2014年7月6日日曜日

説教集A2011年:2011年間第14主日(三ケ日)



第1朗読 ゼカリヤ書 9章9~10節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章9、11~13節
福音朗読 マタイによる福音書 11章25~30節

  本日の第一朗読の出典であるゼカリヤの預言書は14章から成っていて、前半の1章から8章には、八つの神秘的幻と共に、世界の諸国民の憧れの的となるエルサレムの将来について予告されています。そして9章以降の後半には、主が来臨なされた後の諸国民や悪い羊飼いたちへの裁き、並びにエルサレムの救いと浄化などについての預言が読まれます。本日の第一朗読はその第9章の中ほどにある、主のエルサム入城についての預言であり、その言葉は、マタイ21章やヨハネ12章にも、部分的に引用されています。

  本日の第二朗読であるローマ書8章には、霊と肉、霊の法則と肉の法則とが敵対関係にあることが詳述されていますが、ここで「肉」や「肉の法則」とある言葉は、罪を犯した人祖アダムから受け継いだ命とその古いアダムの精神を指しており、「霊」あるいは「霊の法則」とあるのは、ご自身の受難死によってその罪を浄化し、新しい超自然の命に復活なされた主キリストの命と、その命に宿る神の聖霊を指していると思います。使徒はこのローマ書8章の始めに、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません。キリスト・イエスによって命を齎す霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです」と述べています。本日の朗読箇所も、古いアダムの自然的命から受け継いだ、罪と死の法則から解放された者の立場で理解するように致しましょう。

  そこに述べられている「肉に従って生きる」という言葉を、私は非常に広い意味で理解しています。例えば、戦争中の節約時代の教育を受けて育った私は、7年間のヨーロッパ留学から帰国して、40数年前の高度成長期の日本人の豊かな生活ぶりを目撃した時、水にしろ電気にしろこんなに浪費するのは神に清貧を誓った私の生き方ではない。他の人たちはどう生きようと、私は神に心の眼を向けながら節水・節電に心がけようと、清貧の決心を新たにしました。「贅沢は美徳、経済を発展させるから」などと言われていたあの豊かな時代に生きる人たちには、時代遅れの人間と思われていたでしょう。しかしここ三十数年間、水も電気もその他の資源も惜しげもなく使い果たしていた人たちが、病気には勝てずに、病床で様々の節制を強要されて死んで行くのを見るにつけ、過ぎ行く今の世の資金や事物を価値評価の基準にして贅沢に生活するのは、使徒パウロの言う「肉に従って生きる」ことではないのか、と思うようになりました。神は私たちの日常茶飯事の小さな行為を、隠れた所から見ておられるように思います。その神に信仰の眼を向けながら、日々小さな奉仕、小さな忍耐を喜んで献げましょう。神はそのような小さな者を特別に愛して、護り導いて下さると信じます。

  本日の福音の中で主イエスは、「天地の主なる父よ、あなたを褒め称えます」という言葉で、この世の知恵ある者や賢い者たちに隠されており、幼子のような者たちに示されている、「霊に従う」生き方の秘訣について話しておられます。幼子は、世の知者や賢者たちのように、この世の人間社会を基準にして善悪・損得を評価しません。何よりも自分を愛し守り支えてくれている身近の方にしっかりと捉まり、その方のお考えや導きに従っていようとします。神も、愛と信仰のうちにひたすらご自身に従って生きようとしている幼子のような弱者たちに、真の知恵と必要な力とを次々と与えて下さる方だと思います。

  主はその話の後半に、「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私の下に来なさい」と招き、「私のくびきを負い、私に学びなさい」と勧めています。くびきは牛などの家畜を二頭並べて繋ぐ木造の道具で、ここでは内的に主イエスと並んで、自分に課せられている生活の重荷をいっしょに担うことを意味していると思います。私たちが日々ご聖体を拝領するのは、主と内的に一致して、神の御前に生きる生き方をするためなのではないでしょうか。主と並んで同じくびきを担うとは、この世の肉的な価値観を放棄し、何よりも神の御旨・神の愛に心の眼を向けながら、自分に与えられている全てのものを大切に利用しつつ、生きることを意味していると思います。それが、私たちの心に本当の安らぎを与えてくれる生き方だと信じます。私たちが主と共に、この新しい生き方に徹して忠実に生きることができますように神の助けを願って、本日のミサ聖祭を献げましょう。