を一人設けましたが、生老病死などの人生苦問題で悩むようになり、29歳の時に出家して二人の修行者についてヨーガを学んだり、6年間も苦行に励んだりしました。しかし、苦行は人生苦問題を解決しないことに気づき、35歳の時にブッダガヤーのアシュヴァッタ樹の下で坐禅したら、人生の背後に潜む絶対的ダルマ()・縁起・空などについての悟りを開くに至り、その後80歳で入滅するまで45年間も、人生苦に打ち克つこの実践的教えを多くの弟子たちに広めた宗教的偉人であります。ほぼ同じ時代に中国で教えを説いていた孔子は、全ての存在とその動きを支配しておられる絶対者を「天」という言葉で表現し、日々その「天」に祈っていましたが、釈尊はそのような生きる絶対者に祈るようなことはせず、インド人たちの信じていた数多くの神話的神々も、自分の悟った絶対的原理、全ての存在を根底から支配し生かしている真理によって、救われる必要があると見なしていました。


   その段階では釈尊の教えはまだ宗教の形態をとっていませんでしたが、しかし、私たちの信ずる全能の神は釈尊のこの悟りを重視し、そこから世界的宗教の一つ「仏教」を発展させて下さいました。これについて私は、20数年前に京都の東本願寺で開かれたある宗教的話し合いの場で私が司会をさせられた時、大谷大学の武田武麿教授から教わったのですが、武田氏はその時、「学問的史料的には立証できませんが、釈尊以来の原始仏教は、シルクロード貿易を介して知られるに至ったキリスト教信仰の影響を受けて大乗仏教に発展し、その後同じくキリスト教の影響を受けて阿弥陀仏信仰や念仏なども生ずるに至りました」と話していました。それを聞いて、当時大学で古代ローマ史や古代キリスト教史を教えていた私も新たに啓発され、武田氏と同様に考えるようになりました。そこには無数の仏教徒をキリストによる救いへと導かれる、神の新しい働きがあったのではないでしょうか。本日の福音に読まれるカナアンの女も、神の啓示の教えは何も知らずにいたと思いますが、神の憐れみをひたすらに求めそれに縋る真剣な心があるなら、神の恵みを受けることを示すために、主は弟子たちをわざわざユダヤの国外に連れて行き、異教徒の求める奇跡的癒しの恵みを与えられたのだと思います。

2014年8月16日土曜日

説教集A2011年:宝塚の修道院

8月16日(火曜・週日・緑)<祈願476~ 叙唱588~>
 第1朗読  士師記 6章11節~24節a
 答唱詩編  81(3, 4)(詩編85・9, 10+11)
 アレルヤ唱 273(26C)(二コリント8・9)
 福音朗読  マタイによる福音書 19章23節~30節
 〔聖ステファノ(ハンガリー) p100 <祈願808 叙唱614>〕

   京都に住むカトリック信者の古い知人から先週もらった長文の手紙によると、京都の国際日本文化研究センターでも、京都大学でも、花園大学でも、同志社大学でも、最近は諸宗教間の対話をテーマにした共同研究がブームになっていて、月一回、あるいは三カ月に一回などのそれらの集まりに参加してみると、「脱西欧」「非西欧」「ポストモダン」「脱構築」などの言葉がよく使われていて、従来とは異なる新しい視点で諸宗教が相互に話し合い協力し合う道を模索しているようですが、しかし自分の考えを説明する時も相手に質問する時も、これまでの西欧的理知的論述のままなので、一緒に何かを実践的に産み出したり発見したりする奥底の心の働きが乏しく、議論や論文は洪水のように多いが全てがバラバラで、それらが一つにまとまって来るような方向性は見えて来ない、というようなことが書いてありました。それで私は、「私は公会議の頃にカール・ラーナーが書いた『無名のキリスト者』の段階に留まっています」と返事をしましたが、その真意は、宗教問題については人間の産み出す見解や思想や宗派の違いなどは二の次で、各人の心が神の働きや呼びかけを鋭敏に識別してそれに従おうとすることが、何よりも大切だと言うことです。神は特定の宗教に所属する人たちの中でだけお働きになるのではなく、全ての人のために雨を降らせたり太陽の光と熱を与えたりしておられます。諸宗教の対話も、文化や宗教などの違いを超えて、その神の働きや呼びかけに従おうとする所から新しい道が開けて来るのではないか、というのが今の私の考えです。

   手紙をくれたその知人は、学校を定年退職した「団塊の世代」位の年齢ですが、その知人に返事を書いた直後のNHKラジオの深夜便に、1969年にはしだのりひこが歌った「風」が放送されていました。1969年と言えば70年安保闘争が一番盛り上がった時で、その頃大学生であった団塊の世代にとっては、大ヒットとなったこの流行歌「風」は今でも懐かしのメロディーだと思います。歌詞はうろ覚えですが、そこには「人は誰もただ独り。人は誰も故里を求めてふりかえるが、ふりかえってみても、そこにはただ風が吹いているだけ。ふりかえらずに、ただ進むだけ」というような言葉があります。それを聴いてふと、団塊の世代と言われる人たちの心の一面には、かつて受けた冷たい偏差値教育などから、家族や国家などへの献身的奉仕の愛や共同体精神に対する強い反発心が根を張っていて、それが現代社会を自分の理知的考えで変革しようとしたり、伝統的家族や地域社会の心情的結束を合理的核家族精神で弱め、次第に冷たいものにしてしまったりしたのではなかろうか、などと思いました。自分中心・目前の人間的損得中心のそのような精神で、いくら宗教問題や社会問題を論じ合っても、そこからは恒久的問題解決や明るい美しい世界の構築は期待できないと思います。

   アブラハムを太祖とするユダヤ人たちは、度々神からの啓示や援助を受けて来た民族ですので、他の諸民族よりは遥かに多くの宗教的真理を保持していました。しかし、神が問題にしておられるのは、この世の人間の頭で理解した宗教的真理が多いか少ないか、正しいか間違っているかではなく、その人々の心が万物の創り主であられる神よりの呼びかけや導きに従おうとしているか否かだと思います。正しい宗教的真理を豊かに受け継ぎ、それを誇りとしている民族は、自分の理解しているその古い真理や自分の産み出した思想に基づいて、屡々神よりの新しい呼びかけや導きを正しく理解できず、それを受け入れそれに従う謙虚さに欠けるおそれがあります。2千年前にファリサイ派の宗教教育を受けた理知的ユダヤ人の多くは、神からの新しい呼びかけや導きを正しく識別し、神の僕・婢となってそれに徹底的に従おうとするこの謙虚さに大いに不足していたため、国を失うという天罰を受けたのではないでしょうか。神から多くを与えられたものは、神からそれだけ多くまた厳しく要求されると思います。2千年前から旧約のユダヤ人たちとは比較にならない程多くの恵みを受けて来た私たちキリスト者たちも、現代のこの大きな過渡期に天罰を受けることのないように気を付けましょう。あの世の神からの宗教的真理は、あの世に移ってみて初めて全面的に明らかになるのです。この世での私たち人間の理解はまだまだ外的断片的で不十分なのです。神の無学な僕・婢としての、徹底的従順に心掛けましょう。

   ご存じでしょうか、仏教には非常に多くの経典があり、それらの殆どが釈尊の説いた教えとされています。しかし、近代の学問的研究によりそれらの多く、特に大乗仏教系の経典は皆後世の作であることが明らかになっています。釈迦族の小さな王国の王子と生まれた釈迦は、16歳で結婚して男子を一人設けましたが、生老病死などの人生問題に悩むようになり、遂に29歳の時に出家して二人の修行者についてヨーガを学んだり、6年間も苦行に励んだりしましたが、苦行は迷いを深めるだけであることに気づき、35歳の時にブッダガヤーのアシュヴァッタ樹の下で坐禅しながら、私たちの人生の背後に潜むダルマ()縁起などについての悟りを開き、その後80歳で入滅するまで45年間も、人生苦に打ち克つためのこの実践的教えを多くの弟子たちに広めた偉人であります。そのアシュヴァッタ樹は、釈尊がそこで悟り(すなわち菩提)を開いたというので、後に「菩提樹」と呼ばれるようになりましたが、ドイツ語でリンデンバウムと言われる西洋の菩提樹とは全く違う樹です。釈尊とほぼ同じ時代の孔子は、「天」という言葉で全世界を支配しておられる唯一神を信じ、その神に祈っていましたが、釈尊はそのような生きる超越的神に祈ることはせず、インド人たちの信じていた数多くの神話的神々も、自分の悟った原理に従って救済を必要とする存在と見なしていました。

   しかし、私たちの信ずる全能の神は釈尊の悟りを重視し、そこから世界的宗教の一つ仏教を発展させて下さいました。これについて私は、20数年前に大谷大学の武田武麿教授と話し合ったのですが、学問的史料的には立証できませんが、それまでの釈尊以来の所謂上座部仏教は、シルクロード貿易を介してキリスト教信仰の影響を受けて大乗仏教に発展し、その後阿弥陀仏信仰や念仏などが生じたのは、当時の歴史的状況から総合的に考えるとキリスト教の影響のようです。私も歴史家としてそのように考えます。そこには無数の仏教徒を主キリストによる救いヘと導こうとしておられる、神の新しい働きがあるのではないでしょうか。私たちの信奉するキリスト教の教義は知らなくても、神は問題になさらないようです。

   今秋の日曜の福音に読まれたカナアンの女も、神の啓示の教えは何も知らずにいたと思いますが、そういう人でも神の憐れみにひたすら縋る真剣な信仰心があるならば、神による恵みを受けることを示すために、主はわざわざユダヤの境界外にある「ティルスとシドンの地方」に弟子たちを連れて行き、癒しの奇跡を為されたのではないでしょうか。主は今も、異教徒の中で多くの奇跡的癒しの奇跡を行っておられます。しかし、現代のカトリック者の多くは、例えば原爆記念日になっても、神の御旨に心の眼を向けてそれに従おうとはせずに、ただマスコミに従ってこの世の社会や社会を脅かす危険にだけ目を向け、原子爆弾反対・原発反対などと叫んでいるのでは、神はお働きになりません。人間の産み出した考えを中心にして、その実現のために神の助けを祈り求めても、神はなかなかお助け下さらないようです。過去半世紀にわたって同じ叫びが繰り返されても、原子爆弾は廃棄されずその危険は居座り続けています。原爆被害者の永井隆は、神に眼を向けていました。長崎に原爆が投下された年の秋11月に、廃虚となった浦上天主堂の前広場で犠牲者の共同慰霊祭のミサが捧げられた時、遺族団を代表して弔辞。

   ご存じのように、わが国では14年程前から自殺する人、自死する人が毎年3万人を超えており、最近ではその数値が一日平均90件程で、殆ど高どまりの状態になっています。しかも自死する人たちの三分の二以上が男性で、自殺未遂の人たちはその数倍、乃至10倍近くもいると聞いています。この現象は、いったいどう考えたらよいのでしょうか。各人の宗教信仰についてのアンケートに対して「無宗教」と答える人の多いわが国では、自死する人の数値が一番高いようですが、しかし国際的に欧米や韓国や中国でも、あるいはその他の国々でも、昔に比べて自死する人たちが激増し、全世界では毎年百万人もの人たちが自死していると考えられているそうですから、これは、急速に発達した現代技術文明が外的豊かさ・便利さと共に、個人主義・自由主義・能率主義を家庭や社会の中に過度に普及させて、これまでの家族や社会の共同体的繋がりや束縛、助け合いや赦し合いなどの精神的絆を内側から無力にし、各個人の心を極度の個人主義的孤立の境地へと陥れている所に、一番の原因があるのではないでしょうか。聖書によりますと、人間は三位一体の共同体的愛の神に特別に似せて、共同体的愛の内に互いに深く結ばれ、愛し合って生きるよう男と女に創造された存在のようです。神が人間創造の初めに意図なされた目的に従い、人間の望みや考えを中心に万物を利用し、思いのままにしようとする考えを捨てて、主キリストや聖母マリアのように神の僕・神の婢として、神のお創りになった事物を大切にしながら、感謝と愛と喜びの内に、神の御旨中心に生活するよう心掛けましょう。人と人との考えや価値観が益々多様化しつつあるこれからの時代に、神の働きに導かれ助けられて幸せに生きる秘訣は、この心掛けにあると思います。


   60年程前に手島郁郎氏が熊本で創始した原始福音に従う幕屋運動。『生命の光』。

2014年8月15日金曜日

説教集A2011年:8月聖母の被昇天(三ケ日)

第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節
福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

   本日の集会祈願では、汚れのない聖母マリアの体も魂も天の栄光に上げられた神に、信じる民も聖母と共に永遠の喜びに入ることができますように、と願っており、奉納祈願でも拝領祈願でも、そのための聖母の取り次ぎを願っています。体ごとあの世の栄光に上げられた聖母は、確かに私たちの将来の幸せな姿を予告しており、私たちの希望と憧れの的でもあります。しかし本日は、天に上げられたその聖母の少し違うお姿について、皆様とご一緒に考えてみたいと思います。

   この世で神に忠実な清い生活をなし、小さな罪の償いまでも果たして帰天した聖人たちの霊魂は、天国に迎え入れられても、世の終わりに主イエスが栄光の内に再臨して全ての人が復活するまでは、まだ肉体を持たない状態、すなわち人間としては死の状態に留まっていますので、13世紀の偉大な神学者聖トマス・アクィヌスの考えでは、神から創られた人間本来の認識や活動ができない状態にあって、復活の日を待たされているのだそうです。霊魂は生きていますので、この世で体験した事柄の記憶は生前よりは遥かに明確に残っており、この世で親しくしていた人たちの思い出や、自分の為した善業や罪のことも忘れずにいると思います。としますと、この世にいる家族や知人たちの祈りは神を介して受け止め、自分に助けを祈り求める人たちのため神に取り次いで必要な助けを祈り求めることや、生前に自分と知り合った人たちの幸せを祈り求めることはできても、今の社会の新しい歴史的動向やその中で生きる無数の人たちの心の状態などを人間的認識能力で知ることも、それに対する行動を取ることもできずにいると思われます。

   ところが、永遠に死ぬことのないあの世の神の命に体ごと復活し、今も人間として生きておられる主イエスは、あの世の栄光の内にありながら、この世の歴史の動きを全て人間としても知っておられ、多くの人の救いのためにそれに対応する活動をなしておられると思います。主が最後の晩餐の時に話された数々の御言葉、たとえば「私はあなた方を孤児にはしておかない。私はあなた方の所に戻って来る」(ヨハネ14:18)などの御言葉や、マタイ福音書の最後に記されている「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」などのお言葉は、このことを示していると思います。栄光の体に復活なされた主は今も、新たな形でこの物質世界に受肉して目に見えないながら実際に私たちの間に生きる霊的人間として現存し、全人類を永遠の救いへと導きつつあり、私たち各人の生活をも、必要に応じて助け導いて下さるのです。信仰のない所に主は何もお出来になりません。しかし、この信仰と愛を持っている人たちは、度々小刻みに実際に主の導きや助けを体験しています。それは福者マザー・テレサの残された言葉や、その他の多くの聖人たちの言葉の中に現れていますが、小さいながら信仰に生きる私も、主からのそのような導きや助けを小刻みに数多く体験しています。

   体ごと天に上げられた聖母マリアも、世の終わりまでの主イエスのこのお働きに、母の心をもって参加するよう神によって特別に召されたのだと思います。40数年前に開催された第二ヴァチカン公会議は、教会憲章の第8章に聖母マリアについてかなり詳しく述べていますが、聖母マリアは恩寵の世界において我々の母であると明記し、教会教導職が代々勧めて来たマリアに対する信心業を重んずることや、我らの母を子どもとして愛し、母の徳を模倣することなどを勧めています。聖母マリアは、世の終りの復活の日まで肉体を持たない無数の聖人たちとは異なり、復活なされた主イエスと同様に実際にこの世の人類史の全てを細かく見ておられ、全ての人の救いのために涙を流しながら祈ったり助け導いたりしておられる、全人類の霊的母であると信じます。古代末期にも中世にも、聖母に祈ってその助けを体験した人は数知れず、それを記念したと思われる聖母の巡礼所や巡礼聖堂はヨーロッパに非常に多く残っています。天に上げられた聖母は、大きな過渡期の混乱と不安の中に生きている私たち人類に、何かをしきりに訴えておられると思います。終戦記念日にあたり、祈りの内にその聖母の「声なき声」に心の耳を傾け、武力に頼らない、思いやりと奉仕の愛に根ざした真の平和が人類社会の各国で実現するよう、神によって主イエスと共に今もこの世に霊的人間として生きておられる聖母の取り次ぎを願って祈り求めましょう。

2014年8月12日火曜日

説教集A2011年:前田家でのミサで

 第1朗読  ヨシュア記 24章1節~13節
 答唱詩編  133(1, 2)(詩編 136・3-6, 16+23+25+26)
 アレルヤ唱 270-57(一ペトロ 1・25)
 福音朗読  マタイによる福音書 19章3節~12節
 〔聖ヨハンナ・フランシスカ・ド・シャンタル修道女 p100 <祈願897 叙唱617>〕

   昨日午後に京都に住むカトリック信者の古い知人からもらった長文の手紙によると、京都の国際日本文化研究センターでも、京都大学でも、花園大学でも、同志社大学でも、この頃は諸宗教間の対話をテーマにした共同研究がブームになっていて、月一回、あるいは三カ月に一回などのそれらの集まりに参加してみると、「脱西欧」「非西欧」「ポストモダン」「脱構築」などの言葉がよく使われていても、自分の考えを説明する時も相手に質問する時も、これまでの西欧的論述のままで、一緒に何かを実践して産み出したり発見したりするということがないので、議論や論文は洪水のように多いが全てがバラバラで、それらが一つにまとまって来るような方向性は見えて来ない、というようなことが書いてありました。それで私は、「私は公会議の頃にカール・ラーナーが書いた『無名のキリスト者』の段階に留まっています」と返事をしましたが、その真意は、宗教問題については人間の産み出す見解や思想は二の次で、神の働きや呼びかけを鋭敏に識別してそれに従おうとすることが、何よりも大切だと言うことです。神は特定の宗教に所属する人たちの中でだけお働きになるのではなく、全ての人のために雨を降らせたり太陽の光と熱を与えたりしておられます。諸宗教の対話も、その神の働きや呼びかけに従おうとする所から、新しい道が開けて来るのではないでしょうか。

   アブラハムを太祖とするユダヤ人たちは、度々神からの啓示や援助を受けて来た民族ですので、他の諸民族よりは遥かに多くの宗教的真理を保持していました。しかし、神が問題にしておられるのは、この世の人間の頭で理解した宗教的真理が多いか少ないか、正しいか間違っているかではなく、その人々の心が万物の創り主であられる神よりの呼びかけや導きに従おうとしているか否かだと思います。正しい宗教的真理を豊かに受け継ぎ、それを誇りとしている民族は、自分の理解しているその古い真理や自分の産み出した思想に基づいて、屡々神よりの新しい呼びかけや導きを正しく理解できず、それを受け入れそれに従う謙虚さに欠けるおそれがあります。2千年前にファリサイ派の宗教教育を受けた理知的ユダヤ人の多くは、神からの新しい呼びかけや導きを正しく識別し、神の僕・婢となってそれに徹底的に従おうとするこの謙虚さに大いに不足していたため、国を失うという天罰を受けたのではないでしょうか。神から多くを与えられたものは、神からそれだけ多くまた厳しく要求されると思います。2千年前から旧約のユダヤ人たちとは比較にならない程多くの恵みを受けて来た私たちキリスト者たちも、現代のこの大きな過渡期に天罰を受けることのないように気を付けましょう。あの世の神からの宗教的真理は、あの世に移ってみて初めて全面的に明らかになるのです。この世での私たち人間の理解はまだまだ外的断片的で不十分なのです。神の無学な僕・婢としての、徹底的従順に心掛けましょう。

   ご存じでしょうか、仏教には非常に多くの経典があり、それらの殆どが釈尊の説いた教えとされています。しかし、近代の学問的研究によりそれらの多く、特に大乗仏教系の経典は皆後世の作であることが明らかになっています。釈迦族の小さな王国の王子と生まれた釈迦は、16歳で結婚して男子を一人設けましたが、生老病死などの人生問題に悩むようになり、遂に29歳の時に出家して二人の修行者についてヨーガを学んだり、6年間も苦行に励んだりしましたが、苦行は迷いを深めるだけであることに気づき、35歳の時にブッダガヤーのアシュヴァッタ樹の下で坐禅しながら、私たちの人生の背後に潜むダルマ()縁起などについての悟りを開き、その後80歳で入滅するまで45年間も、人生苦に打ち克つためのこの実践的教えを多くの弟子たちに広めた偉人であります。そのアシュヴァッタ樹は、釈尊がそこで悟り(すなわち菩提)を開いたというので、後に「菩提樹」と呼ばれるようになりましたが、ドイツ語でリンデンバウムと言われる西洋の菩提樹とは全く違う樹です。釈尊とほぼ同じ時代の孔子は、「天」という言葉で全世界を支配しておられる唯一神を信じ、その神に祈っていましたが、釈尊はそのような生きる超越的神に祈ることはせず、インド人たちの信じていた数多くの神話的神々も、自分の悟った原理に従って救済を必要とする存在と見なしていました。
   しかし、私たちの信ずる全能の神は釈尊の悟りを重視し、そこから世界的宗教の一つ仏教を発展させて下さいました。これについて私は、20数年前に大谷大学の武田武麿教授と話し合ったのですが、学問的史料的には立証できませんが、それまでの釈尊以来の所謂上座部仏教は、シルクロード貿易を介してキリスト教信仰の影響を受けて大乗仏教に発展し、その後阿弥陀仏信仰や念仏などが生じたのは、当時の歴史的状況から総合的に考えるとキリスト教の影響のようです。私も歴史家としてそのように考えます。そこには無数の仏教徒を主キリストによる救いヘと導こうとしておられる、神の新しい働きがあるのではないでしょうか。私たちの信奉するキリスト教の教義は知らなくても、神は問題になさらないようです。

   只今福音に読まれたカナアンの女も、神の啓示の教えは何も知らずにいたと思いますが、そういう人でも神の憐れみにひたすら縋る真剣な信仰心があるならば、神による恵みを受けることを示すために、主はわざわざユダヤの境界外にある「ティルスとシドンの地方」に弟子たちを連れて行き、癒しの奇跡を為されたのではないでしょうか。主は今も、異教徒の中で多くの奇跡的癒しの奇跡を行っておられます。しかし、現代のカトリック者の多くは、例えば原爆記念日になっても、神の御旨に心の眼を向けてそれに従おうとはせずに、ただマスコミに従ってこの世の社会や社会を脅かす危険にだけ目を向け、原子爆弾反対・原発反対などと叫んでいるのでは、神はお働きになりません。人間の産み出した考えを中心にして、その実現のために神の助けを祈り求めても、神はなかなかお助け下さらないようです。過去半世紀にわたって同じ叫びが繰り返されても、原子爆弾は廃棄されずその危険は居座り続けています。原爆被害者の永井隆は、神に眼を向けていました。長崎に原爆が投下された年の秋11月に、廃虚となった浦上天主堂の前広場で犠牲者の共同慰霊祭のミサが捧げられた時、遺族団を代表して弔辞を読んだ….


   ご存じのように、わが国では14年程前から自殺する人、自死する人が毎年3万人を超えており、最近ではその数値が一日平均90件程で、殆ど高どまりの状態になっています。しかも自死する人たちの三分の二以上が男性で、自殺未遂の人たちはその数倍、乃至10倍近くもいると聞いています。この現象は、いったいどう考えたらよいのでしょうか。各人の宗教信仰についてのアンケートに対して「無宗教」と答える人の多いわが国では、自死する人の数値が一番高いようですが、しかし国際的に欧米や韓国や中国でも、あるいはその他の国々でも、昔に比べて自死する人たちが激増し、全世界では毎年百万人もの人たちが自死していると考えられているそうですから、これは、急速に発達した現代技術文明が外的豊かさ・便利さと共に、個人主義・自由主義・能率主義を家庭や社会の中に過度に普及させて、これまでの家族や社会の共同体的繋がりや束縛、助け合いや赦し合いなどの精神的絆を内側から無力にし、各個人の心を極度の個人主義的孤立の境地へと陥れている所に、一番の原因があるのではないでしょうか。聖書によりますと、人間は三位一体の共同体的愛の神に特別に似せて、共同体的愛の内に互いに深く結ばれ、愛し合って生きるよう男と女に創造された存在のようです。神が人間創造の初めに意図なされた目的に従い、人間の望みや考えを中心に万物を利用し、思いのままにしようとする考えを捨てて、主キリストや聖母マリアのように神の僕・神の婢として、神のお創りになった事物を大切にしながら、感謝と愛と喜びの内に、神の御旨中心に生活するよう心掛けましょう。人と人との考えや価値観が益々多様化しつつあるこれからの時代に、神の働きに導かれ助けられて幸せに生きる秘訣は、この心掛けにあると思います。

2014年8月10日日曜日

説教集A2011年:第19主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 19章9a、11~13a節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 9章1~5節
福音朗読 マタイによる福音書 14章22~33節

  天から火を呼び下して真の神を証しし、バアルの神を礼拝させていた祭司数百人を民衆に殺害させたエリヤ預言者は、王妃イゼベルに命を狙われて逃れ、神の山ホレプに身を隠しましたが、本日の第一朗読は、その山の洞穴で夜を過ごしていた時の神ご出現の話であります。この出来事は、私たちがどこで一番多く神に出遭うかを、教えているのではないでしょうか。宇宙万物の支配者であられる神のご出現と聞くと、多くの人は、神が何か大きな力や徴しに伴われて人間にお現れになると思うでしょう。神は勿論そのようにしてご出現になることがお出来になりますし、世の終わりの時には、私たちの想像を絶するほど大きな権力に伴われて全人類の前に出現なさると思います。しかし、通常は深く隠れて私たちに伴っておられる神、隠れた所から私たちの日常茶飯事をそっと見守っておられる神なのではないでしょうか。

  ホレプの山で預言者エリヤに出現なさった時も、激しい風や地震や火の中でではなく、静かに囁く声が聞こえた時でした。あらかじめ「山の中で主の御前に立つ」よう命じられていたエリヤは、その静かに囁くような声が聞こえた時に、外套で顔を覆い、洞穴の入り口に出て、神からの新しい啓示を受けたのでした。神に出遭うには、この世の自分自身から抜け出る必要があります。目前の目に見えるこの世の事物現象から心を転じ、あの世の神の声に心の耳を傾ける静かなシナイ山上の心境に身を置いて、神の歩みに心の耳を澄ませましょう。そして神の臨在を感知したら、自分のいる暗い洞穴から出て、神の御前に立ちましょう。その時、私たちの心も神から何かの声、何かの新しい使命を聴くのではないでしょうか。

  本日の第二朗読に読まれる「肉による同胞」という言葉は、使徒パウロの血縁上の同胞にあたる全てのユダヤ人たちを指しています。当時のほとんどのユダヤ人たちが、真の神を信奉しながらも、その神から派遣された主キリストを正しく識別できずに、ある意味ではキリストに敵対する生き方を続けていることについて、パウロの心は深い悲しみと絶え間ない痛みとを感じて、その同胞たちのためなら、十字架上の主のように、自分も「神から見捨てられた者になってもよい」とさえ思うことがあったようです。これまでのユダヤ人の歴史全体は、救い主メシアを受け入れてその救いの御業に協力する方向に向かって来ており、そのために神から数々の豊かな恵みや厳しい訓練を受けて来たのに、いざそのメシアが神から派遣されて彼らの社会に生まれ育ったら、何よりも神の御旨に聴き従うという預言者的信仰と愛の精神を忘れ、この世の身分や富や学歴などを第一にするこの世中心の精神に囚われて、メシアが為した数多くのしるしを見聞きしながらも、自分たちのこの世の生活を危険にする者として、死刑を宣告してしまいました。私たちも彼らのように、神中心主義の預言者的信仰と愛の精神から離れないよう気を付けましょう。

  本日の福音は、数千人の人をパンで満腹させるという大きな奇跡の後で、主が夜の湖上を歩いて弟子たちの舟に近付いて来られた奇跡についての話であります。弟子たちの乗る舟は、陸から数キロ離れた、ガリラヤ湖の中央部に差し掛かった辺りで、逆風の波にもまれて進めずにいたようです。それは、現代のような大きな過渡期の複雑な風や浪に悩まされて、なかなか思うように進めずにいる教会のシンボル、あるいは人類社会や私たち各人の心のシンボルと観ることもできましょう。主は、そういう弟子たちの舟の近くに、暗い波の上を歩いて近づいて来られたのです。それを見た弟子たちは、幽霊だと思って恐怖の叫び声を上げましたが、主はすぐに「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と、彼らに呼びかけられました。「私である」という言葉は、ヘブライ語では「私はある」という神の御名とも関連しています。主は「ここに神がいる」という意味も込めて、「私だ」と話されたのだと思います。


  極度に多様化して複雑に変転する人間社会の様々な価値観が教会の中にまで入り、私たちの信仰生活まで悩ますような時、人間の理知的な考えで問題を解決しようとはせずに、まずは隠れて私たちに伴っておられる主キリストの現存に心の眼を向けるように致しましょう。外の強い風や波に心を向けると恐れが生じますが、一心に主のみを見つめて歩み、主を心の中にお迎えすると、不思議に風が静まり、主のお望みになる所へと進むことができます。ヨハネ福音書6章には、パンの奇跡の話の後で同じこの出来事が報告されていますが、そこでは本日のマタイ福音にあるように、「二人が舟に乗り込むと、風は静まった」だけではなく、ヨハネは「すると舟はすぐ彼らの目指す陸地に着いた」と、マタイの話を補足しています。としますと、主はパンの奇跡の後にも、水上を歩く、ペトロにも水上を歩かせる、風を静める、舟をすぐ目的地に到着させるなど、幾つもの大きな奇跡を弟子たちに体験させたことになります。これは、現代のように不安な激動時代に生きるキリスト者にとって、忘れてならない成功の秘訣であると思います。私たち自身のため、また他の多くの今、道を求めて悩み苦しんでいる人たちのために、そのようにして信仰一筋に生きるあの世的喜びの生き方を証しする、照らしと導きの恵みを祈り求めて本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

2014年8月3日日曜日

説教集A2011年:第18主日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 55章1~3節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章35、37~39節
福音朗読 マタイによる福音書 14章13~21節

   本日の第一朗読は、バビロン捕囚からの解放を告げた第二イザヤ預言者の最終の章からの引用であります。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」という呼びかけで始まる神の御言葉は、神を信ずる民を全ての飢え渇きから解放し、神の保護下にある新たな国で自由にまた豊かに生活できるようにしてあげようとする、神の大きな愛を示しています。しかし、「耳を傾けて聞き、私の許に来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」というお言葉は、心を何よりも神の御言葉、神の御導きに徹底的に従う方に向けることを求めています。そうすれば神は、民が数々の忘恩と裏切りの罪によって破棄した神との契約を再び締結し、民の犯した罪も赦して洗い流して下さることを約束しておられるのです。

   本日の第二朗読は、使徒パウロが改心後に体験した数々の困苦・迫害・危険と、神の導き・助けによるそれらの克服体験とに基づいて語った確信であります。「私たちは、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています」という勝利宣言や、「死も命も天使も、他のどんな被造物も」「神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」という言葉には、涙ぐましい程の力と喜びが籠っているように覚えます。私たちもその模範に倣い、これからの将来にどんな苦難・病苦・災害などに出遭おうとも、神の愛と助けを堅く信じつつ、勇気をもってそれらに対処するよう心がけましょう。本日の福音は、主が洗礼者ヨハネが殺された知らせを受けた後、察するにやがてご自身も先駆者ヨハネと同様に、この世の支配者たちから殺される運命にあることを思いつつ、まずは弟子たちと共に人里から遠く離れた所に退かれましたが、数千人の大群衆が主を慕って集まって来たので、彼らの求めに応じて終日病人を癒したりなさったりした後、夕暮れになってパン五つと魚二匹から食べ物を増やし、全ての人を満腹させたという、神のみが為すことのできる奇跡をなさった話であります。神は今でも、そのような奇跡をなさることに吝かでない程、私たちを愛しておられる方であると信じます。

   神のこの深い愛に心の眼を向けながら、本日は東日本大震災後に一部の日本人の心に密かに忍び寄っている不信や絶望の危険について、少し考えてみましょう。その大地震と津波で荒廃した風土と多くの屍を目前にした写真家の藤原新也氏は、雑誌『アエラ』の特別号で、「全土消滅・昭和消滅・神様消滅、云々」の題で、「このたび神は人を殺した」の言葉で始まる、水責めの地獄のような恐ろしい破壊の惨状を描いた後に、「人間の歴史の中で築かれた神の存在をいま疑う」「神はただのハリボテであり、もともとそこに神という存在そのものがなかっただけの話なのだ」などと書いています。そして「神幻想から自立し、自らの二本の足で立とうとする者ほど強いものはない。日本と日本人はいま、そのような旅立ちをせんとしている」と結んでいますが、しかし、人間がいかに小さく弱い存在であるかを知る者にとり、このような強がりを口にする人の内には、恐ろしく孤独な心が潜んでおり、その心は神不信だけではなく、やがて人間不信・社会不信・万物不信の絶望的状態へと落ち込んで行くのではないか、と恐れます。一週間余り前にノルウェーで爆破と乱射で約80人を殺害した32歳のブレイビク氏は、まだ自分の強がりの主張に留まっていると思いますが、同様に恐ろしく孤独な心境に堕ち込んで行くことでしょう。四日ほど前にNHKラジオで、殺人犯の心を描く時に流した、「氷の微笑」と題するアメリカの映画音楽を聴いていて、そんなことを考えていました。現代人の心の奥にも、そのような側面が潜んでいると思います。

   と申しますのは、技術文明・物質文明が高度に発達して、各人が家族や地域社会の絆や束縛から解放されて、極度の自由主義・個人主義の中に生活していますと、本来三位一体の共同体的神に似せて、共同体的無料奉仕の愛に生きるよう創られている人間の心は、無料奉仕の愛に生きるよりは全てを自分中心に考え利用しようとする、冷たい理知的精神で生きるようになり、愛の神からますます遠くに離れ、孤独に生きるようになります。共同体精神や愛の神から離れて孤独に悩むそのような人間の心に近づいて、その心を絶望へと巧みに導くのが悪魔たちの得意とする技術だと思います。悪魔は嘘ばかり告げると思ってはなりません。多くの真実や現実を人間に教えてくれます。そして自由に豊かに生きれるように見えるこの世の人生に、各人の自由を束縛するもの苦しめるものがどれ程たくさんあるかを分らせ、最後には神も、各個人を束縛する残酷な支配者であるかのように思わせる、懐疑と孤独と絶望へとその心を陥れようと努めて止みません。古来の家族的社会的な各種共同体が内面から瓦解しつつある現代文明社会は、そのような悪霊たちに格好の働き場を提供していると思います。気を付けましょう。

   実は、イタリアでは1990年代からエクソシストと言われる司祭たちが、精神医と密接に協力しながら悪魔つきと思われるような患者の治療・更生に携わることが多くなり、長年イタリア各地に滞在して度々日本の雑誌に寄稿している美術家島村菜津さんが、19996月に『エクソシストとの対話』という本を小学館から出版しています。私は同年7月に知人からこの本を贈られ、早速現代の悪魔つきと思われる人たちの治療や更生について、関心ある人たちにそのことを知らせています。しかし、21世紀に入るとイタリア各地でそのような事例が数多く報告されるようになったので、対応を迫られた教皇庁は急遽、そういうエクソシストを養成する講座を教皇庁立の機関として設立し、エクソシストを大勢養成しています。イタリアだけではなく、現代には世界的に悪霊の働きが活発になりつつあるのではないでしょうか。主キリストがこの世にお出でになった古代末期のオリエントにも、新約聖書の記事から知られるように悪霊たちの働きが盛んであったようですが、自由主義・個人主義が普及して豊かにまた便利に暮らしている人の多い現代世界にも、悪霊たちがこれから増々活発に活躍するのではないでしょうか。恐れることはありません。主キリストと内的に深く一致していましょう。現代の無数の人々のためその恵みを祈り求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。