2014年8月24日日曜日

説教集A2011年:第21主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願444 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 22章19節~23節
 答唱詩編  134(1, 2, 3)(詩編 138・1+2ab, 4+5+7d, 8)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 11章33節~36節
 アレルヤ唱 269(21A)(マタイ16・18)
 福音朗読  マタイによる福音書 16章13節~20節

   本日の三つの朗読聖書に共通しているのは、全能の神がその御摂理によって神の民の歴史を導いて下さる、という信仰だと思います。第一朗読は紀元前8世紀の中頃から長年ユダ国王ヒルキヤの宮廷を支配していた書記官シェブナという人物に対する、預言者イザヤを介して語られた神の言葉であります。このシェブナという人は、国王がまだ幼く若い時に国政を担当し、国王の父アハズ王が晩年大国アッシリアに隷属した、その苦しい従属関係から王国を脱出させるため、紀元前714年と705年に反アッシリア同盟に加入して失敗し、二度とも降伏して辛うじて王国の滅亡を免れましたが、しかし、国土の大半を失い、国内にはアッシリアからの異教勢力が強まってしまいました。
   書記官シェブナがアブラハムの神を信じ、前の国王アハズの政治を改めてユダ王国を異教勢力から完全に自由にしようと、敬虔なヒゼキヤ王の下で努力し始めたのはある程度評価できますが、しかし推察するに、彼はあまりにも神のための自分の人間的企画にだけ心を向け、その成功と実現のために神の助けを祈り求めていたのではないでしょうか。神の民のためではありますが、自分が立てた企画のために神の力も利用しようとしていた所に、神の御旨に沿わない本末転倒があったようです。そのため本日の朗読の始めにあるように、神は「私はお前をその地位から追う。お前はその職務から退けられる」とおっしゃって、ヒルキヤの子エルヤキムにその宮廷長としての権限を移されたのだと思います。
   ヒゼキヤ王は、ユダ王国の『歴代誌』の著者から敬虔な王として高く評価され、神によってその寿命が延ばされた奇跡も伝えられています。何事にもまず神の御旨をたずね求めそれに従おうとする生き方が、神の祝福をこの世にもたらすのだと思われます。しかし、そのヒゼキヤ王の下には書記官シェブナのような人たちが、他にも多くいたのではないでしょうか。そのため、ユダ王国はその次の世代に大国バビロニアの侵略を受けて滅ぼされ、神の民はバビロン捕囚の憂き目を見るに至ったのだと思います。神のため、神の国のために自分でできる何かをしようとする人間的熱心には、危険な落とし穴が隠れていると思います。日常茶飯事の中での神からの小さな呼びかけを心が聴き洩らし、神の民のためにと思う自分の考えや企画を中心にして働こうとする危険性であります。
   2千年前のキリスト時代のファリサイ派の教育者たちも、そのような熱心に生きていた宗教者たちでした。ユダヤ教やユダヤ社会のためを思うその人間的熱心が、何よりも神からの声を鋭敏に感知すべき心のセンスを鈍らせ、神より派遣された神の御子イエスを、自分たちの伝統や神信仰を乱し、国を危険にする国賊として死刑を宣告させる方向に、ファリサイ派の多くの人の心が次第に転落して行きました。神の御旨への従順を二の次にして、人間社会や人間社会の考え中心主義の熱心に生きていたためであると思います。主は「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」と警告なさいましたが、現代の大きな過渡期に生きる私たちも気を付けましょう。マスコミが広めているこの世の人間的価値観や評価などに対しても、神の御旨中心主義の立場から、絶えず警戒する必要があると思います。そこには、主がおっしゃった「ファリサイ派のパン種」が隠れているかも知れませんので。
   ここで、人間中心の合理主義的現代文明のグローバルな広がりの中で、私たち人類の直面している危機について、もう少し考えてみましょう。アジアの各地では近年「水の争い」が発生しています。人口増加による食糧需要の高まりや、経済発展に伴う工業用水急増のためだと思います。インドでは、借金をして井戸を深く掘ったのに水が出ず、自殺する農民が後を絶たないと聞いています。大企業による工業用の水汲み上げのためだと思います。タイの穀倉地帯でも、水不足が深刻になっているそうです。宇宙から見れば、地球は他のどこにも見られない程美しい青い星で、まさに美しい「水の惑星」であります。でもその水のほとんどは海水で、私たちの生活に役立つ淡水は、全体の2.5%に過ぎません。しかも、その淡水の多くは南極や北極の氷山で、高い山の氷河などをも差し引いた河川や地下水の量は、地球全体の水量の0.7%だけのようです。
   東大の沖教授らの試算によりますと、水を安定的に得るのが困難な人たちは、今の段階で既に25億人に上っており、今世紀の半ばには約40億人に増加すると予測されているそうです。40億人と言えば、全人類の半数を超える人数ですので、商工業の発展で支配層や中間層の人々が裕福になっても、各国政府はそれぞれ深刻な問題を国内に抱えることになると思います。それに、後進国が先進国並みに近代化するにつれて地球温暖化は刻々と進み、気候の不順・自然災害の巨大化・生態系の乱れによる害虫や疫病の異常発生などで苦しむ人たちが、予想を遥かに超えて急増するかも知れません。巨大な過渡期に伴う若者の心の教育や鍛錬の不足で、現代社会に生き甲斐を感じられない人たちによる無差別の悪魔的通り魔事件や自爆事件なども、文明社会の真っただ中に多発するかも知れません。悲観的な話をしてしまいましたが、これからの人類社会はこれまでのようには楽観できないように思います。人間中心の近代科学によって苦しめた自然界からの反逆も、まともに受けることになると思われるからです。人類の一部である私たちも、主キリストと一致してその苦しみをあの世での人類の永遠の救いのため喜んで甘受しましょう。神に対するパーソナルな愛と信頼を新たにしながら生活するなら、神の導きと助けによってどんな苦難にも耐えることができると信じます。
   「パーソナルな愛」というあまり聞き慣れない言葉を使いましたが、私の学んだ聖トマス・アクィヌスの教えによると、神の愛には特定の個人を対象にしたパーソナルな愛amorと、全ての被造物を対象にしている博愛caritasという我なしの献身的奉仕的な愛の側面があるようで、この二つは一つのものではありますが、聖書の『雅歌』や聖ベルナルドの説教などでは、神の個別的なパーソナルな愛amorの側面が強調されているように思われます。余談になりますが、大戦中に戦地の兵隊さんたちのために何かの不便や苦しみを喜んで献げる、「欲しがりません。勝つまでは」の、祖国のため我なしの節約教育を受けた私は、戦後カトリックに改宗して神言会の修道生活に召されると、神に対する心のパーソナルな繋がりと献げとを重視するようになり、ヨーロッパ留学を終えて帰国した1966年頃の日本の、「贅沢は美徳」などと言われていた高度発展期の消費ブームになじめず、神に清貧を誓った身なのだからと、一緒に生活している他の会員たちの自由な見解に配慮し、それに合わせるよう心がけながらも、自分個人としては愛する神の御旨に心の眼を向けつつ、できるだけ節電・節水などに心がけていました。
   私が過去40年間に見聞きしたことを回顧しますと、現代文明の豊かさ・便利さの中で生活するようになった多くの修道者は、どこまで許されており何が禁止されているかという規則にだけ心を向けて、大きな愛をもって私たちに期待し、私たちを助けようとしておられる神のパーソナルな愛や御旨には、ほとんど注目していないように見えます。これは、2千年前に主イエスが身をもってお示しになった生き方ではなく、主が厳しく批判なされた規則中心のファリサイ的生き方に近いと思われます。そこには、神に対する幼子のような純真な愛が生きていませんから。世間の常識のままに水や電気を存分に消費していた修道者たちが、次々と召し出しを失ったり病気になったりした実例があまりにも多いように思います。神からの召命に留まり続けて豊かな実を結ぶには、規則遵守だけではなく、何よりも神のその時その時のパーソナルな愛の呼びかけや導きに心の眼を向けつつ、日々神への修道的献げを心を込めて証しする実践が、大切なのではないでしょうか。修道生活への召し出しは、神からの愛の呼びかけなのですから。

   本日の第二朗読で使徒パウロは、人間の理知的な頭では理解し難い神の定め・神の道の神秘について感嘆していますが、危機的現代の状況を賢明に無事生き抜くのにも、日々その神の導きに注目し、徹底的に従おうとする心がけが、一番大切なのではないでしょうか。また福音には、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、私の天の父なのだ」という主の御言葉が読まれます。その天の御父は今も、時として私たちの心をご自身の道具のように使って下さいます。全てを自分で考え、神のためにも自分の好きなように全てをしようとするのではなく、自分の心を神の御手にある粘土や道具のように考えて、神の霊にご自由に使ってもらいながら生きようとするのが、現代の複雑多難な危機を無事に生き抜く一番賢明な生き方なのではないでしょうか。私たちが人間の企画中心主義にならないよう警戒し、神の御旨中心の「委ねと従順の精神で」現代の危機を無事生き抜くことができますよう、照らしと恵みを願い求めながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。