2014年7月20日日曜日

説教集A2011年:第16主日(三ケ日)



第1朗読 知恵の書 12章13、16~19節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章26~27節
福音朗読 マタイによる福音書 13章24~30節

  本日の第一朗読は、紀元前1世紀の頃にアレキサンドリアで書かれたと思われる知恵の書からの引用ですが、ギリシャ人が支配し、多くの有能なユダヤ人たちがそれに協力していた当時のエジプトの文化都市アレキサンドリアは、現代の多くの国際都市と同様、多民族都市になりつつあったようです。文化的伝統も信仰もそれぞれ異なる人たちが一緒に生活し、助け合いながら社会を造っている所で大切なのは、自民族の伝統的文化だけ囚われない、思いやりと寛容の精神だと思います。それ以前の旧約時代には神の民としての誇りと選民意識を堅持していたユダヤ人たちも、旧約末期にアレキサンドリアで生活するようになったら、伝統的な律法や規則遵守の中でだけ神の働きを見ていた生き方から少し自由になって、18節に読まれるように「寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもって」相異なる文化の人たちを治めておられる、神の新しい働き方に目覚めたようです。本日の第一朗読は、神のその働き方に新しく目覚めた人によって書かれたと思われます。
  この朗読箇所の最後に、「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた」とありますが、ここで「人間」と言われているのは、同じ神信仰に生きる人たちよりは、むしろまだ神を信じていない人たちや異教徒たちを意味していると思います。続いて「こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」とある言葉も、現代に生きる私たちにとって、特に自分の受け継いだ一神教に大きな誇りを抱いているキリスト者・ユダヤ教徒・イスラム教徒にとって大切だと思います。その受け継いだ伝統的生き方だけに狭く立てこもり、信仰の異なる人たちへの献身的奉仕や、彼らと寛大な精神で共存し、平和な社会を築くようにという神の新しいお導きを無視するなら、私たちは神に背いて文化対立・民族対立の新しい恐ろしい罪を犯すことになり、神からも見捨てられる絶望的道を歩むことになると思います。全ての人間に対する開いた温かい心に励み、そんな心の狭い罪からの回心に心がけましょう。
  本日の第二朗読は、私たちの心の中での神の霊の祈りと働きについて教えています。現代の複雑なグローバル社会の中で、私たちはしばしば何をどう受け止め、どう祈るべきかを知りませんが、神の霊が御自ら私たち各人の心の中で、「言葉で表現できないうめきをもって(私たちのために)執り成して下さいます」。何よりもその霊の祈りや働きにより頼み、霊の導きを識別してそれに従うことに努めていましょう。自分の理知的人間的な考えや何かの画一的な法規を第一にして生きようとはせずに、超越的な神の御旨、神の霊の新しい自由なお導き中心のこのような信仰生活は、現代の私たちにとって大切だと思います。
  本日の福音は、毒麦のたとえ話とそれについての主の解説ですが、「毒麦」と邦訳されている、小麦によく似た雑草は、精神的には現代人の心の中に、真面目な信仰者の心の中にも、恐ろしい程たくさんばら撒かれていると思います。主の解説によりますと、悪魔が夜の間にその種を蒔くようです。近年は、以前には誰も想定できなかったような不祥事件が増え、犠牲者も激増しています。そういう犯罪に走るような人間を、社会から徹底的に排除しようとしても、昔のある程度画一的な共同体組織や共同体精神が崩壊し、個人主義精神や便利な文明の利器がこれほど広く各人の生活の中に普及している時代には、もう十全な成果をあげることができません。既に大きくなっている無数の隠れた毒麦たちと共存しながら、その毒に侵されないよう各人が十分に警戒し、毒麦たちに負けずに良い実を豊かに結ぶよう戦うこと、それが、現代のような時代に生き抜く道だと思います。
  主はこの毒麦のたとえ話と並べて、辛子種のたとえ話とパン種のたとえ話もなさいました。天の国、すなわち神によって蒔かれたあの世的命の種は、外的この世的には小さくて隠れていても、どんな毒麦にも負けない逞しい強大な力を備えています。この世の人間的共同体組織が次第に統率力を失って、内面から崩壊しつつある現代のような時代には、隠れて現存しておられる神の働きに心の眼を向け、神の霊の働きを識別しながら、直接その霊の導きに従って生きようとする新しい信仰生活に転向するのが神のお望みであり、最も安全にまた幸せに生きる道であり、神の力によって豊かな実を結ぶ道なのではないでしょうか。神の霊は、人間社会の共同体組織が弱体化して自分の無力に悩む人が激増している、現代のような自由主義・個人主義の時代にこそ、信仰に目覚める人たちに新しい救いへの道を示そうと、声なき声で積極的に呼び掛けたり働きかけたりしておられると思います。一人でも多くの人がそれぞれ自分なりにその道を見出し、神の御子と内的に深く結ばれる存在に高められるよう、神の照らしと導き・助けを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと存じます。