2014年7月27日日曜日

説教集A2011年:第17主日(三ケ日)



第1朗読 列王記上 3章5、7~12節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章28~30節
福音朗読 マタイによる福音書 13章44~52節

   本日の第一朗読は、ダビデの王位を継承したソロモン王が、エルサレムの北10キロ程のギブオンのカナアン人が神に祈っていた高台で、太祖アブラハムの神にいけにえをささげて祈った後の話であります。その夜、主がソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」とおっしゃったので、ソロモンは民からの訴えを正しく聞き分ける心の知恵を願いました。長寿や富や敵に対する勝利などではなく、心の知恵を願ったことをお喜びになった神は、「今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」とおっしゃり、実際に驚く程優れた知恵をお与えになったようです。以前にもここでの説教で申したことですが、ソロモン王はこの知恵によって、ネゲブ砂漠の南部、紅海のアカバ湾に近い地方一帯から、鉄と銅の大鉱脈を発見したり、古代オリエントで最大の大溶鉱炉を造ったり、フェニキア人技師たちの協力を得て、遠洋航海用の大船10隻を建造し、フェニキア人の船長たちを雇って南アフリカのOphirの国と貿易をしたりしました。そして当時のオリエントで最も豊かな国王となり、15万人の労働者を7年間働かせて、豪華なエルサレム神殿と自分の王宮を建設させています。しかし、その大きな富故に周辺諸国の国王たちから王女を贈られ、異教の儀式にも参加したり協力したりして神信仰の清さを失い、最後に厳しい天罰を受けるに到りました。

   主イエスは「神と富とに仕えることはできない」とおっしゃいました。暮らしが豊かになればなる程、神の声なき声、神の導きの声に対する一層厳しい従順心が大切になると思います。私たちも気を付けましょう。主イエスや聖母マリアの御模範に見習う私たちキリスト者は皆神の僕・婢であり、神の羊の群れのような存在であります。僕・婢にとって一番大切なのは、主人からのその時その時の御指図を正しく聞き分け、それを実行することであり、個々の羊にとって大切なのは、自分の牧者の声を聞き分けてその声に従って行くことであります。豊かになったソロモン王は、日々その内心でお語りになる神の小さな導きの声を正しく聞き分ける訓練を怠り、外の世界の動きや集めた富の利用にばかり、心の眼を向けていたのではないでしょうか。高度に発達した現代技術文明のお蔭で比較的豊かに生活している私たちも、気をつけましょう。心の奥に現存しておられる神の御声を聞き洩らさないように。日々その御声を正しく聞き分ける恵みを、謙虚に祈り求めましょう。正しく聞き分ける心の能力は、日々小さな事でその御声に忠実に聞き従うことによって磨かれ、身に着いたものになることも心に銘記致しましょう。

   本日の第二朗読には、「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く」という言葉が読まれます。これは、数多くの体験に基づく使徒パウロの確信だと思います。しかし、ここで言われている「万事」という言葉には、喜ばしい成功や幸運だけではなく、悲しい失敗や日々の労苦、災害・貧困などの、耐えがたい苦しみも含まれていると思います。神はご自分を愛する者たちを、「御子の姿に似たものにしようと」それらの苦しみをもお与え下さるのです。ソロモン王のように成功から成功へ、豊かさから豊かさへの道を歩んでいますと、日々神を崇め神に感謝していても、悪魔が夜に蒔いた毒麦が成長して、心がそれらに取り囲まれ覆いふさがれた時、それらに打ち勝つ力を失ってしまいます。神が日々お与え下さる小さな労苦・失敗・対立・苦難などにも感謝し、それらを喜んで耐え忍ぶよう心がけましょう。それらの苦しみや煩わしさ・無料奉仕などの内に、神からの貴重な恵みがそっと隠され、私たちの心に提供されていると思います。ですから、ある聖人は「苦しみは第八の秘跡である」と教えています。

   悪魔は、伝統的共同体精神が内面から崩れつつある、現代の自由主義・個人主義横行社会の中で、昔とは比較できない程積極的に毒麦の種を蒔いていると思います。豊かさ便利さの中に生まれ育ち、自分の心の欲求や自主権にだけ眼を向けていますと、人前ではまじめに生活し、良い人間と思われていても、突然悪魔がその心に乗り移り思わぬ犯罪をさせることも起こり得ます。キリスト時代のオリエントでも、商工業の繁栄で人口移動が盛んになり、自由主義・個人主義の精神が広まると、社会的には立派な家庭と思われている家の子供に、放蕩息子のような欲求が芽を出したり、マグダラのマリアのように、心が七つの悪魔に乗り移られたりする人たちが珍しくなかったのではないでしょうか。現代人の心にも、悪魔たちはキリスト時代と同様に、夜に毒麦の種を蒔いていると思います。数々の思わぬ悲劇も激増しています。キリスト時代に繁栄していたコリントやエフェソの港町が、ゲルマン民族大移動の始まる前の5世紀に大地震と津波によって一斉に廃虚と化したのは、この世の人間中心主義に対する神からの天罰だったのではないでしょうか。ギリシャを見物した時に気付いたのですが、古代のコリントやエフェソなどの港町の廃虚が、今の町とは少し離れた所から発掘されているのは、その巨大な自然災害によって廃虚とされたからだと思います。現代社会も早く生き方の基本を根本的に変えないと、同様の天罰を受けるのではないかと恐れます。

   本日の福音に述べられている「畑に隠されている宝」や「高価な真珠」は、神からの恵みの力を意味していると思います。人目に隠れている神の働きや現存に目覚め、神の力にしっかりと結ばれて、神の御旨中心に生きようとしている魚たちは、心に悪魔からの毒を宿す魚たちと一緒に同じ海を泳ぎまわっていても、世の終わりの時天使たちによって天の国へと導き入れられるでしょうが、そうでない魚たちは恐ろしい火に投げ込まれることでしょう。近年時々不可解な事件が多発しているのは、その時が近づいて来ているという一つの兆しかも知れません。私たちも悪魔の策動に欺かれたり陥れられたりしないように警戒し、日々何よりも神の導きや働きに結ばれて生活するよう、心掛けていましょう。

2014年7月20日日曜日

説教集A2011年:第16主日(三ケ日)



第1朗読 知恵の書 12章13、16~19節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章26~27節
福音朗読 マタイによる福音書 13章24~30節

  本日の第一朗読は、紀元前1世紀の頃にアレキサンドリアで書かれたと思われる知恵の書からの引用ですが、ギリシャ人が支配し、多くの有能なユダヤ人たちがそれに協力していた当時のエジプトの文化都市アレキサンドリアは、現代の多くの国際都市と同様、多民族都市になりつつあったようです。文化的伝統も信仰もそれぞれ異なる人たちが一緒に生活し、助け合いながら社会を造っている所で大切なのは、自民族の伝統的文化だけ囚われない、思いやりと寛容の精神だと思います。それ以前の旧約時代には神の民としての誇りと選民意識を堅持していたユダヤ人たちも、旧約末期にアレキサンドリアで生活するようになったら、伝統的な律法や規則遵守の中でだけ神の働きを見ていた生き方から少し自由になって、18節に読まれるように「寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもって」相異なる文化の人たちを治めておられる、神の新しい働き方に目覚めたようです。本日の第一朗読は、神のその働き方に新しく目覚めた人によって書かれたと思われます。
  この朗読箇所の最後に、「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた」とありますが、ここで「人間」と言われているのは、同じ神信仰に生きる人たちよりは、むしろまだ神を信じていない人たちや異教徒たちを意味していると思います。続いて「こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」とある言葉も、現代に生きる私たちにとって、特に自分の受け継いだ一神教に大きな誇りを抱いているキリスト者・ユダヤ教徒・イスラム教徒にとって大切だと思います。その受け継いだ伝統的生き方だけに狭く立てこもり、信仰の異なる人たちへの献身的奉仕や、彼らと寛大な精神で共存し、平和な社会を築くようにという神の新しいお導きを無視するなら、私たちは神に背いて文化対立・民族対立の新しい恐ろしい罪を犯すことになり、神からも見捨てられる絶望的道を歩むことになると思います。全ての人間に対する開いた温かい心に励み、そんな心の狭い罪からの回心に心がけましょう。
  本日の第二朗読は、私たちの心の中での神の霊の祈りと働きについて教えています。現代の複雑なグローバル社会の中で、私たちはしばしば何をどう受け止め、どう祈るべきかを知りませんが、神の霊が御自ら私たち各人の心の中で、「言葉で表現できないうめきをもって(私たちのために)執り成して下さいます」。何よりもその霊の祈りや働きにより頼み、霊の導きを識別してそれに従うことに努めていましょう。自分の理知的人間的な考えや何かの画一的な法規を第一にして生きようとはせずに、超越的な神の御旨、神の霊の新しい自由なお導き中心のこのような信仰生活は、現代の私たちにとって大切だと思います。
  本日の福音は、毒麦のたとえ話とそれについての主の解説ですが、「毒麦」と邦訳されている、小麦によく似た雑草は、精神的には現代人の心の中に、真面目な信仰者の心の中にも、恐ろしい程たくさんばら撒かれていると思います。主の解説によりますと、悪魔が夜の間にその種を蒔くようです。近年は、以前には誰も想定できなかったような不祥事件が増え、犠牲者も激増しています。そういう犯罪に走るような人間を、社会から徹底的に排除しようとしても、昔のある程度画一的な共同体組織や共同体精神が崩壊し、個人主義精神や便利な文明の利器がこれほど広く各人の生活の中に普及している時代には、もう十全な成果をあげることができません。既に大きくなっている無数の隠れた毒麦たちと共存しながら、その毒に侵されないよう各人が十分に警戒し、毒麦たちに負けずに良い実を豊かに結ぶよう戦うこと、それが、現代のような時代に生き抜く道だと思います。
  主はこの毒麦のたとえ話と並べて、辛子種のたとえ話とパン種のたとえ話もなさいました。天の国、すなわち神によって蒔かれたあの世的命の種は、外的この世的には小さくて隠れていても、どんな毒麦にも負けない逞しい強大な力を備えています。この世の人間的共同体組織が次第に統率力を失って、内面から崩壊しつつある現代のような時代には、隠れて現存しておられる神の働きに心の眼を向け、神の霊の働きを識別しながら、直接その霊の導きに従って生きようとする新しい信仰生活に転向するのが神のお望みであり、最も安全にまた幸せに生きる道であり、神の力によって豊かな実を結ぶ道なのではないでしょうか。神の霊は、人間社会の共同体組織が弱体化して自分の無力に悩む人が激増している、現代のような自由主義・個人主義の時代にこそ、信仰に目覚める人たちに新しい救いへの道を示そうと、声なき声で積極的に呼び掛けたり働きかけたりしておられると思います。一人でも多くの人がそれぞれ自分なりにその道を見出し、神の御子と内的に深く結ばれる存在に高められるよう、神の照らしと導き・助けを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと存じます。

2014年7月13日日曜日

説教集A2011年:2011年間第15主日(三ケ日)


第1朗読 イザヤ書 55章10~11節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章18~23節
福音朗読 マタイによる福音書 13章1~23節

  本日の第一朗読は、バビロン捕囚時代の神の民に預言者を介して神による祝福と捕囚からの解放とを告げた神のお言葉ですが、私たち人間の言葉とは違って、神の口から出るお言葉には、この世の事物や生命を生かす力と使命が込められていると明言されています。このことは、神よりの全ての言葉について言われている、と受け止めてよいと思います。特に人となってこの世にお生まれになった神のロゴス、そして死後もあの世の命に復活して世の終わりまで私たちと共にいて下さる神のロゴス、復活の主キリストは、私たち被造物を生かす力と使命を持つ、そのような神の御言葉だと思います。その御言葉は、私たちが日々献げているミサ聖祭の中ではパンの形で現存して下さいます。神の力、神の言葉自体はこの世の体の目には見えませんが、しかし、神からの生きている力、ロゴスがここに私たちの中で働く使命を持って現存していることを信じましょう。そして感謝と従順の心でその神の御言葉を拝領しましょう。私たちがこの信仰に留まり続けるなら、神の御言葉は必ず働いて下さいます。今は信仰・希望・従順の時ですから、今すぐにその働きを見ることはできませんが、ずーっと後になって自分の人生体験を振り返る時、私たちは神の御言葉が実際に自分の人生の中で働いて下さったことを確信することでしょう。

  本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「被造物は、神の子らの現れるのを切に待ち望んでいます」と説いていますが、ここで言われている「神の子ら」は、信仰と愛の内に神の子メシアの命に参与している私たち人間を指しています。外的自然的には私たちは皆小さな弱い存在です。数々の罪科や欠点に覆われ、汚れている粘土のような存在かも知れません。しかし、神から受けた信仰の眼をもって、この汚れた粘土のような存在を振り返る時、そこには恐ろしい程大きな生命力を備えた神のロゴス・神の御言葉が根を下ろしています。この超自然的真実を見逃さないよう努めましょう。私たちが肉の心で生きることなく、神の霊の心で生きるよう心掛けるなら、神の子メシアの命が私たちの中で、私たちを通して無数の被造物の救いのために働いて下さいます。多くの被造物、信仰を知らない人々や無数の事物は虚無に隷属させられて苦しみ、うめいていますが、メシアの救う力が神の子らを介して世に現れ出るのを、切に待ち焦がれているのではないでしょうか。メシアの命の根を宿している私たちは、外的人間的にはどれ程小さく無力でも、その救う力の生きている道具であると思います。この世の小さな自分の生活の事よりも、もっと自分の存在の中での神の御言葉に心の眼を向け、祈りと愛と従順の実践により、その御言葉が多くの被造物のために働き出すのに協力しましょう。

  この三ケ日の修道院では、毎年夏の夜に煩いほど蛙の鳴き声を耳に致しますが、あの蛙たちは自らの内に体温を調節する能力がなく、外界の温度に合わせて自分の体内温度を変化させて行く「変温動物」だそうです。そんな蛙を水を入れた釜の中に入れてゆっくりと釜の温度をあげて行くと、逃げ出さずに釜の中で茹であがってしまうまで、そのままじっとしていると聞きます。すなわち自分では死んでしまうと気づかないままに、死んでしまうようです。それを聞いて、私たち現代人も現代文明社会の様々な新しい好ましい変化に自分の生活や自分の生き方を合わせて行く内に、思いがけない怖ろしい不安と不幸の滝壷へと流されているのではないでしょうか。私たちが現代文明の様々な不備やマイナス面に目覚めて、全てを神のロゴス、復活の主キリストのお導きやお働きに従って生きる道はまだ残されております。神は、私たちがその道を歩み続けるよう強く望んでおられると信じます。

  本日の福音は、主イエスがお語りになった「種蒔く人」の譬話ですが、主が弟子たちの質問に答えて解説なさった話から察しますと、蒔かれた種はあの世の神の救う力を宿した神の御言葉のようです。その御言葉はこの世的な実を結ぶものではないので、この世の社会やこの世の成功にだけ心を向けている人は、聞いても心で理解できず、悔い改めようともしません。主が「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人である」などと、蒔かれた種とその人とを一緒にして話しておられるのは、注目に値します。私たちの奥底の心は、神の御言葉の種を宿す単なる土壌ではなく、あの世の命の種を宿すことにより、その種と一つになってあの世的存在へと次第に変革される生き物なのではないでしょうか。神の働きに従おうとする精神に欠けている下心の土壌では、折角蒔かれた恵みの種も根を下ろすことができずに枯れてしまいます。またこの世の思い煩いや富にあまりにも囚われている下心の土壌では、恵みの種は実を結ぶことができません。しかし、神の霊の働きに忠実に従おうと祈っている心の中では、神の種はその忠実さの度合に応じて豊かな実を結び、その心自体もますます神の子に似た者に変革され、あの世的存在に高められて行くのではないでしょうか。私たちも皆、そうなりたいものです。そのための照らしと恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2014年7月6日日曜日

説教集A2011年:2011年間第14主日(三ケ日)



第1朗読 ゼカリヤ書 9章9~10節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章9、11~13節
福音朗読 マタイによる福音書 11章25~30節

  本日の第一朗読の出典であるゼカリヤの預言書は14章から成っていて、前半の1章から8章には、八つの神秘的幻と共に、世界の諸国民の憧れの的となるエルサレムの将来について予告されています。そして9章以降の後半には、主が来臨なされた後の諸国民や悪い羊飼いたちへの裁き、並びにエルサレムの救いと浄化などについての預言が読まれます。本日の第一朗読はその第9章の中ほどにある、主のエルサム入城についての預言であり、その言葉は、マタイ21章やヨハネ12章にも、部分的に引用されています。

  本日の第二朗読であるローマ書8章には、霊と肉、霊の法則と肉の法則とが敵対関係にあることが詳述されていますが、ここで「肉」や「肉の法則」とある言葉は、罪を犯した人祖アダムから受け継いだ命とその古いアダムの精神を指しており、「霊」あるいは「霊の法則」とあるのは、ご自身の受難死によってその罪を浄化し、新しい超自然の命に復活なされた主キリストの命と、その命に宿る神の聖霊を指していると思います。使徒はこのローマ書8章の始めに、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません。キリスト・イエスによって命を齎す霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです」と述べています。本日の朗読箇所も、古いアダムの自然的命から受け継いだ、罪と死の法則から解放された者の立場で理解するように致しましょう。

  そこに述べられている「肉に従って生きる」という言葉を、私は非常に広い意味で理解しています。例えば、戦争中の節約時代の教育を受けて育った私は、7年間のヨーロッパ留学から帰国して、40数年前の高度成長期の日本人の豊かな生活ぶりを目撃した時、水にしろ電気にしろこんなに浪費するのは神に清貧を誓った私の生き方ではない。他の人たちはどう生きようと、私は神に心の眼を向けながら節水・節電に心がけようと、清貧の決心を新たにしました。「贅沢は美徳、経済を発展させるから」などと言われていたあの豊かな時代に生きる人たちには、時代遅れの人間と思われていたでしょう。しかしここ三十数年間、水も電気もその他の資源も惜しげもなく使い果たしていた人たちが、病気には勝てずに、病床で様々の節制を強要されて死んで行くのを見るにつけ、過ぎ行く今の世の資金や事物を価値評価の基準にして贅沢に生活するのは、使徒パウロの言う「肉に従って生きる」ことではないのか、と思うようになりました。神は私たちの日常茶飯事の小さな行為を、隠れた所から見ておられるように思います。その神に信仰の眼を向けながら、日々小さな奉仕、小さな忍耐を喜んで献げましょう。神はそのような小さな者を特別に愛して、護り導いて下さると信じます。

  本日の福音の中で主イエスは、「天地の主なる父よ、あなたを褒め称えます」という言葉で、この世の知恵ある者や賢い者たちに隠されており、幼子のような者たちに示されている、「霊に従う」生き方の秘訣について話しておられます。幼子は、世の知者や賢者たちのように、この世の人間社会を基準にして善悪・損得を評価しません。何よりも自分を愛し守り支えてくれている身近の方にしっかりと捉まり、その方のお考えや導きに従っていようとします。神も、愛と信仰のうちにひたすらご自身に従って生きようとしている幼子のような弱者たちに、真の知恵と必要な力とを次々と与えて下さる方だと思います。

  主はその話の後半に、「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私の下に来なさい」と招き、「私のくびきを負い、私に学びなさい」と勧めています。くびきは牛などの家畜を二頭並べて繋ぐ木造の道具で、ここでは内的に主イエスと並んで、自分に課せられている生活の重荷をいっしょに担うことを意味していると思います。私たちが日々ご聖体を拝領するのは、主と内的に一致して、神の御前に生きる生き方をするためなのではないでしょうか。主と並んで同じくびきを担うとは、この世の肉的な価値観を放棄し、何よりも神の御旨・神の愛に心の眼を向けながら、自分に与えられている全てのものを大切に利用しつつ、生きることを意味していると思います。それが、私たちの心に本当の安らぎを与えてくれる生き方だと信じます。私たちが主と共に、この新しい生き方に徹して忠実に生きることができますように神の助けを願って、本日のミサ聖祭を献げましょう。