2014年8月15日金曜日

説教集A2011年:8月聖母の被昇天(三ケ日)

第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節
福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

   本日の集会祈願では、汚れのない聖母マリアの体も魂も天の栄光に上げられた神に、信じる民も聖母と共に永遠の喜びに入ることができますように、と願っており、奉納祈願でも拝領祈願でも、そのための聖母の取り次ぎを願っています。体ごとあの世の栄光に上げられた聖母は、確かに私たちの将来の幸せな姿を予告しており、私たちの希望と憧れの的でもあります。しかし本日は、天に上げられたその聖母の少し違うお姿について、皆様とご一緒に考えてみたいと思います。

   この世で神に忠実な清い生活をなし、小さな罪の償いまでも果たして帰天した聖人たちの霊魂は、天国に迎え入れられても、世の終わりに主イエスが栄光の内に再臨して全ての人が復活するまでは、まだ肉体を持たない状態、すなわち人間としては死の状態に留まっていますので、13世紀の偉大な神学者聖トマス・アクィヌスの考えでは、神から創られた人間本来の認識や活動ができない状態にあって、復活の日を待たされているのだそうです。霊魂は生きていますので、この世で体験した事柄の記憶は生前よりは遥かに明確に残っており、この世で親しくしていた人たちの思い出や、自分の為した善業や罪のことも忘れずにいると思います。としますと、この世にいる家族や知人たちの祈りは神を介して受け止め、自分に助けを祈り求める人たちのため神に取り次いで必要な助けを祈り求めることや、生前に自分と知り合った人たちの幸せを祈り求めることはできても、今の社会の新しい歴史的動向やその中で生きる無数の人たちの心の状態などを人間的認識能力で知ることも、それに対する行動を取ることもできずにいると思われます。

   ところが、永遠に死ぬことのないあの世の神の命に体ごと復活し、今も人間として生きておられる主イエスは、あの世の栄光の内にありながら、この世の歴史の動きを全て人間としても知っておられ、多くの人の救いのためにそれに対応する活動をなしておられると思います。主が最後の晩餐の時に話された数々の御言葉、たとえば「私はあなた方を孤児にはしておかない。私はあなた方の所に戻って来る」(ヨハネ14:18)などの御言葉や、マタイ福音書の最後に記されている「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」などのお言葉は、このことを示していると思います。栄光の体に復活なされた主は今も、新たな形でこの物質世界に受肉して目に見えないながら実際に私たちの間に生きる霊的人間として現存し、全人類を永遠の救いへと導きつつあり、私たち各人の生活をも、必要に応じて助け導いて下さるのです。信仰のない所に主は何もお出来になりません。しかし、この信仰と愛を持っている人たちは、度々小刻みに実際に主の導きや助けを体験しています。それは福者マザー・テレサの残された言葉や、その他の多くの聖人たちの言葉の中に現れていますが、小さいながら信仰に生きる私も、主からのそのような導きや助けを小刻みに数多く体験しています。

   体ごと天に上げられた聖母マリアも、世の終わりまでの主イエスのこのお働きに、母の心をもって参加するよう神によって特別に召されたのだと思います。40数年前に開催された第二ヴァチカン公会議は、教会憲章の第8章に聖母マリアについてかなり詳しく述べていますが、聖母マリアは恩寵の世界において我々の母であると明記し、教会教導職が代々勧めて来たマリアに対する信心業を重んずることや、我らの母を子どもとして愛し、母の徳を模倣することなどを勧めています。聖母マリアは、世の終りの復活の日まで肉体を持たない無数の聖人たちとは異なり、復活なされた主イエスと同様に実際にこの世の人類史の全てを細かく見ておられ、全ての人の救いのために涙を流しながら祈ったり助け導いたりしておられる、全人類の霊的母であると信じます。古代末期にも中世にも、聖母に祈ってその助けを体験した人は数知れず、それを記念したと思われる聖母の巡礼所や巡礼聖堂はヨーロッパに非常に多く残っています。天に上げられた聖母は、大きな過渡期の混乱と不安の中に生きている私たち人類に、何かをしきりに訴えておられると思います。終戦記念日にあたり、祈りの内にその聖母の「声なき声」に心の耳を傾け、武力に頼らない、思いやりと奉仕の愛に根ざした真の平和が人類社会の各国で実現するよう、神によって主イエスと共に今もこの世に霊的人間として生きておられる聖母の取り次ぎを願って祈り求めましょう。