2014年8月31日日曜日

説教集A2011年:第22主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願448 叙唱578~>
 第1朗読  エレミヤ書 20章7節~9節
 答唱詩編  10(1, 2, 3)(詩編 63・2, 3+4, 5+6)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 12章1節~2節
 アレルヤ唱 272(22A)(エフェソ1・17+18)
 福音朗読  マタイによる福音書 16章21節~27節

   本日の第一朗読は「エレミヤの告白」と呼ばれている個所の一つで、神が告げるようお命じになった御言葉を告げたために、ダビデ王になされた神の約束に基づいて、神の都エルサレムとその神殿は滅びることがないと信じていたユダヤ人たちから激しく非難され迫害されたエレミヤが、神にその苦しみを訴えた嘆きの言葉であります。もう「主の名を口にすまい、その名によって語るまい」と思っても、神の御言葉は預言者の心の中で火のように燃え上がり、エレミヤはそれを抑えることに疲れ果てて、どれ程人々から迫害されようとも、神よりの厳しい警告の言葉を語らざるを得なかったようです。

   この預言者の苦しみと似たような苦しみを感じている人たちは、現代のキリスト教会の中にもいるかも知れません。日本のカトリック新聞や一般のマスコミは殆ど伝えていない教会内部の微妙な霊的変化ですが、ドイツのカトリック教会もプロテスタントの諸教会も、私が第二ヴァチカン公会議の前後頃に毎年のように訪れて目撃して来た信仰の意欲も活気も失って、最近では教会を批判し避難するマスコミの前に、多くの司教たちも牧師たちも弱腰になっているようです。そして教会という組織から公然と離脱して教会維持費を納めなくなる信徒も年々激増しているそうです。一部ではそのような非キリスト教化に反発して、ヨーロッパを新たにキリスト教化しようとする、若者や中堅層の熱心な動きも見られるそうですが、人数の上ではまだまだ限られていて、その建設的な動きからは大きな期待が持てないようですし、その間にも司祭の高齢化や司祭不足などの理由で、止むなく閉鎖される教会は少なくないようです。このキリスト教衰微の傾向はドイツだけではなく、ヨーロッパの他の国々でも生じているようですが、こうして千数百年の伝統ある輝かしいキリスト教が、次第にヨーロッパ世界から消えて行くのを見るのは、今のドイツ人教皇にとって本当に苦しい負け戦かも知れません。

   昨年のカトリック教会の統計を見ますと、欧米での司祭修道者の召命は激減していますが、アジア・アフリカ人の司祭修道者数は増えていますので、まだ公会議前の数値には達していませんが、アジア・アフリカでの召命が増え続けるなら、何とか欧米人の司祭修道者の不足をカバーできるかも知れません。しかし、先週神言会の中国人神学生の一人が急に中国に帰国するというので、その送別会に出席し席上で尋ねてみましたら、急速に豊かになりつつある今の新しい中国では、国家から公認されていないカトリック神学校でも神学生数が最近激減しているのだそうです。それを聞いて、昨年司祭に叙階されて今日本で活躍し始めている中国人司祭たちも、その内にいつか中国に呼び戻される時が来るかも知れないと思いました。ヨーロッパでも歴史的にはカトリック者に対する迫害や圧力が消えて社会が豊かになると、司祭修道者の召命が激減していますので、これからはアジア・アフリカの諸国でも、現代文明の普及で社会全体が豊かになり始めると、司祭修道者の召命が激減するようになるかも知れません。

   2千年前にユダヤ教の伝統にこだわって、その伝統的人間的な価値観を無視し神の新しい価値観を広める主イエスを断罪したユダヤ教会が、神から退けられてエルサレム滅亡という天罰を受けたように、現代のカトリック教会もこれまでのように人間の産み出す企画を中心とした伝統の外的改革などに拘り続けると、現代世界のための神の新しい働きについて行けずに、天罰を受けることになるかも知れません。このような大きな過渡期には、既定の様々な規則よりもその時その時の神の導きを鋭敏に感知してそれに従おうとする、謙虚な心の精神が何よりも大切だと思います。これ迄の各種宗教の伝統が神によって大きく崩されると思われるこれからの時代には、神の新しい導きに積極的に従おうとする、謙虚な僕・婢の精神で生きるように心掛けましょう。

   本日の福音の後半に、「神のことを思わず、人間の事を思っている」とペトロを公然と叱責なされた主イエスは、「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。云々」と勧めておられます。私たちはこの世での限られた経験や学習から、どこにでも通用する普遍的真理や原理を学び取ろうとする「理性」という能力を神から戴いています。それは、何よりもこの世で幸せに生活するため知識や技術を取得するための能力ですが、神の存在や働きまでも推測できる程の真に優れた能力であります。しかし、経験や学習の不備不完全から、原罪によって暗く複雑な世界にされているこの世では誤りに陥ることも多く、特にあの世の真理やあの世からの招き・導きなどについては、感知するセンスに欠けています。でも神はもう一つ、私たちの心の奥底にあの世の神に対する憧れと愛という、もっと優れた知性的な信仰の能力も植え付けて下さいました。

   これは、私たちの心がこの世に生を受けた時から本能的に持っている能力で、親兄弟や友人・隣人を介して神から与えられる愛のこもった保護・導き・訓練などを素直に受け止めそれに従おうとしていると、神の恵みによって目覚め、芽を出し、逞しく成長し始める生き物のような能力です。ここで言う「信仰」は、聖書にpistis(信頼)と表現されている、神の導き・働きへの信頼とお任せと従順の心で、自分で自主的に真偽・正邪を決定したり行動したりする人間主導の能力ではありません。ですから主は、福音の中でそういう人間主導の「自分」というものを捨てて、ご自身に従って来るよう強調しておられるのです。各人の心の奥底に植え込まれている神へのこのpistis(信頼・信仰)が大きく成長しますと、そこに神の愛・神の霊が働いて多くのことを悟らせて下さるだけではなく、また豊かな実を結ばせて下さいます。神の霊に従って生きようとする心が、何よりも大切だと思います。主がぺトロを「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責なされたのは、この世の人間主導の「古いアダム」の生き方に死んで、神の御旨中心の新しい生き方へと目覚めさせ、強く引き入れるためだったのではないでしょうか。


   使徒パウロは本日の第二朗読の中で「この世に倣ってはなりません」と書いていますが、この世の知恵や人間中心の生き方を捨てて、神よりの声などには関心がなく、それに従おうとしていない現代のマスコミの価値観にも警戒しつつ、愛する主なる牧者の声に素直に聞き従う無学な羊たちのように生きようとするなら、主キリストがその人の知恵となり、神の祝福を天から豊かに呼び降して下さるのではないでしょうか。自分のこの世の人生を神へのいけにえとして献げながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。