2014年8月16日土曜日

説教集A2011年:宝塚の修道院

8月16日(火曜・週日・緑)<祈願476~ 叙唱588~>
 第1朗読  士師記 6章11節~24節a
 答唱詩編  81(3, 4)(詩編85・9, 10+11)
 アレルヤ唱 273(26C)(二コリント8・9)
 福音朗読  マタイによる福音書 19章23節~30節
 〔聖ステファノ(ハンガリー) p100 <祈願808 叙唱614>〕

   京都に住むカトリック信者の古い知人から先週もらった長文の手紙によると、京都の国際日本文化研究センターでも、京都大学でも、花園大学でも、同志社大学でも、最近は諸宗教間の対話をテーマにした共同研究がブームになっていて、月一回、あるいは三カ月に一回などのそれらの集まりに参加してみると、「脱西欧」「非西欧」「ポストモダン」「脱構築」などの言葉がよく使われていて、従来とは異なる新しい視点で諸宗教が相互に話し合い協力し合う道を模索しているようですが、しかし自分の考えを説明する時も相手に質問する時も、これまでの西欧的理知的論述のままなので、一緒に何かを実践的に産み出したり発見したりする奥底の心の働きが乏しく、議論や論文は洪水のように多いが全てがバラバラで、それらが一つにまとまって来るような方向性は見えて来ない、というようなことが書いてありました。それで私は、「私は公会議の頃にカール・ラーナーが書いた『無名のキリスト者』の段階に留まっています」と返事をしましたが、その真意は、宗教問題については人間の産み出す見解や思想や宗派の違いなどは二の次で、各人の心が神の働きや呼びかけを鋭敏に識別してそれに従おうとすることが、何よりも大切だと言うことです。神は特定の宗教に所属する人たちの中でだけお働きになるのではなく、全ての人のために雨を降らせたり太陽の光と熱を与えたりしておられます。諸宗教の対話も、文化や宗教などの違いを超えて、その神の働きや呼びかけに従おうとする所から新しい道が開けて来るのではないか、というのが今の私の考えです。

   手紙をくれたその知人は、学校を定年退職した「団塊の世代」位の年齢ですが、その知人に返事を書いた直後のNHKラジオの深夜便に、1969年にはしだのりひこが歌った「風」が放送されていました。1969年と言えば70年安保闘争が一番盛り上がった時で、その頃大学生であった団塊の世代にとっては、大ヒットとなったこの流行歌「風」は今でも懐かしのメロディーだと思います。歌詞はうろ覚えですが、そこには「人は誰もただ独り。人は誰も故里を求めてふりかえるが、ふりかえってみても、そこにはただ風が吹いているだけ。ふりかえらずに、ただ進むだけ」というような言葉があります。それを聴いてふと、団塊の世代と言われる人たちの心の一面には、かつて受けた冷たい偏差値教育などから、家族や国家などへの献身的奉仕の愛や共同体精神に対する強い反発心が根を張っていて、それが現代社会を自分の理知的考えで変革しようとしたり、伝統的家族や地域社会の心情的結束を合理的核家族精神で弱め、次第に冷たいものにしてしまったりしたのではなかろうか、などと思いました。自分中心・目前の人間的損得中心のそのような精神で、いくら宗教問題や社会問題を論じ合っても、そこからは恒久的問題解決や明るい美しい世界の構築は期待できないと思います。

   アブラハムを太祖とするユダヤ人たちは、度々神からの啓示や援助を受けて来た民族ですので、他の諸民族よりは遥かに多くの宗教的真理を保持していました。しかし、神が問題にしておられるのは、この世の人間の頭で理解した宗教的真理が多いか少ないか、正しいか間違っているかではなく、その人々の心が万物の創り主であられる神よりの呼びかけや導きに従おうとしているか否かだと思います。正しい宗教的真理を豊かに受け継ぎ、それを誇りとしている民族は、自分の理解しているその古い真理や自分の産み出した思想に基づいて、屡々神よりの新しい呼びかけや導きを正しく理解できず、それを受け入れそれに従う謙虚さに欠けるおそれがあります。2千年前にファリサイ派の宗教教育を受けた理知的ユダヤ人の多くは、神からの新しい呼びかけや導きを正しく識別し、神の僕・婢となってそれに徹底的に従おうとするこの謙虚さに大いに不足していたため、国を失うという天罰を受けたのではないでしょうか。神から多くを与えられたものは、神からそれだけ多くまた厳しく要求されると思います。2千年前から旧約のユダヤ人たちとは比較にならない程多くの恵みを受けて来た私たちキリスト者たちも、現代のこの大きな過渡期に天罰を受けることのないように気を付けましょう。あの世の神からの宗教的真理は、あの世に移ってみて初めて全面的に明らかになるのです。この世での私たち人間の理解はまだまだ外的断片的で不十分なのです。神の無学な僕・婢としての、徹底的従順に心掛けましょう。

   ご存じでしょうか、仏教には非常に多くの経典があり、それらの殆どが釈尊の説いた教えとされています。しかし、近代の学問的研究によりそれらの多く、特に大乗仏教系の経典は皆後世の作であることが明らかになっています。釈迦族の小さな王国の王子と生まれた釈迦は、16歳で結婚して男子を一人設けましたが、生老病死などの人生問題に悩むようになり、遂に29歳の時に出家して二人の修行者についてヨーガを学んだり、6年間も苦行に励んだりしましたが、苦行は迷いを深めるだけであることに気づき、35歳の時にブッダガヤーのアシュヴァッタ樹の下で坐禅しながら、私たちの人生の背後に潜むダルマ()縁起などについての悟りを開き、その後80歳で入滅するまで45年間も、人生苦に打ち克つためのこの実践的教えを多くの弟子たちに広めた偉人であります。そのアシュヴァッタ樹は、釈尊がそこで悟り(すなわち菩提)を開いたというので、後に「菩提樹」と呼ばれるようになりましたが、ドイツ語でリンデンバウムと言われる西洋の菩提樹とは全く違う樹です。釈尊とほぼ同じ時代の孔子は、「天」という言葉で全世界を支配しておられる唯一神を信じ、その神に祈っていましたが、釈尊はそのような生きる超越的神に祈ることはせず、インド人たちの信じていた数多くの神話的神々も、自分の悟った原理に従って救済を必要とする存在と見なしていました。

   しかし、私たちの信ずる全能の神は釈尊の悟りを重視し、そこから世界的宗教の一つ仏教を発展させて下さいました。これについて私は、20数年前に大谷大学の武田武麿教授と話し合ったのですが、学問的史料的には立証できませんが、それまでの釈尊以来の所謂上座部仏教は、シルクロード貿易を介してキリスト教信仰の影響を受けて大乗仏教に発展し、その後阿弥陀仏信仰や念仏などが生じたのは、当時の歴史的状況から総合的に考えるとキリスト教の影響のようです。私も歴史家としてそのように考えます。そこには無数の仏教徒を主キリストによる救いヘと導こうとしておられる、神の新しい働きがあるのではないでしょうか。私たちの信奉するキリスト教の教義は知らなくても、神は問題になさらないようです。

   今秋の日曜の福音に読まれたカナアンの女も、神の啓示の教えは何も知らずにいたと思いますが、そういう人でも神の憐れみにひたすら縋る真剣な信仰心があるならば、神による恵みを受けることを示すために、主はわざわざユダヤの境界外にある「ティルスとシドンの地方」に弟子たちを連れて行き、癒しの奇跡を為されたのではないでしょうか。主は今も、異教徒の中で多くの奇跡的癒しの奇跡を行っておられます。しかし、現代のカトリック者の多くは、例えば原爆記念日になっても、神の御旨に心の眼を向けてそれに従おうとはせずに、ただマスコミに従ってこの世の社会や社会を脅かす危険にだけ目を向け、原子爆弾反対・原発反対などと叫んでいるのでは、神はお働きになりません。人間の産み出した考えを中心にして、その実現のために神の助けを祈り求めても、神はなかなかお助け下さらないようです。過去半世紀にわたって同じ叫びが繰り返されても、原子爆弾は廃棄されずその危険は居座り続けています。原爆被害者の永井隆は、神に眼を向けていました。長崎に原爆が投下された年の秋11月に、廃虚となった浦上天主堂の前広場で犠牲者の共同慰霊祭のミサが捧げられた時、遺族団を代表して弔辞。

   ご存じのように、わが国では14年程前から自殺する人、自死する人が毎年3万人を超えており、最近ではその数値が一日平均90件程で、殆ど高どまりの状態になっています。しかも自死する人たちの三分の二以上が男性で、自殺未遂の人たちはその数倍、乃至10倍近くもいると聞いています。この現象は、いったいどう考えたらよいのでしょうか。各人の宗教信仰についてのアンケートに対して「無宗教」と答える人の多いわが国では、自死する人の数値が一番高いようですが、しかし国際的に欧米や韓国や中国でも、あるいはその他の国々でも、昔に比べて自死する人たちが激増し、全世界では毎年百万人もの人たちが自死していると考えられているそうですから、これは、急速に発達した現代技術文明が外的豊かさ・便利さと共に、個人主義・自由主義・能率主義を家庭や社会の中に過度に普及させて、これまでの家族や社会の共同体的繋がりや束縛、助け合いや赦し合いなどの精神的絆を内側から無力にし、各個人の心を極度の個人主義的孤立の境地へと陥れている所に、一番の原因があるのではないでしょうか。聖書によりますと、人間は三位一体の共同体的愛の神に特別に似せて、共同体的愛の内に互いに深く結ばれ、愛し合って生きるよう男と女に創造された存在のようです。神が人間創造の初めに意図なされた目的に従い、人間の望みや考えを中心に万物を利用し、思いのままにしようとする考えを捨てて、主キリストや聖母マリアのように神の僕・神の婢として、神のお創りになった事物を大切にしながら、感謝と愛と喜びの内に、神の御旨中心に生活するよう心掛けましょう。人と人との考えや価値観が益々多様化しつつあるこれからの時代に、神の働きに導かれ助けられて幸せに生きる秘訣は、この心掛けにあると思います。


   60年程前に手島郁郎氏が熊本で創始した原始福音に従う幕屋運動。『生命の光』。