2014年8月17日日曜日

説教集A2011年:第20主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願444 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 56章1節,6節~7節
 答唱詩編  55(1, 2, 3)(詩編 67・2+3, 4+5, 7+8)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 11章13節~15節,29節~32節
 アレルヤ唱 272(20A)(マタイ4・23)
 福音朗読  マタイによる福音書 15章21節~28節
 *晩の祈り 白 聖母の被昇天前晩の祈り

   本日の三つの朗読聖書に共通しているのは、「イスラエル人とは宗教の違う異教徒に対する開いた心」と称してよいと思います。イザヤ書の第三部56章から66章までは、バビロン捕囚から帰国した直後頃に第三イザヤが伝えた主の預言とされていますが、既に70年あまりも異教国で生活し、神が異教国でも自分たちの祈りに応えて助けて下さることを体験し、また多くの異教徒を友人・知人として持つに至った神の民は、もうかつてのように、異教徒を神の敵とは思わなくなっていたことでしょう。そこで主は本日の第一朗読に読まれるような話をなさったのです。「私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。主のもとに集まって来た異邦人が主に仕え」「私の契約を堅く守るなら、云々」と、異邦人も神による救いの恵みに参与する時代の来たことを告げ、最後に、「私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれる」とおっしゃったのです。神はかつてアブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と預言され、その後にも例えばソドムの滅亡の前には、「アブラハムは大きな強い国民になり、世界の全ての国民は彼によって祝福に入る」などと話しておられますが、いよいよ神のそのお言葉が実現する時が来た、と考えてよいのかも知れません。

   第二朗読であるローマ書11章は、ユダヤ人たちが救い主に躓いて罪を犯すことにより、救いの恵みが異邦人に齎される結果になったが、それはユダヤ人たちに妬みを起こさせるためであることを説いています。従って、本日の第二朗読の後半に読まれることですが、かつて神に不従順であった異邦人たちが、今はユダヤ人たちの不従順によって神の憐れみを受けるに至ったように、誇り高い「神の民」中心主義のこの世的精神で神よりの救い主を排斥し、今は不従順の状態に落ち込んでいるユダヤ人たちも、やがては神の憐れみを受けて、神から受けた自分たちの本来の使命に目覚め、救い主を全面的に受け入れる時が来ることを予告しています。神はこうして全ての民族を、彼らが祖先から受け継いでいる文化や宗教の違いを超えて、神の深い憐れみによって罪と死から救って下さるのです。

   アブラハムを太祖とするユダヤ人たちは、紀元前千九百年以上も前から度々神からの啓示や援助を受けて来た民族ですので、他の諸民族よりは遥かに多くの宗教的真理を保持していました。しかし、神が問題にしておられるのは、この世の人間の頭で理解した宗教的真理が多いか少ないか、正しいか間違っているかではなく、その人の心が万物の創り主であられる神の呼びかけや導きに従おうとしているか否かだと思います。正しい宗教的真理を豊かに受け継ぎ、それを誇りとしている民族は、自分の理解しているその古い真理や自分の産み出した思想に基づいて、しばしば神よりの新しい呼びかけや導きを謙虚に正しく受け入れず、それに従おうとする従順心に欠ける怖れがあります。2千年前にファリサイ派の宗教教育を受けた理知的ユダヤ人の中には、神からの新しい呼びかけや導きを正しく識別し、それに従って生きようとする従順心に不足していた人たちが少なくなかったために、エルサレムの滅亡を招き、流浪の民となる天罰を受けたのではないでしょうか。神から多く与えられた者は、それだけ多くまた厳しく神から求められると思います。旧約のユダヤ人たちとは比較にならない程多くの恵みを受けて来た私たちキリスト者たちも、現代のこの大きな過渡期に天罰を受けることのないよう気を付けましょう。神からの宗教的真理は、あの世の命に復活した後に初めて全面的に解るようになりますが、この世での人間理性の理解はまだまだ外的断片的で不十分なのです。神の無学な僕・婢として、徹底的従順に心掛けましょう。

   ご存じでしょうか。仏教には非常に多くの経典があり、それらは殆どが釈尊の説いた教えとされています。しかし、近代の学問的研究によりそれらの多く、特に大乗仏教系の経典は皆後世の作であることが明らかになっています。釈迦族の小さな王国の王子と生まれた釈迦は、16歳で結婚して男子を一人設けましたが、生老病死などの人生苦問題で悩むようになり、29歳の時に出家して二人の修行者についてヨーガを学んだり、6年間も苦行に励んだりしました。しかし、苦行は人生苦問題を解決しないことに気づき、35歳の時にブッダガヤーのアシュヴァッタ樹の下で坐禅したら、人生の背後に潜む絶対的ダルマ()・縁起・空などについての悟りを開くに至り、その後80歳で入滅するまで45年間も、人生苦に打ち克つこの実践的教えを多くの弟子たちに広めた宗教的偉人であります。ほぼ同じ時代に中国で教えを説いていた孔子は、全ての存在とその動きを支配しておられる絶対者を「天」という言葉で表現し、日々その「天」に祈っていましたが、釈尊はそのような生きる絶対者に祈るようなことはせず、インド人たちの信じていた数多くの神話的神々も、自分の悟った絶対的原理、全ての存在を根底から支配し生かしている真理によって、救われる必要があると見なしていました。


   その段階では釈尊の教えはまだ宗教の形態をとっていませんでしたが、しかし、私たちの信ずる全能の神は釈尊のこの悟りを重視し、そこから世界的宗教の一つ「仏教」を発展させて下さいました。これについて私は、20数年前に京都の東本願寺で開かれたある宗教的話し合いの場で私が司会をさせられた時、大谷大学の武田武麿教授から教わったのですが、武田氏はその時、「学問的史料的には立証できませんが、釈尊以来の原始仏教は、シルクロード貿易を介して知られるに至ったキリスト教信仰の影響を受けて大乗仏教に発展し、その後同じくキリスト教の影響を受けて阿弥陀仏信仰や念仏なども生ずるに至りました」と話していました。それを聞いて、当時大学で古代ローマ史や古代キリスト教史を教えていた私も新たに啓発され、武田氏と同様に考えるようになりました。そこには無数の仏教徒をキリストによる救いへと導かれる、神の新しい働きがあったのではないでしょうか。本日の福音に読まれるカナアンの女も、神の啓示の教えは何も知らずにいたと思いますが、神の憐れみをひたすらに求めそれに縋る真剣な心があるなら、神の恵みを受けることを示すために、主は弟子たちをわざわざユダヤの国外に連れて行き、異教徒の求める奇跡的癒しの恵みを与えられたのだと思います。