2014年8月10日日曜日

説教集A2011年:第19主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 19章9a、11~13a節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 9章1~5節
福音朗読 マタイによる福音書 14章22~33節

  天から火を呼び下して真の神を証しし、バアルの神を礼拝させていた祭司数百人を民衆に殺害させたエリヤ預言者は、王妃イゼベルに命を狙われて逃れ、神の山ホレプに身を隠しましたが、本日の第一朗読は、その山の洞穴で夜を過ごしていた時の神ご出現の話であります。この出来事は、私たちがどこで一番多く神に出遭うかを、教えているのではないでしょうか。宇宙万物の支配者であられる神のご出現と聞くと、多くの人は、神が何か大きな力や徴しに伴われて人間にお現れになると思うでしょう。神は勿論そのようにしてご出現になることがお出来になりますし、世の終わりの時には、私たちの想像を絶するほど大きな権力に伴われて全人類の前に出現なさると思います。しかし、通常は深く隠れて私たちに伴っておられる神、隠れた所から私たちの日常茶飯事をそっと見守っておられる神なのではないでしょうか。

  ホレプの山で預言者エリヤに出現なさった時も、激しい風や地震や火の中でではなく、静かに囁く声が聞こえた時でした。あらかじめ「山の中で主の御前に立つ」よう命じられていたエリヤは、その静かに囁くような声が聞こえた時に、外套で顔を覆い、洞穴の入り口に出て、神からの新しい啓示を受けたのでした。神に出遭うには、この世の自分自身から抜け出る必要があります。目前の目に見えるこの世の事物現象から心を転じ、あの世の神の声に心の耳を傾ける静かなシナイ山上の心境に身を置いて、神の歩みに心の耳を澄ませましょう。そして神の臨在を感知したら、自分のいる暗い洞穴から出て、神の御前に立ちましょう。その時、私たちの心も神から何かの声、何かの新しい使命を聴くのではないでしょうか。

  本日の第二朗読に読まれる「肉による同胞」という言葉は、使徒パウロの血縁上の同胞にあたる全てのユダヤ人たちを指しています。当時のほとんどのユダヤ人たちが、真の神を信奉しながらも、その神から派遣された主キリストを正しく識別できずに、ある意味ではキリストに敵対する生き方を続けていることについて、パウロの心は深い悲しみと絶え間ない痛みとを感じて、その同胞たちのためなら、十字架上の主のように、自分も「神から見捨てられた者になってもよい」とさえ思うことがあったようです。これまでのユダヤ人の歴史全体は、救い主メシアを受け入れてその救いの御業に協力する方向に向かって来ており、そのために神から数々の豊かな恵みや厳しい訓練を受けて来たのに、いざそのメシアが神から派遣されて彼らの社会に生まれ育ったら、何よりも神の御旨に聴き従うという預言者的信仰と愛の精神を忘れ、この世の身分や富や学歴などを第一にするこの世中心の精神に囚われて、メシアが為した数多くのしるしを見聞きしながらも、自分たちのこの世の生活を危険にする者として、死刑を宣告してしまいました。私たちも彼らのように、神中心主義の預言者的信仰と愛の精神から離れないよう気を付けましょう。

  本日の福音は、数千人の人をパンで満腹させるという大きな奇跡の後で、主が夜の湖上を歩いて弟子たちの舟に近付いて来られた奇跡についての話であります。弟子たちの乗る舟は、陸から数キロ離れた、ガリラヤ湖の中央部に差し掛かった辺りで、逆風の波にもまれて進めずにいたようです。それは、現代のような大きな過渡期の複雑な風や浪に悩まされて、なかなか思うように進めずにいる教会のシンボル、あるいは人類社会や私たち各人の心のシンボルと観ることもできましょう。主は、そういう弟子たちの舟の近くに、暗い波の上を歩いて近づいて来られたのです。それを見た弟子たちは、幽霊だと思って恐怖の叫び声を上げましたが、主はすぐに「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と、彼らに呼びかけられました。「私である」という言葉は、ヘブライ語では「私はある」という神の御名とも関連しています。主は「ここに神がいる」という意味も込めて、「私だ」と話されたのだと思います。


  極度に多様化して複雑に変転する人間社会の様々な価値観が教会の中にまで入り、私たちの信仰生活まで悩ますような時、人間の理知的な考えで問題を解決しようとはせずに、まずは隠れて私たちに伴っておられる主キリストの現存に心の眼を向けるように致しましょう。外の強い風や波に心を向けると恐れが生じますが、一心に主のみを見つめて歩み、主を心の中にお迎えすると、不思議に風が静まり、主のお望みになる所へと進むことができます。ヨハネ福音書6章には、パンの奇跡の話の後で同じこの出来事が報告されていますが、そこでは本日のマタイ福音にあるように、「二人が舟に乗り込むと、風は静まった」だけではなく、ヨハネは「すると舟はすぐ彼らの目指す陸地に着いた」と、マタイの話を補足しています。としますと、主はパンの奇跡の後にも、水上を歩く、ペトロにも水上を歩かせる、風を静める、舟をすぐ目的地に到着させるなど、幾つもの大きな奇跡を弟子たちに体験させたことになります。これは、現代のように不安な激動時代に生きるキリスト者にとって、忘れてならない成功の秘訣であると思います。私たち自身のため、また他の多くの今、道を求めて悩み苦しんでいる人たちのために、そのようにして信仰一筋に生きるあの世的喜びの生き方を証しする、照らしと導きの恵みを祈り求めて本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。